労働運動と社会運動

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昭和二十年代末から同四十年代までの労働運動は、一般に戦後労働運動史の第二の時期に位置づけられ、高度経済成長の時期にかさなり、全県的、全国的にも労働組合の統一と拡大がすすめられた時期である。そして、この時期は、昭和三十一年(一九五六)に春闘がはじまり、三十三年勤評反対闘争と警職法粉砕闘争が、また、三十五年の安保闘争などが全国的に盛りあがり、長野県内でも長野市内でも、大小さまざまな労働運動や労働争議が多発した。

 二十六年七月一日、長野県労働組合評議会(以下、県評)の結成大会が長野市の県教組会館でおこなわれた。参加組合は県下一五単産三万二七九人であった。この県評の方針により、地区労働組合評議会(以下、地区評)の結成促進がはかられ二十七年中には、諏訪・下伊那・上小・佐久・長野の五地区評が結成された。

 昭和二十九年五月末県社会部の調査によれば、県下の労働組合は、一三九〇組合、組合員男八万三六八一人、女三万四〇六四人、合計一一万七七四五人である。これを前年四月に比べると、組合数二四〇組合、組合員数三五六二人増加している。

 内訳は、一般・合同五九二組合、組合員数六万二六二四人

     公共企業体一五八組合、同   二万五〇二一人

     国家公務員 八四組合、同     四七三五人

     地方公務員五五六組合、同   二万五三六五人

 二十九年七月の県評定期大会のころには、県評加盟数二六単産、四一五組合、四万三九二四人で、各地に九地区評の組織をもち、結成三年で県下労働組合の中核的組織に発展した。県下主要労組のほとんどが加盟したが、中電労組(二十九年全電労に加盟、また三十一年全労に加盟)と県教組(三十一年県評加盟)が未加入であった。翌三十年七月現長野市域関係郡市の県評加盟地区組織は、長野地区評一万一五〇一人、上高井地区評一五三七人、中高地区労組連絡協議会三九二人、更埴地区労協議会一〇四九人(『信毎年鑑』)である。このうち、長野地区評関係の労働運動(一部社会運動をふくむ)のおもな歩みは、表30に示すようであり、その多様さがうかがわれる。


表30 長野地区評関係労働運動のあゆみ (昭和27~51年)

 なお、県下の官公労は、これまで共同闘争委員会を設置してきたが、拡大強化をはかるため、二十九年六月十九日に各代表が集まり、県官公労組連絡協議会を結成した。これにより県下の官公労組二五単産七万人が大同団結して統一闘争を推進していくことになった。

 長野市では、二十九年四月一日安茂里・朝陽・芋井など近隣一〇ヵ村の編入合併があり、労働組合も大きく成長が期待されていた。この合併以前、長野市役所職員の間に昭和二十年代当初結成されていた「明星会」があり、機関誌「あゆみ」を発刊していたが、二十七年ころ松橋市長を協会長とする「職員福祉協会」を構成して給付活動を主としていた。けれども、この組合は市当局側のつくった職員福祉協会の影に消されていた(『長野市職労二〇年史』)。


写真92 労働組合の提灯デモ行進

 しかし、同年十一月松橋市長にかわって革新陣営をバックにした倉島市長が当選すると、組織結成を目的とするグループが乱立して、その調整が当面の課題となった。同年十二月十六日長野市職員組合結成準備調査会が生まれ、その結成大会は翌三十年二月十九日に第一市民会館(現城山小学校地内)でおこなわれた。そして第一期定期総会は同年四月十六日に県立図書館(長門町現市立図書館)でおこなわれたが、スタート一年間の組合は闘争組織の背景のない弱さがあり、労働運動の中央への関連性を強く認識させられた。翌三十一年四月七日第二回定期大会では自治労加盟、長野地区評加盟が決定され、強固な態勢の基礎が築かれた。

 ところが、三十年代に入るころから輸出の好転、豊作などによる好景気を反映して、県下労働組合の組織率は六〇パーセント台に上昇した。しかし、三十三年ころからは全国的に製造業の雇用減や企業整備などで失業者が出はじめ、賃金の上昇率もにぶって、大企業と小企業の格差の拡大、賃金不払いが増加してきた。

 川中島自動車従業員組合は、昭和二十一年(一九四六)六月一日に一応つくられていたが、事実上は組合らしいものはなく、ほとんど会社の御用組合といわれていた。それが組合結成一〇年目の三十年三月二日ようやく全組合員の大会で、県連加入を全員一致で決定した。これは全国的なバス組合加入への動向をうけて、県連も県内バス組合の組織化を決定して県評の協力を得ながら、長野電鉄労組を中心に、まず、川中島の加入をめざし集中的な組織工作を展開したことによるものであった(『私鉄長野県連三十年史』)。


