昭和二十七年(一九五二)二月、部落解放全国委員会長野県連合会(以下、部落解放県連)は、部落解放県策樹立要求臨時県連大会を開き、県に行政上の具体的施策の実施をもとめた。県は同年五月、環境改善補助制度をつくり、十二月に長野県部落解放審議会を設置した。さらに、県は二十八年五月に、前年度の補助制度を補強し、被差別部落住民の経済更生の一助として、経済更生補助制度を設けた。六月には県・県教育委員会・部落解放県連による「長野県同和教育連絡会」を発足させ、県内における同和教育の推進について具体的取りくみを始めた。この年から部落解放県連は、機関紙『解放情報』を発行した。
二十八年四月十八日に、上水内郡長沼村(現長野市長沼)の中学生が言葉による差別事件を起こしたので、部落解放県連は村に抗議し、対策をもとめた。村では差別撤廃に向けて七月四日に村役場で部落問題協議会を開き、長沼村部落解放審議会の設置を決め、地区の環境改善と農業機械化対策を実施することにした。翌二十九年五月には、古里小学校で児童集団差別事件が起きたので、部落解放県連主催で古里小問題協議会を開いた。七月三十日、古里では二〇〇余人が集まって、部落解放古里地区市民大会を開いて、「古里地区市民は、個人の人権を尊重し、人類平等の精神に徹し、今後は差別問題の根絶を期すること」「市に部落解放審議会の設置を要望すること」を決議した。この二地区では、古里地区同和教育推進委員会が三十六年八月二十九日に、長沼地区同和教育推進委員会が同年十月二十七日に発足して、同和教育への取りくみをすすめた。
長野市は、二十九年に市部落解放審議会を発足させ、一五人の委員を選んだ。翌三十年六月に長野市と部落解放県連による地方施設改善打合会を開き、市内栗田に二階建て九〇坪の授産施設を設けることを決定し、職業指導もおこなえるように立案したが、種々の事情で実現にいたらず、机上プランにおわった。同年十月に部落解放県連は、組織の名称を「部落解放同盟長野県連合会」(以下、部解同県連)と変更した。
昭和三十一年一月に山ノ内町で、「部落解放青年婦人集会」が開かれた。同年六月、共和中学校生徒の差別事件をきっかけに、更級郡篠ノ井町岡田(現長野市篠ノ井)に部解同県連青年部が発足した。同時に部落解放青年学級も発足した。この青年学級は、篠ノ井地区の青年団活動に大きな刺激をあたえた。九月二十日に、長野市自治会館で開かれた県教育委員会主催の部落解放青年学級打ちあわせ会で、代表者は「今は読書会に力を入れている。青年部のない他部落へ出かけて、青年と交流をしている。町の連合青年団に加入して、弁論大会では部落問題について訴える。祇園祭差別に取りくんでいる。子供会も開いて取りくんでいる。また、部落内の封建制打破と生活合理化の一環として禁酒励行をしている」と現況報告をしている。
共和地区連合青年団は、文化部の活動に岡田同和教育青年学級の研修を位置付け、三十二年の更級郡青年団研究集会にレポートを提出した。レポートを提出された分科会では、初めは沈黙がつづいたが、しだいに考えあい話しあう方向が出てきて、今まで伏せられていたさまざまな問題が明らかにされた意義は大きかった。さらに、同年の第二回長野県青年問題研究集会に、共和地区連合青年団は部落問題をとりあげて、「生活を良くするために」というレポートを提出した。
三十一年十月二十四日の『信毎』の社説は「同和教育は眠っていないか」と題して、部落差別撤廃に向け県民の正しい理解と覚醒をうながし、学校・社会同和教育のいっそうの取りくみのたいせつさを訴えている。この年に県教育委員会は社会教育課が中心となって、初めて県同和教育研究集会を開催した。同年、県高校教職員組合は、『同和教育を進めるために』を刊行し、また、信州大学教育学部は部落問題研究会を発足させた。
