長野市の戦後の住宅不足は、戦時中の供給不足・建物の強制疎開による取りこわし・疎開者の受けいれなどによる飽和状態のところへ、戦後の海外からの復員・引揚者の増加によって頂点に達した。この戦後の住宅難のため、食糧品のやみ値とともに問題となったのは、家賃のやみ値であった。物価高を理由に二倍三倍の家賃の引きあげをもとめられる者、応じない場合は明けわたしをもとめられる者、一室の間借りなのに一軒分の家賃を請求されるなど、家主と借家人とのトラブルが新聞紙上にもしばしば取りあげられた。昭和二十一年には長野市借家組合が結成された。
昭和二十二年(一九四七)の長野市議会協議会は、都市計画内の農地を住宅地にあてるか農地解放にふりむけるかの論議の結果、農地委員の反発をしりぞけ、深刻な住宅難解決が先決であるとして、笠原十兵衛議長名で「長野市としては、道路・工場・住宅・店舗の地域を農地化することに反対する。区画整理地区内は、自作農特別措置法の特別除外地に指定してもらいたい」という意見書を県に提出した。長野市は住宅難に対処するため二十三年に住宅課を設け、一二坪の住宅一〇〇戸の建設計画を立てた。このころから県でも、県営住宅の建設をすすめていった。
国は、二十五年に「住宅金融公庫」を設け、二十六年に「公営住宅法」を制定した。この法は、住宅に困窮している低額所得者にたいし、「健康で文化的な生活を営むに足る住宅を、低廉(ていれん)な家賃で供給することを目的」としたものであった。さらに、三十年に設立された「住宅公団」とともに、この三つは戦後の住宅政策を支える重要な役割をになってきた。
昭和二十六年(一九五一)八月、長野市営裾花住宅(九反)、三輪住宅(本郷)二三戸の入居希望受付が始まった。資格は、「経済再建に役立つ業務に従事する勤労者で、住宅困難者であり、かつ住宅使用料の支払い能力のある者」となっていた。使用料(家賃)は一ヵ月八六〇円、希望者多数の場合は抽選とした。ところが、この二三戸に八七二人の借受希望者が殺到した。市はさらに、建坪一二坪・建築費二五万円以内の分譲住宅の受け付けを始めた。
同年十月の市議会では、一議員がこの住宅問題を取りあげて「分譲住宅では、貧困者の住宅緩和に役だたない。住宅問題は大問題である、城山小学校火災後の再建を木造建築にして、公営住宅を一〇〇戸建てるべきではないか」と質問した。松橋久左衛門市長は「公営住宅は貧困家庭に厳選する。長野市に定着し貯蓄のある方のために、市で土地と融資と建物の斡旋をするという分譲住宅の二本立てで、今後も住宅政策をすすめていく。年々市内の住宅は、五〇〇戸ほど不足する。これを満たすには多額の国庫補助がない限り、現在の市財政ではまかなえない。許す範囲で努力する。城山小学校は鉄筋コンクリート建築ですすめる」と答弁した。
二十七年には、相ノ木六戸・古牧二四戸の計三〇戸、五分一に二五戸の市営住宅を建て、﨤目に分譲住宅五〇戸の計画をたてた。五分一の二五戸には一〇九五人の申し込みがあった。この年の市内県営住宅九二戸にも一七七五人の申し込みがあった。長野市域では松代町東条屋地に、二十六年引揚住宅一〇戸・二十七年厚生住宅五戸(のち三十五年までに一八戸)が建てられている。
二十八年・二十九年には、東部地区(三輪・宇木・﨤目・柳町・吉田)に、市営・県営住宅や分譲住宅が六四〇戸ほどつぎつぎと建てられると、土地の売買価格が三~四倍にもはねあがった。このころから、建物構造が木造バラックから、モルタル塗り、軽石ブロックの簡易耐火構造や鉄筋コンクリートなどの不燃化に配慮した住宅も建てられはじめた。
長野市の三十年代前半の住宅建設(分譲住宅を含む)を『広報ながの』でみると、三十年一一〇戸・三十一年八七戸・三十二年一二一戸・三十三年八三戸・三十四年九八戸・三十五年一〇三戸・三十六年一一九戸と、毎年一〇〇戸前後の住宅を建てつづけてきている。長野県でも市内に県営住宅を三十年二三一戸・三十一年三〇九戸・三十二年二二〇戸と建築をすすめた。民間の自己資金建築や諸官庁住宅は三十年三五四戸・三十一年四〇七戸というように、市営・県営住宅を合わせて毎年七、八百戸の家が建てられているのに、人口の都市集中や若い人の新世帯増加などにより住宅不足はつづいた。
