戦後、市域には、笹平・小田切・裾花の三つのダムが建設された。犀川の笹平ダム・小田切ダムは電力増強を目的とする水力発電用ダムであり、裾花川の裾花ダムは治水に重点をおいた多目的ダムである。
笹平ダム建設の発端は、戦時中の昭和十七年(一九四二)、日本発送電株式会社(昭和二十六年五月に解体、東京電力株式会社へ移管)が、政府の電力増強政策にそって策定した犀川下流七ヵ所の発電所建設計画であった。同年、日本発送電はまず、水内ダム(信州新町)の建設工事に着手、翌十八年には竣工し発電を開始した。つづいて戦後の昭和二十一年七月、同社は仮称信里発電所(笹平ダム)建設のための立ち入り測量の許可を、関係九ヵ村へ申しいれたが、具体化しないまま東京電力株式会社へ引きつがれた。東京電力株式会社による笹平ダム建設が具体化すると、笹平など関係地域の住民は、民家や耕地の水没をおそれて、反対期成同盟会を結成して運動をはじめた。犀川沿岸には、国道一九号が通り、古くからの集落が発達していたため補償問題が難航した。しかし、折衝のすえ交渉が妥結し、昭和二十七年二月に着工、同二十九年五月竣工した。ダムの高さ一九・三メートル、発電所の最大出力は一万四七〇〇キロワットであった。流域に多い堆積土砂、弱い地質、沿岸の集落や国道などの立地条件を考慮して、低い落差のダムを採用したものであった。
ダムエ事にともなう用地買収三〇万平方メートル、浸水移転家屋二一戸。国道一九号の付けかえ工事や大安寺橋のかさ上げ工事には六ヵ月を要した。ダムの堤防の上は以前からの渡船場にかわるものとして、住民の通路としての利用が認められ、工事の土捨て場のあとへ七二会小学校笹平分校が新築された。
小田切ダムは当初、笹平ダムとの同時完成をめざして計画されたが、建設予定地の周辺には犀川扇状地の大部分を灌漑(かんがい)する善光寺平・小市・四ヶ郷・上中・下・小山・鯨沢の七堰の取水口が集中していたため、用水の確保や補償をめぐって各土地改良区との交渉が難航した。上流に取水口をもつ上中堰と小市用水は、ダムによって用水路を切断されることに難色を示し、他の改良区も水温の低下やもろい凝灰岩地帯へのダム建設にたいする懸念を表明した。しかし、県が仲介して再三にわたる話しあいがくりかえされた結果、翌二十八年二月、交渉はようやく妥結し、ダム建設工事は、同年六月起工式をあげた。工事の資材運搬のため川中島駅には、専用の引込み線が敷かれ、また、駅から小田切ダムまでは索道ロープも設置された。工事は翌二十九年八月完成した。最大出力一万六七〇〇キロワットであった。難航をきわめた農業用水については、上中堰と小市用水は、発電ダムから直接取水することとし、他の五堰は合口してダムの放水路から取水し、幹線導水路によって善光寺平用水路へ導き、途中右岸三堰(下堰・鯨沢・小山)へ、サイフォンによって分水することとした。
着工にさきだって、昭和二十七年小田切村会は、県の諮問にたいして、出作地をもつ小市用水の確保や道路の改修・護岸工事の必要を答申した。ダムの建設によって、移転をよぎなくされた小田切地区の民家は八戸であった。
右岸の国道一九号には、付けかえ工事によって、新たに双子トンネルが、左岸の村道には花上トンネルが新設された。七二会の飯森地区では、笹平へ通じる犀川ぞいの大崩れ下の道路が水没したため、対岸の村山(篠ノ井)へ通じる小笹橋が架けられた。また、ダム建設による小田切村の村税増収は八〇〇万円だといわれたが、これは長野市への合併の持参金となり、合併時の申しあわせによって、地区内の道路改修にあてられた。
