昭和二十八年(一九五三)ころから、青年団は平和運動に精力的に取りくみはじめた。保安隊(現自衛隊)の有明演習地反対・米軍浅間山演習基地反対・平和憲法擁護・再軍備絶対反対・原水爆禁止・公明選挙・生活綴り方などの運動を積極的にすすめた。このころから「うたごえ運動」がひろがり、二十八年には長野合唱団が発足した。明るい合唱を通じて文化交流をと、二十九年十二月に「長野のうたごえ第一回合同発表会」が城山市民会館で開かれ、二四サークルが参加し一〇〇〇余人の聴衆が集まり盛大であった。開会から閉会まで五時間におよぶ会であったが、途中で帰る者はほとんどなく、最後まで楽しい雰囲気に包まれていた(『信毎』)。
三十年十月に第一回信濃のうたごえ大会が長野市後町小学校体育館で開かれた。前夜祭には、長野合唱団・更級のうたごえ・信大合唱団などのグループが参加した。第一日目は「産業別のうたごえ・学生のうたごえ・婦人のうたごえ・地域のうたごえ」と団体・サークル別の発表があり、合同合唱などで合唱交流がおこなわれた。うたごえは地域の青年団にもひろがり、寺尾村青年団では仲間づくりをすすめるために「うたごえ運動」をはじめたところ、歌声が響きフォークダンスも踊るようになり、青年団が活発化してきたと報告している。
戦後芽生えた新しい息吹きを継続し、模索しながら地道な活動と友情のなかから、共同して実践活動をくりひろげる青年団もあったが、地区の青年団のなかには、お祭り青年団・スポーツ青年団などから脱却できないでいたものがあった。更北村真島本道青年団は「一昨年ころまでは、昔からつづけられている敬老会と奉仕活動、それに部落対抗の野球大会以外に青年団活動を知らなかった。それが昨年の三月郡連青の研究集会に初めて五人出席して、遅ればせながら団活動の方向に目覚めさせられた」(『県青年団運動史』)と反省をのべている。
このように各地域の青年団が平和運動に取りくみはじめた二十八年ころから、警察の青年団への圧力が目だち、うたごえ運動や平和集会などへの干渉のあったことが県連合青年団に報告されている。若槻村青年団が「うたごえ会」を始めた時期、歌の種類を地区の警察官が聞いてまわったという事例もあった。三十年に県連合青年団は、各郡市青年団あてに「青年団運動に関する警察の不当調査についての報告依頼」という文書を出し、九項目にわたる報告依頼をおこなっている(『県青年団運動史』)。こうしたことから、警察官職務執行法一部改正は、青年団活動に大きな束縛をもたらすものと考え、青年団は強力な反対運動を展開した。この法案は全国的な反対運動の高まりのなかで、ついに廃案となった。農村部によっては、平和運動の一環として「ひめゆりの塔」や「雲流るる果て」の上映運動をしたところ、「赤の手先」などと地域の一部から非難を受ける青年団もあった。三十年七月二十三~二十五日、戸隠で県平和友好祭が開かれた。県内から一五〇〇人の青年・学生が集まり、四〇〇のテントを張って、羽仁説子の講演を開き、うたごえとフォークダンスと芸能で交流し、戸隠登山をおこなった。
長野市連合青年団(以下、市連青)は、昭和二十九年(一九五四)四月一日の一〇ヵ村との合併によって組織が大きくなった。四月十八日には城山公民館に旧一〇ヵ村と芹田・古牧・中御所の一三地区青年団が集まり、新しい市連青の結成大会を開いた。そして、翌三十年十二月には第一回青年団大会を開いた。その趣旨の要旨は「市町村合併で大長野市が誕生した。青年団も連合体の仲間として、さまざまな学習と実践を通して地域の力を結集し、組織を強化充実するとともに、住みよい市の発展のために青年団活動をすすめよう」であった。運動方針を決め、諸問題について研究討議をおこない、学習活動・社会活動・文化活動・スポーツ・生産活動・女子活動などの活動の方向を決め、弁論会・交歓会(歌・踊り・演劇など)もして盛りあげていった。
