列車・バス輸送の拡大

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長野市に昭和二十七年(一九五二)八月から、日本国有鉄道(以下、国鉄)の直接地方機関となった長野鉄道管理局、同地方機関である長野工場、中部地方資材部の地方機関である長野資材事務所が置かれた。国鉄は二十八年「国鉄施設改良五ヵ年計画」を策定した。国鉄長野工場吉田分工場には、機関車作業向きの鋳物工場が新築された。さらに、長野駅を客車専門にするため、篠ノ井駅に入れかえ線八本を増設して、従来長野駅でおこなっていた貨物仕分け作業を篠ノ井駅に移行した。篠ノ井駅は信越線と中央線の分岐点であるため、こうした拡張がすすめられていった結果、管内において面積では長野駅・塩尻駅についで三位、職員数では長野駅・松本駅についで三位の駅となった。

 懸案の中央線長野・名古屋間の昼間準急「しなの」号が、二十八年八月十五日から運転された。従来の普通列車は八時間かかったが、この準急は五時間半で結ばれたので、このスピードアップは長野と東海・関西を近づけるものだと喜ばれた。この年から蒸気機関車の燃料に重油混燃を本格的に使用したので、スピードはあがり燃料費も節約となった。三十年八月からは、信越線は戦後初の長野・上野間急行一往復、定期準急二往復、不定期準急一往復があり、中央西線では準急「しなの」が定期化したため、定期準急二往復、不定期準急一往復と輸送力とスピードアップが強化された(『長鉄局二十年史』)。

 古田駅は三十二年(一九五七)四月から、北長野駅と改称された。このころ、地元の人々による長野駅と北長野駅の間に鶴賀駅開設、北長野駅と豊野駅の間に三才駅開設の請願がおこなわれ、三才駅は三十三年に無人駅として開設された。中央線輸送強化期成同盟会が結成され、中央線電化昭和三十五年度中実現めざす運動がすすめられた。この十年後の四十一年に北長野駅と長野駅の中間に設置された車両基地は、篠ノ井線・中央線の客車・気動車(ディーゼルカー)・電車など収容三九〇両の総合基地となった。ここには総合貨物基地もおかれ、長野運転所が設置され、長年の懸案であった長野駅の貨客分離が完全におこなわれることとなった(『信毎』)。


写真57 昭和42年9月北長野貨物基地が完成

 国鉄の無煙化施策の一環として、三十三年五月長野鉄道局にDF50型ディーゼル電気機関車八両が配当になったことにより、八月からディーゼル電気機関車の使用が始まった。翌三十四年十二月から長野・名古屋間ディーゼル急行列車「しなの」号の運転が開始された。これまで準急列車で五時間半かかっていたのが、四時間三五分に短縮されたうえ、蒸気機関車の煙から解放された。このころから行楽列車・スキースケート列車の運行も始まった。その後、三十七年にディーゼル電気機関車二七両を配置して無煙化をすすめていたが、四十五年にはディーゼル電気機関車三〇両を投入して、貨物列車もすべて無煙化を果たした(『長鉄局二十年史』)。

 三十六年には善光寺開帳と長野市産業文化博覧会を機会として、長野・上野間ディーゼル急行列車「志賀」号の運転が始まり、長野・上野間は四時間で結ばれるようになった。この導入にともない、長野市議会は国鉄利用債一億一六六六万六六六円を引きうけることを決めた。この年に信越線碓氷峠新線工事が始まった。これはトンネルは従来の二四から一二へ、橋は一八から一四へ減らして、スピードアップをはかる工事である。同年三月には長野・新潟間ディーゼル準急「よねやま」号と小諸・新潟間準急「あさま」号、四月には長野・天竜峡間ディーゼル準急「天竜」号などの運転が始まり、新潟県や南信との結びつきをつよめた。さらに、同年十月に信越線では特急「白鳥」一往復の運転がおこなわれるようになった。同年、急行列車内で茶・弁当などを販売する、長鉄車内販売会社が発足している。


写真58 昭和47年特急「あさま」の運行始まる

 三十七年以降の輸送の近代化の歩みをみると、電化については四月十九日に信越線長野・軽井沢間の電化工事起工式をおこない、翌三十八年六月に完成させて七月十五日から電車運転をおこなった。西沢県知事は祝賀式で「電化開通により、いままでの信濃路では味わうことのできなかった旅の楽しさが満喫できるわけで、もはや東京と長野は隣同志となり、東京の奥座敷となった」と語っている。同線長野・直江津間電化工事は四十年四月に起工し、翌年十月に完成させている。完成とともに長野・上野間に電車特急「あさま」二往復の運転が開始され、三時間三〇分で結ばれるようになった。電化とともに、線路の強化・自動信号化・ATS(自動列車停止装置)の採用などで安全性向上にも力が入れられた。篠ノ井線は四十五年五月二日に電化工事起工式をおこない、四十八年四月に完成して電化開業の祝賀式をおこなった。中央線は同年七月に塩尻・中津川間が電化されたことにより、長野・名古屋間は完全電化営業が開始された。急行列車は、ディーゼル機関車では八両編成が限度であったものが、一二両編成までが可能となり、貨物列車も一列車三五〇トンまでであったものが、六〇〇トンまで引けるようになった。同時に複線化工事もすすんだので、列車全体がスピードアップして線路に空きができて列車増発が可能となり、バス・トラック輸送に対抗する力になっていった(『信毎』)。