こうして犀川の二つのダムは竣工したが、昭和三十五年には裾花川にダム建設の話がもちあがった。裾花ダムの建設計画は、昭和二十四年のキティ台風による裾花川洪水による大災害が契機となってうまれた。裾花川は、平均勾配約六〇分の一という急流で、そのうえ急峻な地形が多く、流出率・流出量ともに大きい。昭和二十四年の災害以後、裾花川堤防修復などの工事は完了していたが、市街地での堤防のかさ上げ工事などは不可能で、依然として洪水の危険が大きく、災害の再発を防ぐ抜本的な対策が要求されていた。
裾花ダムは、湛水調節・上水道・発電の三つを目的とする多目的ダムとして、昭和三十五年の県の裾花川総合開発計画にとりあげられた。計画は、①予想洪水量一二五〇トンのうち七二〇トンをせきとめ、下流への放流を五二〇トンにおさえる。②貯水池を市の上水道の水源とし、一日二万トン(約四万人分)を確保する。③ダムの落差を利用して、最大出力一万四六〇〇キロワットを発電する、などであった。
なかでも治水に重点がおかれ、アロケーション(利用別費用負担率)は九〇パーセントであった。また、ダム建設費用の算出は、それまで過去の被害額を基準としていたが、三六災害(三十六年に伊那地方を襲った豪雨による災害)などの影響で、想定被害額を基準とする方式にかわった。裾花川は県都を流れる市街河川だという理由で、裾花ダムは、矢作(やはぎ)ダム(愛知県)とともに、その方式による計画を認められた全国初のケースであった。
しかし、調査開始後、右岸の地下に軟弱地盤がみつかったため計画を延長し、「基礎岩盤処理委員会」を設置して検討をすすめた。その結果、ダムは経済性を考慮して県営事業としてはじめてアーチ型ダムを採用していたが、軟弱な基礎岩盤をカバーするため、円形アーチを避けて放物線アーチとし、推力を大幅に山の方へ向けることとした。いっぽう、裾花川に水利権をもつ善光寺平土地改良区や裾花川漁業組合との補償交渉も、当初は双方のへだたりが大きく難航したが、話しあいによって妥結した。
裾花ダム計画は、同三十七年四月、国に採択され、同三十九年九月には県道(現国道四〇六号)付けかえ工事が着工した。路線の決定は、左右両岸の利害が反するため調整が難航した。小鍋地籍から土合地籍までけわしい絶壁をぬって、六ヵ所の隧道と二本の橋によって結んだ。けわしい絶壁を最大八〇メートル上方へ付けかえる工事により、その鉄橋は裾花大橋と命名された。この県道付けかえによって芋井地区西部の峡谷地帯の交通事情は格段に向上し、のちに小中学生の通学区も市街地へ変更されることになった。
昭和四十一年には発電所工事、同四十三年にはダム本体のコンクリート打ちこみが完了、翌四十四年五月裾花発電所は発電を開始した。ダムの堤高八六メートル、長さ二三〇メートル、約一〇〇〇万トンの水量調整をし、八〇年に一度の洪水に耐えるとされた。総工事費約三三億円であった。
市は、上水道用水として一日二万二〇〇〇トンを取水することとし、八九〇〇万円を負担した。下流に建設された湯ノ瀬ダムで取水し、夏目ヶ原浄水場(安茂里)へ送ることとした。なお、市ではのちに、昭和五十五年に完成した上流鬼無里村の県営奥裾花ダム建設にも参加し、上水道水源として三万トンの給水権を確保した。
放流時の安全確保のために、下流にスピーカーによる警報放送施設七ヵ所、サイレン吹鳴施設四ヵ所を設置し、遠隔操作による警報放送をした。昭和六十三年、上流に土砂の堆積をふせぐ貯砂ダムが完成した。
平成六年(一九九四)の異常渇水による上水道の不足や、昭和二十四年の二倍の降雨量を記録した翌七年七月の豪雨による被害が未然に防止できたのも、裾花ダムによるところが大きかったといわれる。