昭和二十一年(一九四六)一月、キリスト教矯風会・廓清会・国民純潔協会・日本キリスト教復興生活委員会の四団体が連署で、内務大臣に「娼妓取締規則の即時撤廃と残存制度の撤廃」を請願した。内務省は一月十二日、保安部長名で各県警察本部長あてに「公娼制度廃止に関する件」の通達を出した。この方針は、現業者(貸座敷業者および娼妓)を自発的に廃業させ、これを私娼として稼業継続を許容するというものであったから、実態は従来の遊廓とほとんど変わらなかった。
この通達後の一月二十四日、連合国最高司令官の「日本における公娼廃止に関する覚書(おぼえがき)」(連合国最高司令官が日本国管理のため発した指令の形式のひとつ)が出された。
連合国最高司令官覚書によって、先にみせかけの公娼制度廃止の通達を出して、私娼として営業を認めていた日本政府は、二月二日に内務省警保局長名であらためて「公娼制度廃止に関する件」を通達した。こうしていったんは公娼制度廃止が決定されたが、占領軍や日本人相手の街娼・私娼が広がってきた。そこで、同年十一月十四日の次官会議で、元遊廓内にある特殊飲食店などを「風紀上支障のない地域に限定して、集団的に認めるよう措置する」方針を決定した。そこでの線引きにより、赤線・青線などと称せられる公娼地域が生まれた。戦後の混乱と道義頽廃(たいはい)のなかで公娼制度廃止は有名無実化し、十分な成果をあげることはできなかった。
長野市の鶴賀遊廓は、昭和十五年の県統計書によると、貸座敷二二軒、娼妓八五人となっており、遊廓内外の芸妓一五九人・酌婦九四人となっている。県統計書は昭和十六年から二十二年までは発行されていないので、敗戦前後の状況ははっきりしない。
昭和二十九年二月八日東京において、売春禁止法制定期成全国婦人大会が開かれた。長野市でも婦人団体が、二月二十八日に衆議院議員神近市子を迎えて、売春禁止法制定促進大会を開いた。これら婦人団体の粘りづよい運動や衆参婦人議員団の活動によって世論が高まり、同三十一年の第二四回通常国会において、五月二十四日に「売春防止法」が成立し即日公布された。当時の現長野市域の営業者・接客婦の就業状況は、表27のようであった。同法の施行は三十二年四月一日から、罰則(刑事処分)適用は三十三年四月一日からとなっていた。法の内容は、主として売春業を処罰する刑事処分と、婦人保護行政の確立の二つを柱にしていた。三十一年十月に婦人相談員制度が発足し、三十二年四月一日に長野市に県婦人相談所と保護施設「ときわぎ寮」が開設された。同年九月二十五日には、県売春対策推進委員に民間人の小野清治郎(県社会福祉協議会事務局長)・黒澤三郎(八十二銀行副頭取)・藤巻幸造(県教育委員)・高野イシ(県連合婦人会長)の四人が任命された。主な仕事は、①売春防止活動について県への助言、②業者の転廃業について職業・生業資金の斡旋(あっせん)、③売春婦の更生のための一時保護の相談にあずかる、などであった。
『信毎』によると、三十一年十月から翌年六月までの九ヵ月間に、県内の売春業者六〇四人のうち七二人、売春婦一三六七人のうち三五一人が転廃業して、それぞれ促進率は一一・八パーセント・二五・六パーセントとなっている。売春業者三五軒の組織である長野市第二料理店組合(三十年十月には四六軒)は、三十二年十一月四日に組合を解散し、転廃業促進同盟会をつくって売春防止法処罰規定が発効する三十三年四月一日までに、全業者が転廃業することを申しあわせた。三十三年一月二十九日に発足した売春取締対策本部(県警察)の指導によって、三十三年二月十日付けで長野市内の全業者が転廃業の届け出をおこない、ここに明治十一年(一八七八)に成立した鶴賀遊廓は、八〇年間にわたる営業の幕を閉じた。
