暴力追放運動と市民

394 ~ 399

昭和三十年代から組織が強大で犯罪性の強い暴力団が長野県内にはいってきて、地元の暴力団と争いをおこしつつ、温泉や盛り場を中心に勢力を広げてきた。こうした二都道府県以上にわたって活動する暴力団を、警察では「広域指定暴力団」といった。『暴力追放』(県警本部)によると、これらの暴力団は表面上は近代的企業の形態をよそおうものもあるが、実態はいわゆる一般に「やくざ」といわれるもので、①盃をかわして親分・子分・兄弟という絶対服従の身分関係を結び、②「代紋」と称する一家のバッジを所持し、③縄ばりと称するかれら独自の勢力範囲をもっているという。そして、○○組・△△一家などと名乗る強い組織を形成して、ささいなことに因縁をつけ暴力をふるって人を傷つけ、「用心棒代」と称して金銭をおどしとり、覚せい剤の密売買を繰りかえし、わいせつ図書・写真類を売りつけ、賭博を開いててら銭を徴収し、ときには女性を支配下において売春や人身売買をおこなうこともあった。また、右翼的政治活動に名をかりての脅し・たかりをするもの、小型新聞・雑誌を発行して会社や個人の弱点につけこんで金品を巻き上げる「会社ごろ(総会屋)」「新聞ごろ」と称される型の暴力団や、「ぐれん隊」と称される青少年不良団など多岐にわたっていた。

 昭和三十年(一九五五)十二月に松代町で検挙された某新聞社は、「更埴四大新聞協会設立」という大見出しで広告料や寄付金を強要したり、スキャンダルをつかむと相手に取材ずみだともちかけ、取り消しについての話がまとまると、その場で印刷所を電話口に呼んで「○○事件の活字はこわしてくれ」と一方的にしゃべって、相手がなんのことかわからないうちに電話を切ってしまうという手口で金銭を取るということをしていた。これは新聞とは名ばかりの暴力新聞で、翌年恐喝事件で裁判にかけられている。松代町では三十年十二月五日に、犯罪のない明るい社会の建設を目的として、松代防犯協力会(会長八田恭平町長)を設立した。松代防犯協力会は防犯への努力が認められ、三十八年に全国防犯協会連合会から表彰された。

 三十九年に全国的な警察の頂上作戦による暴力団幹部の検挙のなかで、長野県警も暴力団の長期取締り強化をすすめ、暴力団対策専従者を設けて暴力追放にのりだした。


写真77 組織暴力事件取締本部設置 (県警『暴力追放』より)

 四十一年五月に権堂町は、全国防犯協会連合会から防犯モデル地区に指定された。そこで、権堂町では「権堂を明るくのばそう町ぐるみ」を合い言葉に、町ぐるみの暴力犯罪追放に取りくんだ。防犯モデル地区推進委員会を結成して、二二人の推進委員と一〇六人の防犯協力員を組織し、長野警察署と直結するインターホーンを町の要所に配置し、交番のアナウンスを町内いっせいに徹底できるように、スピーカー、防犯灯など防犯施設の充実をはかった。さらに、協力員を中心に防犯講習会を開き、子どもたちの健全育成を願って街頭補導・小中学生剣道会開催などの活動もすすめた。この活動が実って犯罪が減ったので、権堂町防犯協会は四十三年五月三十日の全国防犯協会連合会総会で、防犯活動に功績のあった団体として表彰された。


写真78 権堂町警察官派出所前の看板 (県警『暴力追放』より)

 しかし、四十三年ころから、先に逮捕され入所していた広域暴力団幹部の出獄があいつぎ、組織への復帰を果たすとともに、成田空港問題・大学紛争などをきっかけに名称を変更して、政治活動に名をかりて右翼的活動をしたり、放免祝・役員改選・襲名披露・のれん分け・法要などのいわゆる「義理かけ」を公然と活発におこなったりして、組織の再編・拡大をはかるとともに地方へ進出してきた。

 四十三年十二月現在の長野県内の暴力団は、北信二五団体五六九人・東信一二団体三六九人・中信一一団体三四〇人・南信四団体二六六人、計五二団体一五四四人となっていた。北信の現長野市域関係では長野署管内に八団体一五三人、篠ノ井署管内に三団体六〇人、松代署管内に一団体三一人、更埴署管内に八団体一五三人の計二〇団体三九七人がいた(『暴力追放』)。

