林業の危機と再編

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長野市近郊の山村地帯においては、林業労働者と他産業従事者との間の格差が深刻で大きな問題となってきていた。長野市では市有林の造林を促進するために、昭和三十年(一九五五)に山間地から三〇人ぐらいの労務班をつくった。この人たちはいずれも季節雇用であったが、三十五年からは通年雇用にかわった。自宅の耕地面積は一町~一町二、三反であったが、平坦地と比べると生産性が低く、どうしても山仕事に頼らざるをえなかったので、四月から十二月の間に二五〇~二六〇日も仕事に出た。「都市近郊にみる林業労務」(『長野の林業』第三十一号、昭和三十八年)によれば、「もうわれわれ以外には、山の仕事をやろうという人は、村中さがしてもどこにもいない。まして、自分たちの子どもに、こういう仕事をせよとは言えない」状態であった。林業労働は、年間を通じて働くことができなく、将来に希望をもって働けないという点において、もっとも魅力のない仕事の一つとなっていた。

 わが国の木材需要は、建築用材とパルプ用材との需要を中心に全体的に著しく伸びていたが、四十年代半ばの林業の動向と課題として、木材の国内生産はこれに対応できなかった。この原因としては、人工林の率が低く幼齢林が多いという資源的制約、林業労働力の不足、生産基盤の未整備、外材(米材、ソ連材、ラワン材などの)輸入の増加傾向などがあった。実際、外材が国内木材総供給量のほぼ半分をしめるほどになっていた。その結果、造林は三十六年をピークに年々減少していった。四十五年度の農林行政の中でも世間の注目を浴びたのは、米作転換の問題である。休耕、作目転換の傾斜地地帯を見ると、その多くは造林地として転換がはかられた。

 山林面積一ヘクタール以下の零細保有層が半数以上をしめる長野市(表20)において、私有林を森林組合にあずけ、管理経営をいっさいまかせるという「森林の委託経営」が大規模に始まった。これは組合員の山林をあずかった森林組合が、植林から将来の伐採・販売まで受けもつもので、新しい山林経営として県林政課でも奨励していた。この方法を取りいれたのは長野市森林組合(組合員一五三四人)で、三十四年十一月、農林漁業資金のうち、造林資金制度が比較的低利で、二十年据置き十年償還という借りよい条件で設立されたのをきっかけに、委託経営に乗りだすことを決め、五年計画を立てた。


表20 保有山林規模別林家数とその割合 (単位:戸、%)

 それによると、①三十四年度から五年間に四〇〇〇万円を投じ、一〇〇〇ヘクタールの委託経営にのりだす、②第一年目(三十四年度)は約一〇〇ヘクタール、二年目は二〇〇ヘクタールとして、三年間で目的を達成する、③山林はいずれも団地化して、植林、防除体制、伐採、搬出を合理的におこなうなどの経営規約をつくり、組合員に参加を呼びかけた。こうして始まった森林の委託経営面積は三十四年度分として長野市芋井地区で約一〇〇ヘクタールに達し、むこう三〇年間の委託契約を結んだ組合員は約一五〇人にのぼった。これによって労働力不足の家でも心配なく、山林を管理してもらえることになった。

 こうした森林組合独自の活動に加えて、森林資源の造成によって私有林の生産基盤を確立し、林業経営の安定を期すとともに、併せて市の財産造成を図るため分収造林特別措置法(昭和三十三年)にもとづく「長野市営分収造林契約要綱」が三十九年度に告示された。これにもとづいて毎年、分収造林契約が私有林所有者と締結された(表21)。


表21 年度別市営分収造林契約面積 (単位:ha)

 契約要綱の事項をみると、①造林地は原則として一団地三ヘクタール以上の要造林地であること、②契約期間は六〇年以内で、主伐の時期を考慮して定める、③ヘクタール当たり植栽本数、補植、下刈り、除伐およびつる切り、枝打ちなどの基準を定めることなどが記載されている。

 また、長野市と土地所有者との収益の分収割合については、植栽年次より五齢級までの一定期間の経費は長野市の負担とし、以降の期間については収益分収の割合によって当事者それぞれの負担とされた。市と所有者との分収割合の推移は昭和三十九年(一九六四)に五(市)対五(所有者)と決まった。のち四十五年に五・五対四・五、五十年に六対四となり、その後平成元年(一九八九)から八対二に変更された。このように市が手がけている分収林とともに、市有林六一一ヘクタール(昭和五十六年、林務課所管)の存在も、市基本財産の増大と飯縄山ろくの観光事業などにも寄与してきた。

 長野市内の森林面積を『一九七〇年世界農林業センサス』の所有形態別でみると、国有地二〇二九ヘクタール、県有地一一九ヘクタール、市有地八二八ヘクタール、財産区六九八ヘクタール、私有地一万四五五三ヘクタール、合計一万八二二七ヘクタールであり、この場合の市有地面積は林務課、管財課、観光課所管の合計である。国有林は、三十一年に木曽福島町から長野市栗田に移転した長野営林局の管轄のもと、災害防止等の保安林、市への貸付林、地元地区との共用林、自然休養林などとして活用されてきた。


写真51 昭和31年木曽福島町から長野市栗田に移転した長野営林局局舎(現中部森林管理局)

 戦後、経済成長とともに農林業の地盤沈下がすすみ、山村経済を支えていた木炭生産の崩壊も始まった。これを背景として第一次林業構造改善事業は、林業のウェイトの高い市町村を地域単位に三ヵ年の総合施策として開始された。林業構造改善の目的は、林業総生産の増大、生産性の向上、林業従事者の所得増大であり、他産業との格差是正のため、生産基盤(林道)の整備とともに、資本装備の高度化、協業の推進を基本とした。長野市では構造事業が四十四年度に指定され、翌年度から四十七年度まで実施された。それを概観すればつぎのようである。

 ①経営基盤の充実事業として、入会林野の近代化事業(綿内・保科地区)があげられ、八五戸の入会地利用者が入会地を分筆し個人所有にかえた。②生産基盤の整備事業として、松代町豊栄、同西条、七二会、信更、芋井、若穂保科に七路線、総延長一万七一六メートルにわたる林道の開設がおこなわれ、受益戸数は五三七戸であった。事業費一億円余のうち、国庫補助五〇パーセント、県補助二〇パーセント、公庫資金二四パーセント、残りが自己資金であった。③資本装備の高度化事業として、丸太をつくる素材生産施設(チェンソー、集材機、トラクター、造林施設(刈払機、目立機、チェンソー、資材人員輸送車)、木炭生産施設(チェンソー、軽架線、切炭機、木炭倉庫、作業用建物)、特殊生産物生産施設(軽架機、穿孔機、乾燥機、チェンソー、フレーム、人工榾場、貯水槽、きのこ・なめこ関連利用建物・施設)が対象となった。これらのうち、③の総事業費は二六〇〇万円で、国庫補助五〇パーセント、公庫資金二五パーセント、残余は自己負担であった。


写真50 若穂町赤野田川上流の杉林