売春防止法の成立で売娼は否定されたはずであったが、個室付き浴場が通称「トルコぶろ」といわれて登場してきた。昭和二十六年ころから大都市などで、蒸しぶろからあがってきた客をマッサージする、健康増進の公衆浴場としてスタートしたものが、売春防止法施行時に貸座敷業者が転業して、浴室のついた個室で女性がサービスをする、いかがわしい営業をするようになってきた。
昭和四十一年(一九六六)七月一日に風俗営業等取締法の改正があったとき、県議会は長野県内では長野市権堂と松本市西堀を「トルコぶろ設置許可地域」に指定した。法改正によって無差別に建てることはできなくなったが、個室付き浴場を公認することになってしまった。さっそく東京の業者が、県に設置申請書をだしたのである。これにたいして、まず、婦人団体が反対に立ちあがった。八月十二日県婦人会館に、長野市連合婦人会・キリスト教婦人矯風会・長野友の会・救世軍・キリスト教系および仏教系婦人団体・日赤奉仕団・幼稚園連盟など三〇団体の代表が集まって、長野市トルコぶろ設置反対期成同盟会を設立した。会長に高野イシ市連合婦人会長を推し、トルコぶろは風紀を害し青少年非行化に拍車をかける、長野市を清潔な都市としていきたい、として設置反対運動を展開した。県当局・県議会・県公安委員会・県警察本部・長野市・長野警察署・長野保健所に陳情し、街頭ビラ配り・反対署名運動をして世論を喚起し、九月県会へ反対請願書を提出した。当時、トルコぶろのない県は、長野・山形・富山・島根・佐賀・宮崎の六県のみであった。さらに、九月三日には、県連合婦人会(会長高野イシ)と長野市トルコぶろ設置反対期成同盟会の共催によって、県婦人会館に県内各地から六〇〇人の婦人を集めて、トルコぶろ反対長野県婦人大会を開き、「長野市に企画しているトルコぶろ絶対反対・県内にトルコぶろを設けることに絶対反対」を決議した。東京からは戦前から売春防止運動に活躍している、久布白落実日本キリスト教婦人矯風会会頭が来て激励した。県会へ反対請願ときびしい条例づくり運動、ちらし配布・署名運動などによる全県的反対運動の展開を決め、「県下の婦人の総意を結集し、トルコぶろ設置に絶対反対の運動をすすめる」との声明を発表した。この運動により、この年のトルコぶろの設置は阻止できた。
トルコぶろの設置問題が再びもちあがったのは、四十四年一月であった。埼玉県の業者が長野市権堂へのトルコぶろ設置の申請を県に提出したのである。県は「業者の建築申請書には建築基準法に触れる箇所がある」と、申請書を業者に返した。業者は「県の建築基準法の解釈には誤りがある。裁判にかけてもトルコぶろをつくる」と計画どおり設置をすすめる構えを示した。権堂は県トルコぶろ防止条例の営業指定地域のため、設置場所としては法的には問題はない。計画を知った長野市トルコぶろ設置反対期成同盟会は、一月三十日県婦人会館に加盟三〇団体の代表を集めて、反対運動の対策を話しあった。四十二年に松本市西堀にトルコぶろ建設がもちあがったとき、予定地の一〇〇メートル以内に市が児童遊園地を設置して阻止したことを生かして、県会への請願書に長野市の「権堂町秋葉神社内に児童福祉法にもとづく児童遊園地をつくる計画である」との意見書をつけてだした。秋葉神社内の認可を受けていない児童遊園地を整備拡充して、児童福祉法にもとづく児童遊園地として認可の申請をすることにした。三月十七日に市が認可申請したところ、翌十八日午後には県はさっそく認可して市に通知した。この結果、県条例「児童遊園地から半径二〇〇メートル以内にはトルコぶろは設置できない」によって、権堂町にはトルコぶろはできないことになった。同じころ、秋葉神社横にトルコぶろをつくる申請をしていた市内の業者も申請を取りさげた。これにより、長野市のトルコぶろ問題は決着し、県内にはいっさいトルコぶろはできないことになった。