長野市住宅対策委員会は昭和三十二年(一九五七)八月、住宅対策についての話しあいの結果、①市内には低所得のため自力で家を建てることのできない階層の人が多い、②結婚ブームで親元から離れて世帯をもつ希望者が多い、③経済生活が向上して電気製品がふえ、広い部屋や多い間数をもとめるようになった、そこで「現在の公営住宅を適正価格で希望者に売却し、その資金で住宅建設をさらにすすめるべきである」という方針を決めて倉島市長に答申した。三十五年の長野市社会福祉大会の部会でも、低所得者や婦人・老人の幸せのためにといくつかの取りくみ事項をあげたなかで、低家賃住宅の建設をはかるよう市や県に働きかけている。市では二十年代後半から、すでに低所得者用の厚生住宅の建設をしてきているが、いっそうの推進をもとめられたのであった。市営住宅の団地名・所在・戸数・着工年度は表26のようである。
昭和三十年代・四十年代には、県営住宅・市営住宅の団地や、県企業局などの宅地造成による県営住宅・市営住宅・分譲住宅・自己資金住宅のいりまじった住宅団地がつぎつぎとつくられていった。柳町団地は昭和二十五年に県営アパート一棟が建ってから、年々鉄筋三階建て・四階建てアパートが建てられ、一〇年後の三十五年には三一棟となり、市営住宅五〇戸をふくめて約六五〇世帯の住む住宅団地となった。住民はサラリーマンが多いため、柳町というとベッドタウンの代名詞のようになった。この他、市内各地に住宅団地がつぎつぎとつくられた。昭和五十五年に人口一〇〇〇人をこえた大きな団地は、若槻団地のほか浅川西条・上松・杏花台・犀北・伊勢宮・小市南・宮沖・駒沢新町・西三才・犀南・みこと川などである。
昭和四十年代にはいっても厳しい住宅事情がつづいた。「一世帯一住宅」をめざし、県営・市町村営や民間による住宅建設をふくむ総合的住宅建設のため、国は四十一年に住宅建設計画法を制定した。さらに、四十四年に公営住宅法を改正して、①家賃を低廉化するための家賃収入補助、②高額所得者への公営住宅明けわたし請求、③老朽木造住宅の建てかえと高層中層住宅化による大量供給、などができるようにした。﨤目団地の九八戸のモルタル住宅を四十六年に取りこわして、鉄筋コンクリート五階建てにし3DKと居住空間を広げたのもこの法に基づくもので、家賃八〇〇〇円でも競争率は二二倍の人気となった。
新都市計画法が四十四年(一九六九)六月十四日に施行され、長野市では都市開発をすすめる市街化区域と開発を制限する市街化調整区域をきめた。市街化区域では土地の転用などは届け出のみでよく、市街化調整区域は許可制となって農地転用がむずかしくなった。これは個々バラバラの開発がすすむと、都市周辺が虫食い状態になるのを防ぐためであった。この法の施行の前に、これでは子どもを分家にも出せないと、かけこみの農地転用許可申請が激増した。同年三月九二件であった申請が、四月二六五件・五月三六三件・六月五六六件となっている。
昭和四十六年で浅川団地約五六〇戸・伊勢宮団地約四七〇戸・犀南団地約四〇〇戸・杏花台団地約二六〇戸・若槻団地約二二〇戸・篠ノ井庄ノ宮団地約二六〇戸・若穂の四地区の団地約五〇〇戸というように、急増するなかでさまざまな問題がでてきた。保育園・学校用地の確保もない無計画な団地造成、保育園・幼稚園までの遠距離、近くの学校の児童生徒の激増による教室不足、あとになっての用地確保が難航するなど、市民から非難される問題がおこった。その他、バスの便が悪い、医者が近くにいない、ポストがない、駐車場が確保されていない、団地内に残った農地の農薬の害をうける、緑地や子どもの遊び場が少ない、水害対策などの問題も出たが、団地自治会の取りくみや県・市の努力でしだいに解決がはかられてきた。五十年におよそ一〇〇〇戸になった若槻団地の住民からは、団地というものの八〇パーセントは一戸建てだから「団地」という名を変えたいという声も出てきている。