昭和四十年(一九六五)八月三日、埴科郡松代町に不気味な地鳴りをともない、日に何度となくおそう群発地震が発生した。地震発生後二ヵ月ほど経ったころは、気象庁地震観測所では「地震はせいぜい中程度」という見方をし、気象庁地震課でも「最大規模でも震度5程度、普通の家なら心配ない。火の始末だけは冷静に」という警告発表をしていた。地震学者の中にも「地震は年内には終息するだろう」という人もいたが、三日に最初の無感地震を記録して以来、四十四年八月二日に至る四年間に、実に地震総回数は七〇万一六七〇回、うち、有感地震回数六万二四六一回(気象庁地震観測所記録)におよぶものであった。この間の長野・松代における震度別有感地震の発生数は、表31のようである。これに、地震計でのみとらえられた無感地震を加えると、昭和四十五年末までに観測された地震の総計は六四万八〇〇〇回余りに達したと報告されている。
松代町では四十年十月十一日に松代町地震対策本部を設置して、防災対策をしいた。その後、現長野市域では同年十一月二十五日までに、長野市・篠ノ井市・更北村・若穂町・川中島町・信更村・七二会村の各市町村に、地震対策本部が設置された。翌四十一年十月十六日に、以上の市町村は合併して長野市となり、以後、長野市地震対策本部をおいて活動をつづけた。
長野市合併以前、有感地震回数がふえるとともに、松代町内の学校をはじめ、近隣の学校では、老朽校舎のため、危険となってきて使用禁止の校舎が多くなった。授業中に地震がくると、子どもたちは座布団を頭に机の下にもぐりこむことがしばしばとなり、なかなか学習に集中できなくなった。東条小学校は全教室が使用禁止となり、国民宿舎松代荘を借りて二部授業をせざるをえなくなった。松代町内では、松代小・寺尾小・東条小・西条小・豊栄小・清野小の六小学校に、三七教室分のプレハブ校舎の建設を決めた。このほかに松代高校、長野市では一中学校・三小学校、篠ノ井市では三小学校、川中島町では二小学校、更北村では三小学校のプレハブ校舎建設の申請がおこなわれ、翌四十二年一月二十日までには、申請すべてのプレハブ校舎が建設された。このころから、防災・避難の点から中学校女生徒のスカートは禁止し、スラックスをはくようにした。
政府は四十年十一月三十日に「松代地震対策連絡会議」を開き、瀬戸山建設相を団長とする現地調査団を十二月一日に派遣した。調査団を迎えた町民は「災害の起きる前に手をうってくれ」「安心して生活や学習ができるように」「仕事の保障や地震保険を」「公営住宅の建設を」などという要望をだした。調査団から「いま、何が一番ほしいか」と尋ねられた中村兼治郎町長は「学問がほしい」と答えた。金や物も必要だが、それよりもこの地震はいったいどうなるのか教えてほしい、という町長の切々たる訴えであった(『信毎』)。
松代群発地震が最高潮に達したのは、昭和四十一年四月であった。松代町北隣の若穂町を震源とする四月五日震度5の強震(M五・四)は、それまでの最大規模の地震となり、被害は遠く北方におよんだ。十一日には松代町に強震がおそい、ピークとなった十七日には震度5三回、震度4四回をふくむ一日の総回数は、実に六七八〇回(有感回数六六一回)が記録された。この日人びとは、五時間間隔でおそった強震におののき、おちおち眠れない時をすごした。人びとは、二分に一回の割合で地震を感じ、地震計は一分間に四回のペースでジグザグ模様を描きだしていた(『松代群発地震記録』長野県)。
同年四月二十一日に、瀬戸山建設相を団長とする関係省庁の幹部十数人による、松代地震政府調査団が来県して調査し、五月十九日に佐藤首相をはじめ建設・自治・文部の三大臣をふくむ一行四〇人が、松代町を訪れた。松代小学校で西沢県知事・中村町長から地震による生活の窮状説明と陳情を受け、小中学生代表の訴えを聞いて、「中央でもあらゆる工夫をして対策をたて、心配のないようにする。地震に負けないようがんばってほしい。」と激励した。七月二十六日には軽井沢から皇太子が松代町を訪れ、地震観測所で竹花峯夫所長から松代群発地震の現状について説明を聞いたあと、東条小学校のプレハブ校舎を視察し、子どもたちを励まされた。なお、四十一年五月に気象庁は、松代町を中心とする地震を、正式に「松代群発地震」と命名している。また、五月二十日には科学技術庁防災科学技術センターが、震源地とみられる皆神山麓でボウリングを開始した。この中に観測計器をいれて、地震観測をすすめる計画であった(『信毎』)。
松代群発地震の被害と範囲の状況をみると、物的被害総額は一六億円余りに達している。この額は中規模の台風の被害規模と同程度のものであったが、統計には表れない間接的な被害の大きさは、はかりしれないものがあった。それは施設設備の損壊による生産活動の停滞、断水、停電およびそのための生産減、観光客の減少など、経済活動全般にたいする影響などであった。それでも死者はなく、負傷者一五人にとどまった。
