電信・電話と有線放送の普及

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昭和二十八年(一九五三)三月の長野市内の電話加入機数は四七四九で、普及率は四・五パーセントという状態であった。しかし、通話状態は改善がおくれ、たとえば、長野・須坂間の市外電話は市外回線が六回線しかなかったので、昼間は電話してもつながるのに一時間もかかることがあり、電車に乗って行ったほうが早いという笑えない実情であった。そこで、市外電話回線増設署名運動が始まった。長野・上田間も同様で、九回線を三〇回線に増設する運動がつづいた。長野・松本間は回線の増設等により、三十年十一月一日から即時通話となり、長野・東京間も三十三年五月十八日から即時通話となった。

 長野電報局は二十八年に、長野市内一六ヵ所の商店に簡易電報所を設け、急用などの人々の便をはかるサービスを始めた。長野消防署は、二十九年から無線機を使用するようになり、火災・災害などで活躍した。消防車に取りつけたのは、県内で最も速かった。電報局はまた、三十年以降には電話電報サービス・電報の転送・夜間発信電報の配送・案内電話・クリスマス電報・年賀電報などのサービスにつとめた。三十年九月からは公衆電話のただがけ防止のため料金後ばらい式をやめ、前ばらい式の公衆電話機を登場させた。非常電話一一九番は三十二年一月から始まったが、当時の長野市には救急車が一台もなかったので、困惑したという。

 三十二年には、信越電信電話公社管内の電話が、一〇万台をこえた。一〇万台目の設置は、長野市問御所の松書房であった。設置当日に公社は花輪を寄贈し、一〇万台開通記念の行事をおこなった。この後、電話の普及はいちじるしく、一三年後の四十五年には、信越管内の電話は四〇万台に達した。長野電話局は三十四年十一月から、局管内電話番号すべて、頭に「2」のついた五けたとして、「かけよい」「かかりよい」電話をめざした。この年から県内五六ヵ所の農村公衆電話設置工事を着工している。また、同年から三十五年にかけ、長野郵政局の裏側に長野電気通信学園(前の電気通信訓練所長野学園)の鉄筋コンクリート四階建て校舎・四階建て附属寮を完成させ、職員の訓練施設を充実させた。長野電話局石堂分室が四十一年に完成し、大合併の新市発足にともない市外通話も、ダイヤルを回すだけで全国約三〇〇〇局との間で即時通話ができるようになった。二十八年十一月一日に「日本電信発祥之碑」がたてられていた松代町の佐久間象山電信実験鐘楼の横に局舎が設けられ、四十三年七月に松代電報電話局が開設され、同時に自動式電話に切りかえられた。


写真65 昭和32年信越の電話10万番目となった長野市問御所の松書房(『信越の電信電話史』より)

 四十五年五月十一日から、長野市役所と支所間で、全国初の高速模写伝送サービスを開始した。戸籍の謄本抄本・住民票の写し・住民異動の届け・印鑑登録などは、今までその人の原簿のある本庁か支所でなければ受付け・交付ができなかったが、この装置によって本庁・支所のどこでもこれができるようになった。バスターミナルにも市民課分室を設け、通勤・通学・買い物の途中でもできるように便宜をはかった。また、戸籍の謄本抄本・住民票の写しに限っては、電話・有線でも受けつけるようにした。


写真66 市役所で高速電送業務始まる

 同年十月二十三日には逓信創業百周年を記念して、長野市で「暮らしを豊かにする便利な電信電話展」を開催した。十一月一日から篠ノ井局・松代局が長野局に合併し「〇二六二」に統一されて相互の通話が市内通話となった。

 郵便関係では、二十八年から現金書留制度ができ、四十三年には郵便番号制をスタートした。長野郵便局は、三十九年から元貯金局跡地に局舎を新築し、四十年七月に旧局舎の二倍の地下一階地上四階の建物を完成させて業務を始めた。そして、四十五年には全国で一八番目の中央郵便局となった。四十七年には創業一〇〇年の看板をかかげて、郵便一〇〇年のパネル展・切手展・貯金保険の記念セールなどをおこなった(『信毎』)。