市連青は、昭和三十一年四月に「母と娘の会」を市連合婦人会と社会福祉会館で開き、①母は娘の幸福をいかに考えるか、②嫁と姑・嫁と小姑の折り合いをどうつけるか、③古い習慣・因習をどう考えるか、④民主的な家庭関係はどのようにしたらよいか、などについて話しあった。同年七月には、市教育委員会と共催で「第一回飯綱高原の集い」を市営キャンプ場で開いた。講師を招いて、キャンプの知識・計画を学んで実践し、水陸の救急法の指導を受け、「青年の生活をよくするには・交友と恋愛と結婚」について話しあい、バレーボールやフォークダンスを楽しんでいる。同年十一月には、長野市との共催で「第一回長野市農業問題研究集会」を県農事試験場で開いた。近郊農村の青年として、希望をもって自分なりの農業経営をしていきたいとして、一般農業・果樹・畜産・養蚕・そ菜の五分科会に分かれて、レポートを中心に研究協議をおこなった。三十二年八月に、第一回長野市青年祭を川端・南部両中学校を会場に開いて、スポーツを中心とした交流をおこなった。同年九月には、前年の「母と娘の会」を「母と青年の会」として、県連合婦人会館で開いた(『市連青記録』)。
第三回市青年団大会の要項によると、基本目標は、①青年の生活をよくしよう、②自主財政を確立し組織を強めよう、③女子活動を強めよう、④青年の教育はわれらの手で育てよう、⑤平和と民主主義を守ろう、となっている。三十一年からは、市教育委員会と共催で「話し合いの中から新しい生活を切り開こう」と、市連青女子研修会が開かれるようになった。三十三年四月の第三回研修会の要項によると、テーマは「女子活動を強めるにはどうしたらよいか」で、芋井・古里・長沼・小田切・柳原の各青年団の女性たちがレポートを提出している。これらのレポートで取りあげられた問題は、新生活運動の一環の結婚式改善、農家の栄養改善に関する料理研究会、婦人会・若妻会との話し合いと連携、女性の地位問題、公民館の青年学級との関係、グループ活動の育成など多岐にわたっている(『長野市誌第十四巻資料編』)。
このころの市内の地域青年団活動は、浅川青年団の場合では三十年度はつぎのようであった。団員数一二三人で、組織は正副幹事長・総務部長を中心に、文化部・厚生部・産業部・家政部をおき、七地区から代議員と地区団長を出していた。基本目標は、①組織拡充強化、②公民館・農協青年部・婦人会との提携、③地区青年団との提携、④市連青との提携による事業立案、⑤地区運動会・小中学校運動会参加などが掲げられ、各部の活動はつぎのようである。
①文化部は、○農閑期利用の歌・踊り・話し合い、○十二月二、三日のブランドの湯での青年団大会(報告・講演会・弁論・コーラス・ダンス・映画会)、○機関紙年二回発行、○原水爆禁止長野県大会参加、○子どもの日に新入学児童招待
②厚生部は、○飯綱一の鳥居ハイキング、○季節保育所の鉄棒・砂場づくり、○伝染病予防の保健衛生、○球技大会、○市連青体育祭参加
③産業部は、○農協青年部と他町村の生活改善状況や農事視察・研究、○うじ駆除年二回
④家政部は、○農繁期の保存食の作り方(婦人会と共催)、○生活改善発表会、○母と娘の会参加
などの活動をしている(『浅川青年の足跡』)。
昭和三十四年(一九五九)県連青は、第五回大会で、①戦争準備のあらゆる勢力と対決し、平和と民主主義を闘いとる第一線に立とう、②青年教育の官製化に反対し、自主的な学習活動を深めよう、③団員登録を強化し、自主財政を確立しよう、の運動目標を決めたが、その足元は経済・社会の変貌(へんぼう)の波のなかでゆらいできていた(『長野市誌第十四巻資料編』)。市連青は三十五年二月に共闘組織をつくり、六月の日米安保条約改定阻止運動に参加した。七月には原水爆禁止世界大会平和行進長野駅前大会に参加し、長野駅前から屋代駅前まで行進をおこなった。上水内連青は同年五月十二日に、長野市中を三〇〇人による日米安保反対の提灯(ちょうちん)デモを耕運機も動員しておこなっている。
昭和三十六年に制定の農業基本法は、農民の労働者化と兼業化に拍車をかけた。地域の変貌は、地縁的な結合によって推持されてきた青年団に大きな影響を与えた。近郊農村では、農業青年が少なくなり、通勤青年が中心となる青年団が多くなった。また、都市化のすすんだところは、都市中心部から青年団がなくなるドーナツ化現象が生まれ、青年の流出した農山村地域では、青年団員の激減現象がおこった。三十五年にはすでに篠ノ井連青は解散しており(三十七年に篠ノ井共和青年団は通勤青年八〇パーセント・農業青年二〇パーセントで組織再建)、三十五年に朝陽青年団も休団している。休団・解散はしなくても、青年団への入団者が減ったことから、連合青年団への分担金に耐えられなくなって、脱退する地域青年団もふえてきた。