県公民館運営協議会は三十二年三月、県公民館大会に「同和教育分科会」を設けた。県連合婦人会も理事会で同和教育と取りくむ方針を決定し、三十三年から婦人問題研究集会に同和教育分科会を設けて、二つの実践記録をもとに研究討議をおこなった。翌年には五つのレポートが提出された。信濃教育会も同和教育研究委員会の設置を決め、翌年から発足させ、『同和教育のために』第一集を刊行した。同年、県教職員組合は、定期大会で同和教育研究委員会の設置を決定した。
長野県市町村部落解放審議会連絡協議会が三十三年(一九五八)三月に発足して、県内市町村の同和行政の役割と方向付けが具体化してきた。同三月には郡市民生委員協議会が、部落問題研究会を開いた。七月には県母親大会が部落問題分科会を設け、被差別部落の母親も参加した。七月に部落解放長野市対策委員会は、竹内教育長に「教員の勤務評定は、同和教育を阻害するので絶対反対」を申しいれている。地域にも部落解放の機運が高まり、篠ノ井町(長野市篠ノ井)・綿内村(現長野市若穂町)では条例で部落解放審議会を設置した。
昭和三十五年に上高井郡若穂町(現長野市若穂町)で中学生による差別事件がおきた。同年には長野市内被差別部落の女性にたいする結婚差別事件も起きた。部解同県連長水支部は十二月に、差別事件が多発しているので、長野市として善処してほしいと市長に申しいれた。市長は、①同和教育推進のため、今年度中に小・中学校教員対象に同和教育研究会を開く、②公民館・婦人会・青年団体に対し講習会を開く、③差別撤廃のための予算化をはかり市民に徹底させる、と回答している。県は、同和教育の小・中・高を通した指導計画をつくるため、県同和教育研究委員会を発足させ、二年間の同和教育研究指定校を決め、その実践を「同和教育研究報告書」にまとめ、各学校への配付を始めた。この年に長野市は他団体との共催で「人権を守る講演会」を開いた。部落問題・黒人問題・インドのカースト制度の問題などをとりあげ理解を深めた。
市内の中学校で三十六年に、部落差別による女子中学生の自殺があった。これまでも、結婚差別による青年の自殺事件がいくつもおきていて、差別は人の命さえ奪うと部落問題の深刻さを人びとが知るようになっていたが、中学生の自殺は地域住民や教育関係者に大きな衝撃をあたえた。この年の県PTA研究集会にも同和教育分科会が設けられた。
昭和三十七年八月には二日間にわたり、市民会館・南部中学校を会場に、全国部落問題夏期講座が開かれた。各都府県の部落解放同盟の代表・各自治体の担当者・同和教育担当者など、全国からおよそ一四〇〇人が集まって、①学校教育における同和教育、②社会教育における同和教育、③部落問題の学習、④部落解放の行政問題などについて学習を深めた。こうした全国的な講座の学習は、長野市の同和教育の取りくみに大きな示唆をあたえた。北信タイムスは「差別はみんなの問題」と題して、部落問題を中心に一九回にわたって連載した。
長野県同和教育推進協議会(県同教推協)が、三十九年四月に設立された。県内の運動体・教育団体など一四団体・行政機関六課を網羅した官民一体の団体である。県同教推協は、被差別部落の実態・被差別部落の歴史・部落差別などの調査と報告書の作成、同和教育の研究実践に基づく研究会の開催、小中学生用の副読本『あけぼの』の作成、機関紙『同和教育長野』などによって、同和教育の啓発推進にあたった。四十一年八月には一泊二日で山田温泉風景館において、県同教推協主催、県教委・高山村後援による長野県同和教育研究会が発足した。
県同教推協の構成団体となった県連合青年団は、四十一年に第一回文化祭を開いた。そこに部落問題をテーマにした創作劇が二本出された。若穂町連合青年団の「朝もや」と上山田連合青年団の「暁をめざして」とであった。第五回文化祭には、松代連合青年団が「夕焼け雲」という部落問題をテーマにした演劇を上演している。
長野市では四十一年(一九六六)八月、市議会で「同和対策審議会答申完全実施」について意見書を議決した。翌九月には「同対審答申完全実施要求県民大会」が開かれた。この年、長野市内に長野市部落問題懇話会が結成された。さまざまな立場の人が集まって、毎月一回会員の家に集まって、意見発表や討論をおこなうようになった。市は四十二年三月三十一日に「長野市部落解放審議会条例」を制定して、市部落解放審議会を設置した。同年、県高教組は長野市で、第一回高校生部落問題研究集会を開いた。
