昭和三十年代にはいると、自動車・オートバイなどの増加にともなって交通事故が多発するようになった。交通量のふえてきた長野市中央通りと昭和通り交差点に、交通信号機四基が県内ではじめて設置されたのは、昭和二十九年(一九五四)のことである。警察署や県・市町村は戦後毎年交通安全旬間を設けて交通安全運動をおこなってきたが、「長野署管内の交通事故による死傷者は、前年の三〇パーセント増」、「一月中の交通事故は、前年同期の二・五倍」、「長野署管内ふえるいっぽうの交通事故、四月は新記録の五九一件、交差点の不注意三〇パーセント、スピード違反二七パーセント、酔っ払い運転二二パーセント」(『信毎』)というように、長野市域の交通事故は増加の一途をたどっていた。
昭和二十二年に県内の自動車数はおよそ二五五〇台・交通事故二一二件であったのが、三十五年八月にはおよそ五万九〇〇〇台、二四三九件と、自動車数にして二三倍、交通事故数にして一二倍にもなった。長野市の南の出入り口にあたる丹波島橋を通過する自動車数は(午前七時~午後七時)、昭和二十八年約一六〇〇台、三十三年約三〇〇〇台、三十七年約七五〇〇台、三十九年一万三六九五台、四十二年は二万四八八四台で二十八年の一五倍余の交通量増となっている(『信毎』)。
交通事故にあうのは子どもや高齢者が多いことから、各地区では信号機・安全標識や歩道橋の設置、緑のおばさんの配当などを市や町に陳情した。川中島町では昭和小学校・昭和保育園の児童園児三〇〇人ほどの横断する国道一八号線に、三十六年(一九六一)八月町費で信号機を設置した。信号機は交通量の多い交差点を中心に設置がつづけられ、四十五年十月までに長野四二、篠ノ井八、松代二、更北五、川中島一、七二会二、計六〇ヵ所に設置されている。
各小学校ではPTAを中心に地域ぐるみで児童の通学や住民の安全を願って運動をつづけた結果、四十一年三月国道九反地籍に裾花小学校児童の通る歩道橋の設置、同年十二月には柳原小学校前の歩道橋と鍋屋田小学校児童用の地下道の設置、翌年三月朝陽地区では、長野盲学校と朝陽小学校の児童生徒のために盲人用歩道橋が完成した。この盲人用歩道橋には登り口に赤外線ブザー、階段に二段の点字刻みこみ手すりを取りつけてあった。同年五月芹田小学校東に歩道橋、十一月には青木島に設置された。四十四年には岡田町の歩道橋ができて、山王小学校児童やバスターミナル使用の乗降客の安全が保たれるようになった。
県は、三十二年一月から長野県学校安全会を発足させ、学校内事故や登下校中の事故による総医療費が一〇〇〇円以上の場合、ほぼ実費に近い見舞金を支給する制度をつくった。長野市でも三十七年四月に長野市安全会議を発足させ、交通安全・産業安全・消防安全・学校安全に力を入れることになった。翌年の第二回安全大会では、毎月一日を「長野市安全の日」と決め、安全への市民の関心を高めようとした。さらに、市では四十二年十月に交通災害共済を発足させ、「一日一円があなたを守る」としておとな三六五円・中学生以下三〇〇円の掛け金で保障をおこなった。市ではこの年に長野市交通安全推進委員会も発足させ、十月十六日に市民会館に推進員二〇〇人を集めて結成大会を開き、交通安全の推進を誓った。
郡市・町村や地区では、地域ぐるみでの交通安全・交通事故防止への意識が高まり、交通安全協会・交通安全会・交通安全母の会などがつぎつぎと組織された。これらの会では、交通安全映画会・交通安全教室を開催、信号機・歩道橋の設置運動、道路の危険物除去、飲酒運転撲滅運動、交通安全のちらし配付などをおこなって、交通安全の啓発につとめた。各学校でも新学期が始まると、警察署交通課の職員を招いて交通安全教室を開くようになってきた。
四十四年(一九六九)五月十日には妻科公園(県町ひまわり公園)に交通教室広場が設けられ、保育園・幼稚園や小学生の子どもたちの大事な交通安全の学習の場となった。この広場は延長三〇〇メートルの車道と二~六メートルの歩道、一五本の道路標識、交差点には信号機が設けられ、自転車等も一五台備えられて、道路横断のしかたや自転車の乗りかたを学べるようになっていた。この年から交通点数制(事故四点~一三点、違反一点~九点)が実施されている。
長野市では、四十五年から子どもたちの安全を願って、全入学児童に黄色の帽子を贈るようにし、子どもの遊び場づくりに一ヵ所六万円を補助し、危険な通学路には柵やガードレールを設けるようにした。さらに、交差点の改良(四十六年一月の新田町交差点X字型横断歩道など)・バス停帯づくりや道路照明・道路標識・カーブミラーなどの設置につとめ、交通災害つなぎ資金貸与(交通事故治療費・生活費に困る人への貸与)などをおこなった。翌年四月からは、通学路に車の通らない安全な道を確保するため、児童生徒の登下校時(午前七時~八時半、午後二時~四時半)に車の規制をおこなった。四十七年からは学校の付近にスクールゾーンを設けている。同年六月から長野市は、道幅四・五メートル以上の交通量の多い市道について、市独自で歩道と車道とを分け、一三路線延べ三六三〇メートルに高さ一五センチメートル・幅一メートルの歩道をつける工事を始めた。
交通量や交通事故の増加とともにさらに問題になったのは、道路・橋の整備や駐車場設置などである。舗装されていない穴だらけの道、歩道が確保されない危険な道、鉄道の踏切り、重量制限でバスの乗客が降りて歩かなければならない老朽の板橋、交通障害や事故の原因にもなる道路への青空駐車(野放し駐車)などであった。
国道一八号の舗装をめざして、関係一〇ヵ市町村で舗装工事促進期成同盟会を結成して運動を始めたのは二十七年であったが、翌二十八年から舗装が始まった。三十四年からは国道一八号のバイパス工事が始まり、三十七年には丹波島橋から平林街道までが完成し、四十一年には平林街道・牟礼間が完成した。
昭和通りの舗装は二十八年に着手され、東通りまでの延長工事も始まった。長野市の東方面への発展や近隣市町村との合併にともなって、三十年代・四十年代には、まず、交通の便をよくするための道路の新設・延長・拡幅・舗装工事に力がいれられ、しだいに着手されていった。当時の市町村道や農林道の工事は、失業対策事業や地域への委託事業(機械・資材等を提供しての地元の勤労による)としておこなわれることも多かった。三十七年に県道長野・須坂線の、昭和通りと信越線の立体交差工事が着手された。車道と歩道が別々に線路の下をくぐるガード式で、幅二七メートル(車道一一・五メートル、歩道両側二・五メートル)長さ二七二メートル、両側に五メートルの側道がつけられた。
三十九年九月、通称戸隠バードラインといわれた戸隠有料道路が完成した。長野市上松から地附山を巻いて飯綱高原を横ぎり、戸隠宝光社にいたる幅五・五メートル、長さ一七キロメートルの道路である。
多くの橋は木橋やつり橋で老朽化しており、大量の車の通行に耐えられなくなっていた。永久橋(鉄筋コンクリート)の要望にそって改修がすすめられていった。三十年代・四十年代の架橋状況は、表8の「高度経済成長期のおもな架橋」のようであった。丹波島橋も幅七・三メートルでは車の洪水をさばききれず、新丹波島橋着工を待つ状況にあった。