こうしたなかでも、地区青年団を結集して活動をすすめる青年団もあった。松代町の松代・寺尾・西条・東条・豊栄・清野・西寺尾の各青年団は、合併後に協議会の形をとっていたが、三十六年に松代連合青年団として連合体の形をとって一本化した。そして、①団員の要求に基づいて民主的な運営をしよう、②学習を基礎に活動を盛りあげよう、③自主財政を確立しよう、の三つのスローガンをもとに、文化活動・体育活動などをおこなった。三十九年十月に松本市で開かれた県青年祭で、松代青年団はバレーボールで優勝し、全国大会に出場した。昭和三十七年に若穂町綿内青年団の一三人は、政治経済研究会「やつで会」をつくり、『資本主義の歩み』をテキストにした学習をおこなった。第七回県連青研究集会に出したレポートでは「高度経済成長景気を謳歌(おうか)する華やかな表面と同時に、合理化による労働者の首切り、農村における貧困と農村の将来にたいする不安からの離農現象という二つの暗い側面も一体にもっていることを知りました。……このような集団で読書をし、討論するなかから社会を正しく見つめることができ、自分たちは現在どういう立場におかれているか、正確に理解するのが学習の目的であります」と述べている(『県青年団運動史』)。
市連青は、四十三年三月に元善町本覚院で女子問題研究集会を開き、約五〇人の団員が「現代の女性の立場と在り方」について話しあった。県短大の鈴木鳴海の「現代女性とその在り方」の講演を聞いたあと、分散会にうつり、共働き・嫁姑(しゅうと)問題・職場での女性の地位などについて問題を出しあい、話しあっている。
このころから県の青年層にたいする行政に変化が出て、「青少年対策室」の指導によって、昭和三十八年(一九六三)に「若い根っ子の会」、四十一年に「県青年海外派遣友の会」、四十三年に「日本青友会長野県支部」、四十五年に「県青少年団体連絡協議会」が結成され、四十九年には「青年の船」(信州青年希望の船海洋セミナー事業)が登場した。
長野市連合婦人会(以下、市連婦)は、昭和二十八年(一九五三)に県連婦とともに米軍浅間山演習基地反対運動に立ちあがった。五月二十七日長野市婦人会館に一七団体一六〇人が集まり、浅間山基地反対期成同盟会を結成した。この議長団の一人に高野イシ会長も選ばれた。婦人会は反対署名一二万人を集め、関係各所への反対陳情をおこなった。結局、浅間山の地震火山観測に支障をきたすという理由で、浅間山演習基地化は取りやめとなった。
昭和二十九年の市への一〇ヵ村の合併により、連合婦人会員が急増した。そのため、翌三十年に機関紙『市連婦だより』を創刊し、季刊発行をつづけた。二十九年の漁船第五福竜丸の太平洋ビキニ環礁での被爆事件をきっかけに、原水爆実験反対運動が高まり、三十年十月に原水爆禁止県協議会が結成された。婦人会は他団体とともに長野県での原水爆禁止運動に、大きな役割を果たすことになっていった。この結成総会のあと、長野市妻科婦人会が劇「原爆の乙女」を上演して、総会出席の人々に感動をあたえた(『信州・女の昭和史』)。
市連婦は三十一年には大本願明照殿に会員九〇〇人を集めて新年大会を開き、市連婦の親睦と団結をはかった。昭和二十二年に始めた簡素化結婚式は、会場は五明館・深秀樓・市の城山観光館(三十五年から県婦人会館)とかわったが、三十一年十二月五日には一〇〇〇組に達した。また、二十八年十二月から始めた四人一組のグループ読書は、三十二年には二五〇組一〇〇〇人に達したので、同年五月六日城山第一市民会館で、簡素化結婚式一〇周年記念・読書会三周年記念・合併三周年の三記念式を挙行した(『市連婦だより』)。
