公害の発生と対応

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戦後の復興がすすみ、物が豊かになり、自動車・オートバイなどが増加するとともに、長野市で問題となってきたのは騒音である。宣伝カーや街頭スピーカーからの音、自動車・オートバイなどの警笛(クラクション)や排気音などを規制して、静穏な文化都市を築こう、学校・病院・図書館の近くは静かな環境にしようという声が高まった。市は昭和二十九年(一九五四)に騒音防止条例案をまとめ、六月の市議会に提出した。議会は野放しの騒音の締めだしをはかるために可決し、七月一日から二二ヵ条の「騒音防止条例」が施行されることになった。これによりスピーカーの方向・音量や場所が規制され、緊急時以外は夜一〇時から朝六時までは大きな音はたてられなくなった。市はただちに長野市騒音防止委員会と各地区の地区騒音防止委員会を組織し、指示騒音計を五万八〇〇〇円で購入した。騒音で迷惑を受けた者は、書面で委員会に申告すると、委員会は調査して措置を警告し、従わない場合は市長の行政命令をだせることになっていた。『信毎』によると、当時この条例は、東京都・横浜市・札幌市についで全国四番目ということであった。

 市はこの条例により、三十三年に実施要領を決め、昭和通り・中央通り・県(あがた)町通り・国道一八号の市街地周辺・長野駅前の五ヵ所をノークラクション地域に指定した。そして、県警察本部・長野警察署・陸運事務所に交通業者や民間団体を加えて、町を静かにする運動連絡協議会(会長倉島市長)を設け、音の暴力から市民を守り町を静かにする運動「ノークラクション運動」をおこなった。警察署もとくにカミナリ族への取り締まりを強化し、十月には五二人を書類送検した。このときのノークラクション運動の成果の一端は、表28のようである。


表28 車の警笛回数調査 (昭和33年)

 昭和三十年代から四十年代にかけて、国内で四日市ぜんそく・水俣病・阿賀野川有機水銀中毒(新潟水俣病)・神通川のイタイイタイ病などの公害が問題となった。県内でも騒音・排気ガス・畜舎の悪臭と汚水・河川の汚染・農薬の薬害・砕石(さいせき)の農作物被害・光化学スモッグ・ごみの不法投棄などが、公害として問題となった。そこで長野県は四十年十月に「長野県公害防止条例」を定めた。国はこの二年後の四十二年八月三日に公害対策基本法を公布している。長野市は四十二年三月、長野県公害防止条例と重複するとの理由で、市の騒音防止条例を廃止した。


写真80 自動車の激増で排気ガス公害発生

 更級・埴科地方では四十三年ころから、畜舎公害が問題になってきた。かつての農村が都市近郊の住宅地として開発されてくると、豚や鶏の畜舎の臭気・汚水などへの住民の苦情が多く寄せられるようになった。そこで、篠ノ井保健所は管内の市町村行政担当者・家畜生産者の代表者を集めて畜害衛生対策協議会をつくり、畜舎改善・脱臭装置・害虫の発生防止・汚水処理などを巡回指導して、畜舎公害に対処した。さらに市街地に隣接する畜舎の場合は、畜舎衛生基準によって許可制とし、管内約三〇〇の畜舎にたいし行政指導のうえ許可証を交付した。

 長野市は四十四年四月、社会部に八人体制の交通公害対策室を設置し、交通安全対策係と公害対策係の二係を置いて、市民の苦情や相談の窓口となり、交通安全・公害対策の連絡調整にあたった。これは翌年、衛生部公害交通課と改称して強化した。国では四十三年に騒音規制法・大気汚染防止法が施行された。これを受けた長野県は、四十四年七月に長野市を「騒音規制法が適用される指定地域」とした。指定区域内では、金属・木材加工・印刷機械などの特定施設一一種、杭打(くいうち)・鋲打(びょううち)などの特定建設作業五種の騒音が規制され、住居専用地域・住居地域・商業準工業地域・工業地域それぞれの音は表29のような規制を受けることとなった。


表29 都市計画用途地域による騒音規制基準 (昭和44年7月)

