長野市上水道の給水人口は、第二次大戦後急激に増加し、昭和二十年(一九四五)に一万七〇五人だったのが、同二十八年には一万五五三五人と、八年間に一・五倍近くになった。給水量はすでに戦前から不足ぎみであり、戦後は上水道の水源確保が市政の緊急課題となった。市が水源の確保におわれた最大の理由は、野尻湖からの引水計画がこじれたためである。その原因は、戦時中に国策として強行した引水工事の後遺症ともいうべきものであった。
昭和十七年、長野市は不足する水源確保のために、戸隠・犀川につぐ第三の水源として野尻湖を利用しようとした。しかし、野尻湖は関川水系に属し、慣行水利権は江戸時代から新潟県の頸城平野の中央部を潅漑する中江用水水利組合と野尻用水組合にあった。大正二年(一九一三)両組合は連合して芙蓉湖池尻川普通水利組合を結成していた。芙蓉湖とは野尻湖の古くからの別名でつけられた雅名であり、池尻川はそこから流れ出る川の名である。しかし、池尻川沿岸(信濃尻村のち信濃町)の水田は四〇〇〇余町歩(約四〇ヘクタール)ほどにすぎず、大部分は中江用水組合に属していた。中江用水は新潟県下最大の受益面積をもつ用水組合で、関川および野尻湖を重要な水源とし、例年田植えがすむと苗名滝と野尻湖弁天島の宇賀神を水源守護神として集団参拝をつづけていた。
野尻湖の水を善光寺平方面へ引こうとする試みは江戸時代以来しばしばなされたが、いずれも用水組合の反対によって挫折している。明治九年(一八七六)からの愛民社などによる引水計画、同二十六年の後藤象二郎の「上水道野尻湖疏水事業計画」などである。同四十三年、長野市の上水道設置のさいにも、水源として野尻湖が候補にあがったが、用水組合はいちはやく反対の意志を表明したため、市は取水を断念せざるをえなかった。
しかし、第二次大戦中の昭和十七年(一九四二)、政府は戦争遂行のため電力動員を決定し、日本発送電株式会社(略称日発)にたいして、野尻湖・諏訪湖の利用計画案の作成を命令した。日発では、とくに渇水期の発電用水源を増強するために、為替水(かわせみず)として鳥居川から最大毎秒三五個(一個は一立方尺)を、仁ノ倉堰と伝九郎堰を導水路で結んで野尻湖へ引き、それによって関川水系の発電所一五三一万キロワットの発電増強計画を立案した。これにたいしては、利益の地元還元をめぐって日発・長野県の間に多少の紛争があったが、昭和十八年工事は終了し、日発は渇水期の水源を確保した。
長野県は、このとき、鳥居川の取水量を最大六五個にふやし、発電のほかに鳥居川沿岸の潅漑用水食糧増産をはかり、また、長野市の上水道の水源としても利用しようとして「野尻湖河水統制事業」を立案し、十八年九月新潟県と協議をはじめた。しかし、古くからの既得権をもつ用水組合の反対ははげしく、協議は難航したため、長野県は、国策としての強行推進方を内務省へ要請した。政府は、軍需・内務・農林三省による協議のすえ調停案を作成して提示したが、用水組合の了解を得ることはできなかったため、さらに再調停案を示し、戦争遂行を目的として説得をすすめた。その結果、用水組合は希望条件付で事業実施を認め、新潟県は二十年四月、そのむねを長野県へ回答した。取水については、①戸隠を水源とする鳥居川の水を仁ノ倉(信濃町)で、最大六五個を取水して野尻湖へ引く、②それを為替水として、野尻湖からは電力増強のため最大二〇個、鳥居川へは最大四〇個、長野市の上水道へは最大五個を供給すると定められた。
事業の目的には、電力増強や灌漑用水補給による農産物の増産のほかに、急増した疎開軍需工場や松代町に建設中だった松代大本営への上水道水源の確保もあげられた。新潟県の了解の回答によって、長野県では同年八月十五日にこの引水事業を認可し、これによって引水工事は開始された。