また、三十一年には市連婦は第一回婦人問題研究集会を開き、その集会と幹部研修会とを二本の柱として、婦人の直面している諸問題と取りくんだ。翌年の婦人問題研究集会の分科会のテーマをみると、①生活の合理化をはかるには、②保健衛生をすすめるには、③児童福祉をすすめるには、④グループ活動を盛んにするには、⑤これからの共同学習のありかた、となっている。地区婦人会でも研究集会をおこなうところがあった。同年に古里婦人会の場合は、①今年の婦人学級のよかった点悪かった点、②楽しみながら働くにはどうしたらよいか、③婦人会のありかた、の三分科会で話しあい、三十二年に吉田婦人会は、テーマ「家庭を明るくするには」をかかげ、①嫁と姑、②夫婦、③親子、④近隣、の四分科会で話しあっている。古牧婦人会も、三十三年に「組織運営・社会活動・学習活動・政治教育・同和教育」の五分科会で学習をすすめている。また、三十二年三月には、北信地区の婦人会が長野市城山で、売春防止法実施推進婦人大会を開いた。
県母親大会は、昭和三十三年七月後町小学校を会場に、「生命を生み出す母親は、生命を守り育てることを望みます」のスローガンを掲げ、四〇〇〇人の女性が集まって第一回大会を開いた。その後、県内の大きな組織から小さな組織まで二六団体が、目的や性格はちがってもスローガンのもとに集まり、毎年活動をつづけた。しかし、三十七年にソ連の五〇メガトン水爆実験後「いかなる国の実験にも反対」するかどうかをめぐり、県母親大会の幹部が分裂し、県内に二系統の母親大会がもたれるようになって、自由参加となっていった。婦人会は原水爆禁止と被爆者救援という人道主義に基づく全国的運動であり、特定の政治的立場の持ちこみには反対する立場から、原水協を脱退した。ソ連の五〇メガトン水爆実験後は、その実験に強く抗議し、長野市城山で県内各地から集まった婦人会員の八〇〇〇人集会(市連婦五〇〇〇人)を開き、即時実験停止を訴え駅までデモ行進をおこなった。三十八年からは、八月六日に長野市民会館に集まって、原水爆禁止婦人大会を開いた(『県連婦二五年史』)。
市連婦の昭和三十五年から四十五年までの活動をみると、三十年代後半は研修会・地区座談会・政治教育の普及・福祉施設の見学と慰問・諸講習会などがおこなわれた。また、保健衛生面でハエや蚊の撲滅運動・食品の監視や結核予防検診・子宮癌(がん)の集団検診、保育所設置運動に力が入れられ、レクリエーション・夏まつりの民謡流しにも積極的に参加し、献血運動・赤い羽根共同募金・歳末助け合い運動にも大きな貢献をした。また、研究集会では、青少年問題・健康と主婦労働・同和問題などをとりあげた。
昭和三十五年に県連婦が信州大学の協力を得て始めた事業の、信州婦人大学講座に婦人たちは積極的に参加した。市連婦は上水内連婦と合同で、九〇人が婦人会館に月二回集まり、一日四時間の講義・討論・自習で五ヵ月四〇時間の学びをおこなった。三十八年に婦人大学講座三周年を記念して、『戦後信州女性史』を企画し、四十一年に刊行している。また、三十八年には「美しい国土でオリンピック」をモットーに、「その時その場を美しく」の標語を掲げて、婦人会名で駅や車内放送までおこなって国土美化運動を展開した(『県連婦二五年史』)。
市連婦は昭和四十年十月に、市連婦二〇周年を記念して、飯綱高原に「母と子の家」を建設した。四十一年四月から六ヵ月間の利用は、日帰りではおとな三一九三人、子ども一二一九人であった。
四十一年に二市三町三村の大合併がおこなわれ、婦人会も合併して会員二万人となった。同年婦人会館で開いた市連婦まつりは、華道展・手芸展・書道展・絵画展・衣食住展・自然食品の即売、芸能発表がおこなわれた。四十八年からの物価上昇時には、市連婦は「物価高に対抗しよう」と市連婦まつりの一環として、県婦人会館で不用品即売会を開いて市民に喜ばれた。この売上金は、市内の福祉施設に寄付された。
四十年代では、高度経済成長政策のひずみのなかで、自然破壊・健康破壊などが問題となってきた。市連婦は交通安全推進・ごみ処理協力・食品添加物による有害食品の追放・保育所増設・青少年健全育成・不健全なモーテルの改善・物価値下げなどの運動に取りくんだ。しかし、都市の過密化・農村の過疎化の進行や、共働き家庭の増加による役員選出の困難・勤労婦人が婦人会に加入しない・脱退者もふえるなどの問題が出てきた。さらに、大規模住宅団地の婦人の未組織や、婦人会行事のマンネリズム・価値観の多様化によって、趣味のサークル・自主的なサークル活動などへ移る人もあって、婦人会員の減少という会の組織・運営上の問題が出てきた。