地域的な大きな被害は、豊栄牧内地区の地すべりであった。同年九月十三日まで二〇日間に皆神山の東部が二〇センチメートルも隆起し、牧内-平林間に地割れができ、あちこちから地下水が湧きでるようになっていた。同月十七日午後二時ごろ東側斜面が幅一〇五メートル・長さ一〇〇メートルにわたって急激に滑落し始め、家屋など一一棟を倒壊・埋没させてしまった。住民は避難して無事であったが、家財道具等を持ちだせない人が多かった。松代町は地すべり緊急対策本部を設置し、松本の自衛隊に出動要請をし、地割れ監視強化をおこない、プレハブ住宅の建設にとりかかって、十九日には桑根井に七戸建てた。到着した自衛隊員は、地すべりの拡大を防ぐため、ただちに排水路づくりをおこなった。
住居等の被害では、その多くが屋根瓦・ぐしの崩落、壁の損壊、窓ガラス等の被害である。学校等文教関係施設では、小学校三八校・中学校八校・高等学校八校の計五四校に、柱の傾き・壁の剥落・屋根瓦の破損等の被害がでた。震源地に近い豊栄小学校では二階建て校舎の二階の梁(はり)がはずれ、松代高等学校では図書室が倒壊した。公有財産施設では、長野市川合新田にある公共下水道終末処理場の煙突およびボイラーの使用不能という被害があった。
農業関係の被害総額約七億三〇〇〇万円のうち、そのほとんどが農地・農業用施設であった。個人所有の施設では、蚕室・蓄舎・農舎・エノキダケ施設および栽培用びん等の被害であった。共同利用施設では、稚蚕(ちさん)共同飼育所・選果場・農業倉庫等の施設の被害で、その多くは松代町農協の共同利用施設であった。さらに、農業用施設被害のなか大きな比重をしめるものに、灌漑用施設である溜池と水路の被害があった。なお、松代地震特有の被害としては、四十一年十月からの皆神山周辺を中心に発生した「悪水」(塩素分の強い水)とよばれる異常湧水であった。百数十ヵ所からの湧き水は、藤沢川をいっぱいにした。豊栄から東条の藤沢川周辺の牧内・瀬関・竹原・加賀井・般若寺・中川地籍の桑が枯れ、桃・りんごの樹勢が弱り、水田の稲作にも支障をきたし、被害は四〇ヘクタールにおよんだ。
長野県は四十一年四月一日、県庁内に長野県松代地震対策本部を設置した。地震対策地域は現長野市域を中心に、北信・東信・中信におよぶ三九市町村であった。県は、松代町を中心として、倒壊のおそれのある危険住宅が発生したため、避難用応急仮設住宅六二〇戸を、松代町ほか一八市町村に設置した。これは資力に関係なく、危険住宅に住むすべての人の生命の保全の措置であった。また、被災低所得世帯にたいする世帯更生資金貸し付けや、生活保護法による住宅扶助の支給もおこない、一一七世帯がその適用を受けた。その他の住宅に関しては、住宅資金の融資斡旋限度額一〇万円を一五万円に引きあげ、利子補給(年一パーセント五年分)をした。さらに、農繁期には、幼児の安全と農作業への支障を防ぐため、四十一年八月県社会福祉協議会は、臨時保育所設置を計画し、松代町の金井山・東条・清野・岩野の四ヵ所に、収容人員三五人から九〇人規模のプレハブ式の臨時保育所を設置した。
国は四十一年八月、河川施設の改良補強費として松代町の三河川に二〇〇〇万円、河川施設の修繕補強費として一七河川九〇〇〇万円を認めた。これにより、①松代町蛭川低水路護岸の新設二五〇メートルの改修、②若穂町保科川で老朽化した護岸施設の改修、③神田川ほか一六河川の護岸施設の補強工事、などがおこなわれた。また、千曲川・犀川などの大河に架かる橋が、強震のために落橋したり通れなくなった場合の応急措置としての仮橋づくりのため、七二〇立方メートル(九〇〇万円余)の木材の備蓄がはかられた。
科学技術庁防災科学技術センターが、四十四年三月に国民宿舎「松代荘」わきで地下深層ボーリングをしたところ、一ヵ月経って四〇〇メートルに達したところで四四度の湯が毎分一〇〇〇リットルも噴出してきた。その周辺は、古くから加賀井の湯といわれるところで、三七、八度の湯がでていたところである。加熱しなくてもよい温泉の噴出に地元住民は喜び、長野市も観光開発の練りなおしを始めた(『信毎』)。
松代群発地震は、昭和四十二年七月八日に有感地震ゼロを観測した。その後八月にもゼロをふくむ一けた台におさまり、以後、多少の変動を繰りかえしたが、四十四年四月の長野市での震度4を最後に、終息状態にはいった。そこで長野県は、四十五年六月五日「松代群発地震終息宣言」を発表し、同月十六日に関係市町村が加盟する松代群発地震対策協議会を解散した。