 このほか、昭和三十七年には長野・上諏訪間に準急「すわ」号、長野・長岡間に準急「のざわ」号、長野発信越線・小海線・中央線の循環急行列車「のべやま」号などを走らせた。四十三年(一九六八)五月一日には長野県鉄道開通八〇周年記念行事がおこなわれた。一日長野駅長に俳優の加東大介が、一日長野駅助役に男女中学生を任命し、長野県の鉄道発展を示すパネル展、鉄道を題材とする小中学生の図画展、鉄道資料展などを開催した。また、四十三年十月のダイヤ改正で、特急「あさま」は長野・上野間を二時間五九分で運転され、特急「しなの」は、長野・名古屋間を四時間一一分で運転されるようになり、スピードアップが一段とすすんだ。

 長野電鉄では、昭和三十一年に朝陽停留場を停車場(駅)に変更した。翌三十二年から長野・湯田中間を走る快速ロマンスカーの運転を開始した。この電車は、蛍光灯・扇風機・電気暖房・社内放送などの施設があり、座席は二人がけのロマンスシートで定員予約制となっており、若い人たちには喜ばれた。女性の案内乗務員によるサービスを始めたのもこの時からである。この快速ロマンスカーは、従来の長野・湯田中間五三分を一五分縮(ちぢ)め、三八分で運転された。さらに、三十七年には湯田中・上野間急行列車「志賀」「丸池」を走らせ、屋代駅で分割による二両の直接乗りいれをおこなった。


写真59 昭和37年上野・湯田中間の直通列車

 四十年のいざなぎ景気ころから乗用車の普及が急速にすすんで、しだいに電車の利用客の減少がおこり、私鉄の経営を圧迫してきた。長野電鉄は、不採算の貨物・小荷物部門の縮小廃止、旅客部門の省力化・合理化をすすめた。三十九年から四十八年までの十年間に吉田・金井山・善光寺下・権堂・朝陽・信濃川田・綿内・松代の各駅の貨物営業を停止した。また、若穂駅を四十一年に営業開始し、四十六年に象山口と四十七年に岩野の二駅の無人化をおこなった。

 長野電鉄バスは二十七年以降、長野駅や権堂駅を起点に路線の伸長が次々とおこなわれた。長野市域関係では長野・須坂間を中心に、長野・須坂・小布施・山田線、長野・野尻湖間、長野・熊の湯間、長野・万座間、長野・菅平間、長野・鐘紡・大豆島・朝陽線、権堂・渋間、市内巡回線(田町・東之門・上松)、古牧線(吉田・古牧)、須坂・屋代間などである(『長野電鉄八〇年史』)。

 三十六年七月には国道の舗装がすすんだのを機に、長野電鉄は東急電鉄との相互乗りいれで、長野・東京間定期バス各二往復計四往復の営業運転を始めた。東急は渋谷から長野駅まで二三一キロメートル、長電は湯田中から上野まで二六七キロメートルを約六時間で結んだ。すべて座席指定・冷暖房つきの車で、料金は七〇〇円であった(『信毎』)。

 川中島自動車は、二十八年には長野駅を起点として、善光寺・北高校・浅川・大豆島・長池・芹田回り・県庁回り西高校・鐘紡・柳町回りなど市内放射状に走る九線を運行していた。このころから大型観光バスの導入に拍車をかけた。生活の落ち着きとともに、バスを貸しきっての小中学校の遠足・修学旅行、公民館・青年団・婦人会などの研修会やレクリエーション、地域の親睦旅行や商店の招待旅行などがふえてきたためである。また、路線の伸長とともに、三十三年からは長野・臼田間特急バス(千曲自動車と四往復ずつ)、四十年からは長野・松本間特急バス(松本電鉄バスと四往復ずつ)、長野・軽井沢間特急バス(千曲自動車と二往復ずつ)の営業を始めた。

 しかし、信越線・中央線の電化による輸送力増強と乗用車の増加による利用者減少により、いずれも四十七年までに休止された。バスは三十五年末に三九五台であったのが、四十年末には五〇一台に増加している。ガソリン車は主として平坦地の定期バス路線にディーゼル車は主として長距離定期バス路線や貸切バスに用いた。

 四十年代にはいるとバス会社は、モータリゼーションによる旅客の減少、交通渋滞によるバスダイヤの混乱、労働力不足と人件費の高騰、過疎地の出現と需要の低迷などで、経営の改善をせまられることとなった。対策として、ワンマンカーの導入、多様な広告(バスボディ広告・車内広告・ワンマンテープによるスポット放送など)、関連事業(観光サービス・タクシー経営・自動車整備など)の育成など、合理化や多角経営に意をもちいるようになった。

 昭和四十一年に安茂里に移転した長野工業高校の岡田町の跡地に、四十二年四月一日長野バスターミナルが開設された。バス発着場とともに公共的利用をはかる会館がつくられた。これは飽和状態になりつつあった長野駅前の交通緩和と観光対策等によるもので、当初県内ほか九社三〇路線がはいり、一日約四五〇台のバスの発着地点となった。同年六月一日に川中島自動車の本社が大豆島に移転落成し、整備工場も本社敷地内に移転していったので、バスターミナルの開設とかかわって、長野市内のバス運行系統は大幅に変更された。


写真60 昭和42年県内最初のバスターミナルが長野工業高校の跡地に完成