昭和三十年代から四十年代にかけて、長野市域がこうむったおもな台風・集中豪雨や干害・降ひょう・地すべりなどによる被害の状況は大要つぎのようであった。
昭和三十年(一九五五)七月十一・十二日の二回にわたって、篠ノ井・信田・更府・塩崎・八幡・桑原の山間地帯に降ひょうがあった。約二七〇ヘクタールのりんごは、ひょうにたたかれた傷が原因で、腐ったり落果したりして、りんご農家に大きな被害をもたらした。降ひょうは、四十年九月四日にも上水内郡西山部八町村にあり、二~五センチメートルという大粒のひょうが一〇分間にわたって降り、収穫前の稲・野菜に大打撃をあたえた。このときのたまご大のひょうによって、七二会小学校・中学校の窓ガラスは全部割れた。畑にいて逃げ場がなくて、けがをした人もあった。
三十二年七月二十二日に北信をおそった集中豪雨によって、裾花川をはじめ市内の中小河川は増水氾濫して、旧市内・安茂里・朝陽・長沼地区をはじめ、市内全域にわたって被害をもたらした。道路決壊三四ヵ所、水路決壊一三ヵ所、家屋浸水七八二戸(床上二六・床下七五六)、田畑の冠水埋没三六〇ヘクタールにおよんだ。
同年九月十一日の台風一〇号による犀川増水によって、右岸の綱島地籍が浸水被害を受け、犀川・千曲川の河床上昇が問題となった。これは千曲川立ケ鼻地籍で川幅がせまくなり、大水の場合延徳水田に水があふれて調整池の役目を果たしていたが、千曲川改修によって堤防を強化したため、土砂がしだいに上流に堆積して河床を上げ、丹波島橋地籍でも一〇年ほどで二メートル余上昇して、洪水の危険がふえてきたためであった。
昭和三十三年九月十八日の二一号台風は、千曲川上流の佐久・上小地方で一八〇ミリメートルの雨が降り、一気に河川に流れこんで下流に押しよせた。低湿地の長沼・古里・柳原・朝陽・大豆島・小島田などの田畑三二四ヘクタールが冠水埋没して、水稲が流失・倒伏し野菜が全滅した。とくにりんごの被害が大きく、落果は三万八〇〇〇貫(一四二・五トン)におよんだ。土砂崩れや線路の冠水で、篠ノ井線・中央線・飯山線は一時不通となり、更埴橋・屋島橋は流失した。下駒沢では浅川の護岸が七〇メートルにわたって決壊し、周辺の田畑が冠水した。
同月二十七日の二二号台風は、松代町に大きな被害をもたらした。千曲川の逆流を防ぐために神田川・蛭川・藤沢川の合流点の水門を閉じたので、河床の浅い各川の堤防が決壊したり水があふれた。氾濫によって、豊栄・東条・寺尾・西寺尾地籍の家屋は、半壊二戸・一部損壊六八戸・床上浸水一一二戸・床下浸水二四六戸の被害を受け、低湿地の東条の加賀井・長礼の約二〇戸は泥海の中に孤立した。水田は稲穂がかくれるほど水没し、農作物の流失埋没・土砂流入・冠水の被害が七六四ヘクタールにもおよんだ。また、中小二二の橋梁が流失し、道路の決壊は六四ヵ所もあった。東条小学校は藤沢川の氾濫で床上まで水につかり、校地に大量の土砂が流人した。県道松代須坂線・長野電鉄河車線は二十八日まで不通となった。
三十四年八月十四日の台風の強い風雨によって、長水地方事務所管内の農作物被害五億二〇〇〇万円のうち、りんごの被害は三億三〇〇〇万円におよんだ。長野市内の場合も、農作物被害二億五〇〇〇万円のうちりんごの被害は一億三〇〇〇万円に達した。
同年九月二十六日を中心とした台風一五号は、伊勢湾台風とも呼ばれた。この台風は名古屋市の西から富山湾を経て北上し、三陸沖に抜けた超大型の台風であった。伊勢湾沿岸の高潮による、人的・物的被害は甚大であった。長野県下の被害は、死者・行方不明者二七人、重軽傷者一五八人、住宅の全半壊九六七二戸、浸水・流出家屋二二七四戸におよび、農業・林業・土木関係・公共建物等をふくめた被害総額は、九二億七八七六万余円に達した。現長野市域で最大の被害を受けたのは、上高井郡若穂町であった。二十七日の午前一時ころ、強風によって若穂町立綿内小学校の木造体育館が大音響とともに崩壊した。また、若穂町をふくむ上高井須坂地域のりんごの落下は、六七〇〇トンにおよんだ。長野市柳原では民家一戸、吉田で工場一棟が全壊、民家五戸が半壊した。