写真93 川中島バス会社の首切り反対市中デモ (『私鉄長野県連三十年史』)

 長野地区のタクシー運転手らは、労働条件の向上と生活の安定をはかるため、三十四年三月二十八日「ハイタク労働組合連合会」を結成した。連合会に参加したのは、市内の宇都宮自動車、観光タクシー、長野タクシーの三組合一五〇人であったが、前年の秋から結成の準備をすすめていた。県評もこの長野地区を基盤として、全県的な組織にまで高める計画をすすめていた。県下タクシー会社の勤務は早朝から深夜までのはげしい労働であったが、地区労働委員会の調査では、平均年齢三〇歳の賃金が七八九二円で、二三業種のうち下から二番目の低さであった。

 組合員わずか七人の長野市小林商店では、三十四年三月一〇〇〇円の賃上げを要求したが入れられず、さらに、地労委の六〇〇円賃上げのあっせん案も会社側が拒否したため、同月二十六日から無期限ストに入った。ストから一〇日後までの間に、会社側は「停戦協定」を出したりしたため、かえって組合側が態度を硬化させた。この時期、このような個人経営の零細企業の労組も闘う力をもつようになっていた。

 このように労働攻勢の高まるなか、経営者側も対組合攻勢を強めてきた。長野市法令印刷(株)の組合が三十四年春闘で一五〇〇円の賃上げを要求したが、会社の回答は五〇〇円であった。これを不満として三回にわたりストライキをおこなったが、会社側はいっそう態度を硬化させ、「スケジュール闘争はもうごめんだ」と「休戦協定」を組合に提示し、「これを呑まなければ賃上げに応じない」として、「向こう三年間の争議行為いっさいを禁止」した。組合はこれにたいし、「争議権は完全に守っている」としながらも対立がつづいた。

 この労使休戦方式は、これ以後、あちこちの経営者間でも具体的に検討されはじめ、今まで組合の闘争ベースにまきこまれがちな受け身の姿勢から脱却しようとする動きがでてきた。それまで表面にでなかった経営者協会が本格的に県評対策に乗りだしてきたことが特徴的であった(『信毎』)。

 長野電鉄交通従業員組合は、敗戦直後の昭和二十年(一九四五)十二月十一日に世話人会をつくり、十五日に県下のトップをきって結成準備会をおこない、つづいて同月二十日には結成大会を開催し、二十七年までには私鉄県連や県評に加入していた。昭和三十年代後半長野電鉄労組は鉄道とバス兼業で千数百人の組織人員をもち、県下の私鉄では川中島自動車労組とならぶ最大の組織であり、私鉄県連のなかでも中核をなす存在であった。

 その長電労組が四十一年一月二十日の臨時大会で、突然「組合解散決議」をおこなった。そして同二十九日には同じ名称の「新組合」が結成され、さらに、二月五日には解散反対派による旧組合の存続確認大会がもたれて、長電労組の分裂が明確になった。ここにいたる経過には組織をめぐる対立が鋭くあらわれ、二年来役員選出のたびに争われていた。この背景には組織内の「健全なる労組運動をすすめる会」が、組織から共産党系の締めだしをもとめる署名運動をすすめ、もはや仲間としての論議が通じない雰囲気を生みだしていた。組合解散のあとは「進める会」が主体となって組合再発足の行動を決めた。解散反対の旧組合員(一一六人)は、長野地裁へ「解散無効、組合財産の引渡し」をもとめる訴えをだしたり、また、地方労働委員会(地労委)には、「不当労働行為の救済申したて」などをおこなったが、同時にだした「組合の資格審査請求申したて」にたいし、地労委公益委員会議は六月十一日第三者として、はじめて組合の存続をみとめた。これにより以後約一〇年間、長電労組は新組合(一六五〇人)と旧組合(約一三〇人)の両組合が並存することとなった。

 この両組合統一の動きは、その後も内部でも、外部からもみられたがまとまらず、五十年七月ようやく統一準備委員会を発足させた。ときあたかも翌五十一年の春闘で県春闘共闘が、敗北春闘といわれた前年の反省から、初めて地域統一・定年延長・労働時間短縮などの要求を掲げた。長電両労組も共闘のなかで、しだいにこれまでの感情や情況を克服し、春闘での完全共闘に一体感を強め、統一への歩をすすめることになった。これにより同年九月二十五日には統一組合発足大会が下高井郡山ノ内町でおこなわれ、分裂以来一〇年ぶりの統一復帰となった。県連第三四回定期大会が同月二十九日上林温泉で開かれ、長電労組統一の発足を祝い、活気に満ちたものとなった。


写真94 長野電鉄労働組合の統一宣言大会 (同前書)