農業の合理化と都市計画事業

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昭和三十年代半ばにもなると、経済界の好況で長男や世帯主までが農作業を家族にまかせ、勤めにでる傾向が強まった。そのため、働き手は極度に不足し、農作業はいきおい主婦や子ども、老人が中心となっていた。離農傾向は長野市周辺の農村部がもっとも強く、善光寺平の農村では、農家一〇〇戸のうち、農業に従事する二〇歳代の男子青年はわずか四、五人、三〇歳代でも六、七人にすぎなかった。これでは農作業が間にあうはずもなく、動力耕運機などの機械化によって作業能率を上げていたが、作業によって機械化のおよばない田植え、りんごの摘花、袋かけなどは季節労働者に頼らざるをえなかった。絶対数の不足で季節労働者はあちこちから引っぱりだことなり、田植え労賃一日四、五百円はめすらしくなかった。県農協中央会のきめた賃金も一〇〇円以上うわ乗せしなければ見向きもされなかった。


写真48 耕運機の講習会

 昭和四十年(一九六五)の農業センサスの結果によれば、長野市では総世帯にしめる農家の割合は、ついに一九パーセントに低下した。また、農業就業人口も減り、農業従事者の高齢化と「三ちゃん農業」の傾向が強まっていた。地価はたえず高騰して農地は資産、老後を保障してくれる唯一の財産として位置づけられ、むやみに売却されることはなかった。さらに、経営内容は、果樹農業のしめる割合が高まってきており、都市周辺の農業の実態を表していた。


写真46 果樹農業が盛んになる

 こうした情勢にたいして、行政は生産性向上によって所得水準を引きあげるとともに、兼業化がすすんだ都市近郊農地を市街化区域と農業区域に分離・線引きし、兼業農家の農地を都市計画に組みいれて、市街化推進と営農の共存をはかろうとした。

 まず、国の農政は早くは三十年を境にして、農業構造自体を「近代化」する方向に踏みきった。三十一年に閣議は「新農山漁村建設総合対策要項」を策定し、補助金の打ちきりと融資への転換、適地適産主義(自給的農業から商業的農業への転換)をめざした。長野市も総合対策事業として計画策定地域に指定され、市内は、①旧長野市・安茂里、②古里・柳原・長沼・朝陽・大豆島、③若槻・浅川、④小田切・芋井の四地区に区分された。事業計画は、集荷所、畜舎など共同施設建設、簡易水道敷設などさまざまであったが、各地のおもな事業計画はつぎのとおりであった。往生地・安茂里地区や若槻・浅川地区には共同集荷所、スピードスプレーヤーなどにより、生産合理化をはかり、小田切・芋井地区では家畜の導入に力をいれて、乳牛の共同畜舎建設に取りかかった。また、長沼・大豆島等平坦地では農道、用水路などの土地整備が主体であった。


写真47 威力を発揮するスピードスプレーヤー

 昭和三十六年(一九六一)の農業基本法の制定に基づいて発足した農業構造改善事業は、他産業との所得格差を是正するため、農村の基盤整備と近代化をはかることを目的としていた。長野市では第一次事業について、三十八年度から松代(三地区)、長野(四)、更北(一)、七二会(三)、若穂(二)、信更(一)がそれぞれ順次、地域指定をうけ、事業内容の普及および浸透から、関係農業者総意による計画樹立をすすめた。そして三十九年度の松代地域(西寺尾、東条、清野)をはじめとしていずれも三ヵ年事業として着工された。第二次事業は四十三・四十四年~四十五年にかけて長野(長沼地区)、七二会(南部地区)、松代(西条地区)の計三地区で、第三次事業は四十四~四十五年に長野(小田切南部)一ヵ所で実施された。松代地域での事業は、三十九年度から着手され、東条地区は農道・稚蚕飼育所・桑園改良、西寺尾地区が区画整理・集荷所建築、清野地区が区画整理・畑地灌漑・稚蚕飼育所建設などであった。

 いっぽう、人口の都市集中がすすみ、市街地の急速な進展にともない、区画整理事業は、二十九年に制定された土地区画整理法に基づいて、広い区域について公共施設と住宅の整備とを同時におこない、計画的市街地形成を先行的に実現させる方法であった。長野市域では全国的にもめずらしい、村単位の都市計画区画整理が、国道一八号線ぞいの更級郡更北村青木島で始まった。この計画がもちあがったのは三十六年三月であったが、第一期計画分二五ヘクタールが着工され、四十三年春にはほぼ完成した。これは、戦後の長野市域の施行としてはもっとも早く、また、「組合」施行が普通であるなかで、「長野市」が施行者となったことも特徴的であった。その後の事業の実施状況は表17のとおりである。


表17 区画整理事業一覧 (単位:ha、百万円、%)

 都市計画法は、四十年代における人口および産業の都市集中にともない、都市地域における無秩序な市街化が都市環境の悪化、公共投資の非効率化等の弊害をもたらしている状況からして、これらの弊害を除去して都市の健全な発展と秩序ある整備をはかることを目的とするものであった。この新法に基づく都市計画地区のうち、市街化区域とは、市街地として積極的に開発・整備する区域で、おおむね一〇年以内に優先的・計画的に市街化をはかるべき区域をいう。これにたいして市街化を抑制する区域を市街化調整区域という。ここでは開発行為は許されず、市街化を促進する都市施設は設置しないものとされている。

 四十四年六月施行の都市計画法をめぐって、長野市など市街地近郊の農村は、市街化調整区域(農業地域)に指定されれば、宅地への転換など一般開発が抑制され、地域の発展がおさえられる結果、地価が低下するとして、市街化区域指定を強く働きかけた。長野市大豆島・朝陽・柳原・長沼・古里・若槻など、近郊農村部で地区内に調整区域をかかえる区長代表者は市街化区域指定の運動を申しあわせた。また、市街化調整区域になると推定された更北・若穂・松代・朝陽地区では、駆けこみ的な宅地転用がふえた。都市近郊の虫食い状の開発を防ぐために施行されたものが、逆に促進しているといわれた。区域指定作業の遅れはそれをさらに助長した。

 四十六年一月、都市計画地域一万八九〇〇ヘクタールのうち市街化区域四七三〇ヘクタール、残りの市街化調整区域一万四二〇〇ヘクタールと指定された。五十四年九月に第一回線引きの見なおしがおこなわれ、三二五ヘクタールが調整区域から市街化区域に組みこまれた。