 長野県内の農山村では、三十年三月下高井郡木島平村に「有線放送電話」が設立されると、各地で有線放送設置がすすめられた。有線放送電話はもともと戦時中の物資不足の時代に、広報活動とラジオとの共同聴取のために生まれたものであるが、戦後は農山漁村の通信手段として普及してきた私設電話である。最初は主として、役場や農業協同組合に放送設備をおいて、広報や農事放送をしたものである。二十五年ころから、一回線に二〇~三〇戸収容の超多数共同方式による簡単な通話機能を付加して、放送の合間に通話できるようにしてから、安あがりであったので、電信電話公社の電話普及の遅れた農山村に広がりはじめた。とくに、三十三年以降、政府の農山漁村建設総合対策による補助金交付などによって、有線放送電話設置に拍車がかかった。


写真67 家庭での有線放送電話

 長野市域では表22でみるように、三十一年九月に信更有線放送が設置されたのをかわきりに、四十一年までに二一ヵ所の有線放送が設置されている。これは、長野市が三十二年から有線放送のための補助金を設けたことも、育成の大きな力となっていた。ただし、篠ノ井有線放送農協の場合が四十一年創設になっているのは、長野市との合併に際して再スタートした年次をとったためである。篠ノ井では、すでに昭和三十年町内六地区に有線放送施設を設けていた。そのなかの共和地区の場合はスピーカーを警鐘楼など一一ヵ所に設置し、本部を園芸組合において放送管理委員会を組織し、「共和放送」と名付けてテーマ音楽を決め、定時放送・公示放送・農事放送・公民館放送・一般放送・ラジオ放送と多彩な放送を実施していた。塩崎地区でも三十一年四月有線放送施設を設けて、七ヵ所の放送塔と五ヵ所の応答機(卓上マイクとスピーカー)によって、役場・農協と各地区との連絡、農事関係報知・災害予防報知・村内一般広報活動に活用している。市域二一ヵ所の有線放送の運営形態は、表22のようである。


表22 長野市所在の有線放送電話施設状況

 県農協中央会では三十五年に、有線放送未設置解消運動を実施した。そして、翌三十六年六月に長野県農村有線放送協議会を組織して、保守・放送・業務の実務指導・研修会・放送番組推奨・機関紙発行・アナウンスコンクールなどをおこなった。三十七年一月の県農村有線放送協議会の調べによると、県内の有線放送は施設一九二、加入戸数一五万七五四七、普及率七六パーセントにのぼっている。この加入電話は公社電話の二倍以上であり、普及率は全国一位であった。

 国は、三十八年八月に「有線放送電話に関する法律」を特別法として制定したので、電話機も年々向上して、個別呼び出し装置つきのものも開発された。自動交換方式も登場して、従来の「放送プラス電話」から「電話プラス放送」へとかわっていった。翌三十九年一月の法改正によって、有線放送電話と公社電話との通話接続の道も開かれた。


写真68 更北有線放送の交換室

 市営の四施設は、四十一年の大合併の後に民営化され、市の補助によって自動化・相互接続化がすすめられた。四十五年六月一日に、長野市有線放送電話共同施設協会として、各有線放送施設との連絡・調整にあたる組織を設立した。七月十五日からは市内二一の有線放送は一本化され、市役所内に設けられた共同施設協会中継局と通じて、施設相互間の通話と緊急・災害など必要な場合には、市内の全施設がいっせいに放送できるようになった。通常は、共通一日三回の定時放送、自主番組の臨時放送もおこなわれた。

 その後、社会情勢の変化により、統廃合を経て平成八年(一九九六)には表23のようになっている。


表23 統廃合後の長野市所在有線放送電話