しかし、敗戦まもない十月八日、芙蓉湖池尻川普通水利組合は、新潟県知事にたいして、「国情が一変した以上、計画は自ずから消滅したものと思料する」という文書を送り、二十一年には代表が上京して、内務省へ事業の撤回を強硬に申しいれた。同二十二年三月、内務省の仲介で、事業はいったん白紙にもどされ、工事は中止した。その後幹事会による交渉がくりかえされたが、協議は難航をつづけた。幹事会は、長野県・新潟県・長野市・信濃尻村・鳥居川用水組合・中江用水組合・日発の七者で構成されたが平行線をたどったまま進展しなかったため、のち両県の関係課長と日発の三者による小委員会で協議がつづけられ、二十六年末ようやく協定案がまとまった。
昭和二十七年一月十四日、長野・新潟両県知事によって、「野尻湖に関する水利協定」が調印された。おもな内容は、九月十一日から五月三十一日までの非灌漑期間中は、長野市水道局は野尻湖の水を、最大四個引水できる。この間は鳥居川の水を仁の倉水門から最大二〇個野尻湖へ導入する。また、東北電力株式会社(日本発送電の後身)の発電用補給水を一五〇個以内供給する、などであった。
この協定によって、長野市は野尻湖からの上水道用水の引水を正式に認められた。しかし、当初案に比較すると、市上水道への引水量が二〇パーセント減少し、取水期間が非灌漑期に限られることになった。ついで、市は野尻湖関係の地元諸団体との補償問題の折衝にあたった。野尻湖の地元信濃尻村をはじめ、鳥居川土地改良区など四用水団体(仁ノ倉用水組合・伝九郎用水組合・前川用水組合)および漁業組合・水車組合など計八団体との補償問題は、補償金や寄付金で解決した。補償金の三分の二は東北電力株式会社の負担で、長野市は三分の一にあたる一一〇〇万円を負担した。鳥居川土地改良区は沿岸の三三用水が昭和二十七年鳥居川の河水利用を管理するために設立された。
市は水路の布設工事を再開した。昭和二十七年十一月起工式、同二十九年十一月六日、竣工式をあげた。若槻には新たに蚊里田(かりた)浄水場が建設された。配水管の延長一万七六三七キロメートル、三十年には吉田町の本管へ接続した。計画立案以来一〇ヵ年、事業費は当初設計額の五五倍にあたる約三億五〇〇〇万円におよんだ。
昭和三十年現在の上水道の給水量は一日約二万一〇〇〇トンであったが、水源別にみると、野尻湖がもっとも多く、このうち九六〇〇トン、約三万五〇〇〇人分を供給し、全体の約四四・九パーセントをしめた(『長野市報』)。
野尻湖の水は飲用水として上質なうえに、標高差三〇〇メートルを自然流下によって引くため犀川取水に比較すると単価が安い。これによって、長年の慢性的な水不足は解消すると期待された。しかし、需要の多い夏期に引水できないのは、上水道の水源としては致命的な弱点であった。給水人口および使用水量の急激な増加には追いつかず、二十九年には近隣一〇ヵ町村との合併によって、新たに新市部への配管給水が必要となった。
市は、応急措置としてすでに二十六、七両年岡田に深井戸を掘っていたが、急遽犀川水源の送水ポンプを増強して水源納給をした。それでも間にあわず、三十年にはさらに岡田の井戸を増設するとともに、新たに七瀬にも深井戸を掘った。いっぽう、三十年夏には全戸五パーセントの節水をよびかけた。三十二年は長梅雨の影響で節水をまぬかれたが、なお、不足が予想されたため、倉島市長は新潟県へ協力依頼に訪れ、長野県からも正式に協力を要請したが、事態は進展しなかった。
その後も給水人口の増加と生活の近代化にともなって需要は増加をつづけたため、市は新たな水源を犀川や裾花川などにたよらざるをえなくなった。この間、浄化技術などの発達もあって、以後、市は犀川水源の拡充に重点がおかれるようになった。
昭和三十二年の臨時市議会に、市は犀川水源拡張を主とする「犀川伏流水」工事を提案した。この工事は、昭和二年(一九二七)の犀川取水(第一期拡張工事)、野尻湖引水工事(第二期拡張工事)につづく、第三期水道拡張工事と呼ばれる。第三期拡張工事は、二十年後の推定人口一七万人にたいし、一日二万トンの給水をめざした。
この間に、市の水道の組織は、昭和二十九年に地方公営事業法の成立にともなって、長野市水道公社が発足していたが、三十三年度から拡張課が設置され、拡張事業を専門に推進することになった。