 国の一酸化炭素の環境基準が決まったのを機に、長野市は県公害センターの協力を得て、四十五年二月二十五日から三日間、昭和通り新田町交差点・県庁前交差点(終日調査)と魚力前・長野信用金庫前(部分調査)の調査をおこなった。調査項目は、①一酸化炭素、②炭酸ガス、③窒素酸化物、④粉塵、⑤騒音、⑥通過車両数の六項目であった。同年五月の市内のメーデーでは、「公害をなくせ」「東京に本当の空なし 信州に本当の川なし」などという、公害をとりあげたプラカードも目についた。この少し前に、小田切ダムから取水した水道水がアンモニア臭い、マンガンによる色つき水がはいっていると問題になっていた。川の汚染は、家庭の水道水の汚染につながっていた。六月にくらしと健康を守る市民会議が住民要求アンケートをとったところ、公害問題では騒音・排気ガス・煤煙(ばいえん)・ごみの不法投棄・し尿処理・農薬害がとりあげられていた。ごみ公害は臭い水事件のほか、小川や水門でのごみづまりの夕立洪水や自然破壊が問題となってきていた。市は八月に七〇人の監視人依頼をおこなって、河川などへのごみ捨てを監視し、悪質な業者は河川法違反として告発する方向を決めた。市衛生部でもごみの不法投棄取り締まりのため、裾花川・犀川・千曲川などの河川敷の夜間パトロールをおこなった。九月には「し尿浄化槽維持管理条例」をきめ、野放しになっていたし尿浄化槽(簡易水洗便所)による河川の水質汚染や農業用水の汚染などの被害を防ぐようにした。このおもな内容は①利用者五〇〇人以下の浄化槽にも管理技術者をおく、②一般家庭の浄化槽は清掃業者に依頼して年二回の手入れを義務付ける、③届出制を守らせる、④市は立ち入り検査をおこない不良業者は認可を取り消す、などというものであった。翌年夏からは、し尿浄化槽を新たに設置する場合は、放流先の用水組合の同意書をもらうよう行政指導をおこなった。これは用水組合によって許可料に大きな違いがあって、市民から疑問や苦情が寄せられることになった。


写真81 交通量の多い新田町交差点での排気ガス・騒音調査

 公害については各地域でも住民運動が始まった。四十五年一月真島では、砕石工場の騒音がひどく、砕石じんがりんごや野菜にかかって成育を害し商品価値もさげ、農民ののどや内臓に支障をあたえているとして工場移転要請がだされた。九月に大豆島では市や保健所・地元住民二五〇人が集まって「公害を作りません作らせません大会」と称する公害対策決起集会を開いて、ごみ処理・河川の汚染・農薬禍・家畜のし尿処理について自由討議をおこない、大会宣言をまとめた。さらに大会記録を『公害公報』として発行し、全戸に配付することもした。


写真82 公害反対の大豆島地区大会

 また、松代地区では九月に公民館に住民の代表が集まって公害について座談会を開き、これを『公民館報』二頁に載せている。松代では翌年、日本電解工場のカドミウム汚染が問題となってきて、政府調査団もはいった。

 市は四十五年十二月の定例議会において「長野市公害防止条例」「長野市公害対策審議会条例」を定めた。その直後の四十六年一月、長野市は公害防止条例一一条に基づき、それまで一〇年ほどつづけてきた農薬の空中散布を中止することを決めた。前年までの空中散布では、①通勤通学途上の人々の上にかかった、②桑や野菜にかかって補償した、③畜舎に散布されて豚が死んだ、④学校のプールにかかって水泳ができなくなった、などさまざまな実害を引きおこしていた。そこで市は空中散布補助金を打ちきり、地上散布の散粒機購入補助金を支出することにした。さらに公害防止のため、企業に公害調査関係器具の貸与を始めた。教育現場でも同年十月の長水教育研究集会では、初めて「公害分科会」が設けられ、六人の教師が社会科公民や理科での公害学習について発表している。


写真83 ヘリコプターによる農薬散布

 四十七年四月初めの新田町交差点の日中一二時間の通行車両は約三万一〇〇〇台、排気ガスは日中八時間の平均一九ppm(閣議基準一〇ppm)であった。同時期調査で、末広町交差点は一四・三ppm、柳町交差点は一四ppmであった。市は十日に公害防止協力員制度を発足させ、公害モニター八〇人を委嘱した。十八日には第一回新田町自動車排出ガス対策連絡協議会(県・市の公害課、県警・市医師会・国道事務所)を発足させ、ただちに付近住民の健康調査をおこなうことにした。道路から二〇メートル範囲内に住む八九世帯三六五人に、市保健婦が直接聞きとりをおこなった。三三五人から聞きとった結果、三〇パーセント以上の人が咳やたんで悩んでいることがわかり、たばこを吸う人をのぞいても二一パーセント、五人に一人の割合で異常を訴える人がいることがわかった。

 六月には長野地方貯金局でPCB(ポリ塩化ビフェニル)汚染が問題となった。ノーカーボン紙を日常扱っている職員(女性一〇〇大・男性五九人)をしらべたところ、皮膚の異常六二人(黒い斑点・湿疹・爪の異常など)のほかに頭痛・脱力感・手足のしびれ・視力のおとろえ・生理不順などを訴える人が多かった。この年に、国ではPCBの製造の停止を決めている。