昭和四十四年七月「同和対策事業特別措置法」(一〇ヵ年の時限つき法律)が発効したのにともない、市教育委員会社会教育課に「同和教育」担当の事務分掌が位置づけられた。同年三月三十日には、川中島地区出身の高校教師の差別発言事件に関する糾弾集会が、川中島公民館で開かれ、地域の同和教育への取りくみや教師の差別意識も問題にとりあげられた。また、長野市にある薬品会社による女子高校生就職差別事件が起き、十二月に部解同県連は城山蔵春閣において差別反対抗議集会を開いた。
この年、市は同和教育指導員制度を設け、法の目的達成のために被差別部落出身の有識者八人を指導員に任命し、中央・篠ノ井・松代・若穂・川中島・更北・七二会・信更の八公民館に配属し、地域の同和教育の推進をはかった。さらに、各地区の公民館を単位に同和教育促進協議会(以下、同促協)を結成した。篠ノ井・松代・若穂・川中島・更北・七二会・信更・古里・柳原・大豆島・朝陽・長沼・安茂里・古牧の一四地区に同促協が発足した。各公民館には、地区懇談会手引書・スライド『あけぼの』・児童生徒作文集『友だち』などが配布され、懇談会・講演会・映画会などに活用された。また、この年に市は、被差別部落住民や関係地域住民の差別撤廃の意識高揚や部落問題についての理解を深めるため、「同和教育学級」を八地区に、「同和教育講座」を一五地区に設置した。この年から、長野県教育センターでは、二日間にわたる小・中・高校教員対象の同和教育研修を始めた。
四十四年八月部解同県連長野市協議会は、夏目市長に、①長野市対策委員会は部落解放同盟と無関係であるから不承認とすること、②部解同県連への組織介入と分裂行動している市職員を免職すること、を申しいれた。これは対策委員長と市厚生課職員が部解同県連から統制処分を受け、組織から除名されていたのに現職にとどまっていたからである。さらに、四十五年五月、部解同県連・同北信地区協議会・同長野市協議会の代表五〇人が、市役所を訪れ柳原助役(市長不在のため)に市の差別行政について抗議した。さらに翌四十六年一月には部解同県連長野市協代表が、市の差別行政について市長交渉をおこなった。
四十五年には、長野市内被差別部落出身の青年が結婚差別で自殺し、県立信濃美術館の配付パンフレットの差別文書事件が起こり、四十六年には、SBC「朝のジョッキー」という番組で、ゲストの善光寺院坊住職の差別発言があり、国有鉄道篠ノ井貨車区で差別事件が発生するなど、差別事件が多発した。翌年松本運転所でも差別事件が起きたので、長野鉄道監理局では部落問題の重要性を認識して、局内に「同和係」を設置し、広報紙に「同和教室」を七回特集し、年間三〇〇〇人を対象に同和問題研修会を開催した。四十七年の県連合婦人会の婦人問題研究集会には、長野市古里婦人会がレポートを提出し、部落差別・古里地区同和教育支部結成の動機・部落解放のための方策などについて報告をおこなっている。
長野市は四十六年に社会部に同和対策室を設置し、上駒沢同和対策集会所を設けて部落解放をめざす活動の一つの拠点となるよう、連帯と啓発をすすめた。市教育委員会は四十七年四月に、市内の全小・中学校を同和教育指定校とし、その内三校を発表校として同和教育の推進をはかった。
第一回長野市部落解放市民集会が、昭和四十八年一月十四日に開かれた。講師に児童文学者柴田道子を迎え「被差別部落の伝承と生活」と題する講演を聞き、塚田正朋・藤巻幸造・伊沢二三・山崎翁助の四氏によるシンポジウムを開いた。この直後の二十六日、長野市の差別と分裂行政にたいして、部解同県連の抗議デモと糾弾集会が開かれた。夏目市長との交渉がおこなわれた結果、市長は、①部落解放同盟県連長野市協議会を有力な団体として認める、②今後、長野市の部落解放行政は誠意をもって部落解放同盟県連と相談していく、の基本的態度と方針を示し確認された。