 四十四年二月二十四日、長野市に進出してきた広域指定暴力団員どうしが争いとなり、これに地元組員が仲裁に入ったことからこじれ、仲裁した組の幹部が刺殺されるという事件がおこった。この事件発生と同時に、県内外から多数の組員が駆けつけ結集したため、警察は強い警告・制止と警戒体制をとって事件の拡大を防止した。刺殺された幹部の葬儀には、県内外から暴力団関係者六〇〇人が集まって周辺の市民を驚かせた。市内には県外からはいってきた暴力団の事務所開きがつぎつぎとおこなわれ、長野県内は広域指定暴力団の草刈り場のようになってきた。

 県警は四十四年八月十九日、県内二ヵ所の暴力団重点取締り地区を指定し、それぞれ三人の専従班を派遣した。その一つは権堂町であり、もう一つは戸倉上山田温泉である。そこで権堂町では、四十五年六月十一日に権堂町防犯協会総会を開き、「安心して買い物ができる健全な歓楽街にするため、町から暴力を締めだそう」と暴力追放宣言を採択した。そして周辺地区へも呼びかけて、地元の商店・住民あげて暴力追放に本格的に取りくんでいくことにした。この直前の六月四日には、暴力団某組幹部の出所祝いが、市の蔵春閣三階食堂でおこなわれるということがおきた。市は業者に解約を勧めたがかなわず、業者は当該組に自粛を要請したがすでに関係者に通知済みとしてことわられ、当日は四〇〇人からの暴力団員が集まり、公民館に集まる市民に恐怖をあたえた。


写真79 暴力追放市民パレード

 さらに、七月九日には権堂町で、広域指定暴力団某組の事務所開き披露がおこなわれ、組のはっぴを着た者がのし歩き、三〇〇人もの暴力団員が集まってきて、六月の権堂町の暴力追放宣言はどこ吹く風といった状況であった(『信毎』)。

 そこで権堂町防犯協会では七月十三日に対策委員会を開き、町内の住民や職業別に暴力追放推進委員制度をつくって、暴力団を町から追いだす運動をすすめることを決めた。そして、暴力団追放の意識を高めるためパンフレットを全戸(七〇〇戸)に配布し、防犯テレビ・防犯連絡所の表示の整備をおこなった。

 県警は四十六年二月十五日、県警本部と長野署に「長野地区暴力取締本部」を設けて九人を専従させ、長野市等地方都市暴力団の本格的壊滅作戦を展開する体制をとった。同十八日、権堂町を中心とする繁華街の区長・防犯協会長・飲食店業者代表など七〇人が集まって暴力追放対策会議を開き、「暴力団に会場を貸さない、用心棒料の支払いを拒否する、事務所を貸さない、債権を暴力団に渡さない、従業員を雇うとき暴力団の斡旋を受けない、暴力団の飲食代の踏みたおしを許さない」を各業者組合で決議したり宣誓することにした。そして、二十日に秋葉神社社務所で暴力追放決起大会を開き、「われわれは、反社会的な暴力追放を決意し、暴力を恐れず、暴力を排除して、明るい町づくりに努力する」と宣誓した。権堂町が立ちあがったのなら、同じ繁華街の長野駅前も歩調をそろえようと、二十七日に末広・中御所・南石堂・北石堂・岡田の五町の代表七〇余人が集まって住民大会を開き、暴力団排除を宣誓した。

 市民の暴力団追放運動の高まりのなかで三月九日、夏目市長は市議会において質問に答えるかたちで、暴力団の市民会館使用を拒否することを明記した「市民会館使用条例」の一部改正や、暴力団員が市民に迷惑をかけないよう、市独自の「迷惑防止条例」を検討する意向を示した。市は四十五年から五ヵ年計両で市内・郊外・農村地区の防犯灯七〇〇ヵ所取りつけの補助を始めている。

 こうした取り組みにもかかわらず同年五月十八日の夜、権堂町のマンモスバーに某組員八人が押しかけ、言いがかりをつけて経営者ら四人に重軽傷を負わせる事件がおきた。同店はあばれた暴力団員を店内に閉じこめ長野署に救いをもとめたが、同署の不手際から犯人の大半を取りにがした。先の暴力追放決起大会で熱心に暴力追放を訴えたこの経営者が、こうした被害を受けたことから、「警察が市民の協力をというので協力した結果がこれでは」と市民の警察に対する非難が高まった。防犯体制の不備を指摘された長野署は、専従捜査員を補充して暴力取締りを強化した。長野署は四十七年以降、覚せい剤取締法違反・わいせつフィルム密売・銃刀法違反・暴力事件などで、組長をふくめつぎつぎと多くの暴力団員を逮捕した。五十一年六月には市内の暴力団組長が獄中から、市民に迷惑をかけたからと組の解散声明をだしている。これには、今まで口をつぐんでいた人たちが、権堂町や駅前商店街を中心に高まった暴力追放の市民運動のなかで、声をあげ行動する勇気を取りもどしてきたことも大きな力となっていた。