昭和三十六年六月二十三・二十四日の集中豪雨では千曲川と中小河川が氾濫し、とくに松代特産の長芋畑に冠水する被害をもたらした。この年の七・八月には更埴地方の雨が少なく、麦の実入りが悪く、あんずが落果したり小粒になり、桑の伸びが悪くて養蚕に影響し、りんご・野菜・草花にも干害がでた。
この年の六月三十日から七月一日にかけて伊那谷・諏訪地方をおそって大災害をもたらした集中豪雨は、北信地方にも大雨を降らせ、各地にかなりの被害をあたえた。長野市古里区三才地籍では田子川が長さ約二〇メートルにわたって決壊し、近くの農家四戸が浸水して田畑七ヘクタールが冠水し、消防団員約四〇〇人が出動して水防作業をおこなった。松代町をふくむ埴科地方の田畑の被害は予想外に大きく、とくに、松代町特産の長芋は四三〇ヘクタールが冠水して約四五〇トン減収となり、野菜も四〇ヘクタールが冠水して約五二〇トンの減収となった。若穂町をふくむ須坂上高井地方の被害は、農産物が五二七ヘクタール四三〇五万円、堤防決壊二ヵ所七〇万円、橋の流出三ヵ所と道路の損壊四〇ヵ所で合計六五〇万円の損失となった。
昭和三十七年(一九六二)七月十三日の松代地方をおそった一七七ミリメートルという集中豪雨では、神田川・蛭川・藤沢川の護岸が決壊し、濁流が一挙に町中に押しよせた。とくに、神田川は護岸一七ヵ所で決壊し、西条から松代町内にかけて被害が大きく、家屋半壊七戸・床上浸水一八四戸・床下浸水一〇〇二戸におよび悲惨をきわめた。西条小学校・松代小学校は床上まで浸水して土砂が流れこみ、松代中学校も床下に浸水した。浸水の中心は馬喰町・紙屋町・紺屋町・代官町・殿町などで、西条入組では軒下まで土砂の入った家もあった。西沢県知事が現地の視察と激励にかけつけ、自衛隊が三〇人入って土砂の取りかたづけに活躍した。田畑の流失埋没も三〇七ヘクタールにもおよび、水稲・果樹・野菜・桑園に大きな被害がでた。この後、川の改修工事が課題となり、蛭川の改修が急ピッチですすめられることになった。
この年の七月中旬から九月中旬にかけて、長野市域の降水量は例年の六〇パーセントしかなく、しかも、八月十日から九月十日までは例年の三分の一しか雨が降らず、干害が全市域におよんだ。とくにひどかったのは、東北方面の浅川・長沼・古里・柳原・朝陽地域で、りんごの落果やしなび・小粒、大豆・小豆・桑の枯れなど農作物に一億八〇〇〇万円の被害がでた。
三十八年七月二日からの長野市域の集中豪雨は、長野地方気象台開設以来三番目の豪雨で、市内中小河川が氾濫した。田町・横山町・諏訪町では床上浸水が五四戸もあり、床下浸水は西鶴賀・相ノ木・上千歳町・西後町・県町をふくめて一五四六戸におよんだ。田畑は、二八四ヘクタールの流失冠水の被害を受けた。
長野市域の水害は、昭和四十二年八月二十六日の雷雨による、堀切川沿い三九戸・鐘鋳川沿い三五戸の床下浸水被害があり、四十四年七月二十日の集中豪雨による中小河川の氾濫、同二十七日の芋井・浅川地区の豪雨があった。このとき、芋井の道路は土砂崩れで寸断され、三三地区のうち二〇地区は徒歩連絡になった。
市街地では、昭和四十五年(一九七〇)八月二十三・二十四日両日にわたる雷雨豪雨による被害がある。この八月二十三日はひょうをともなったはげしい雷雨で、一時間たらずの間に五四ミリメートルという集中豪雨となり、市内の排水溝が雨水をのみこめず、道路にあふれた濁流は波をたてて一〇から四〇センチメートルの深さで道路脇の商店街に流れこんだ。安茂里・権堂・相ノ木中心に床上浸水四五戸・床下浸水五五六戸で、商品が水につかったり物が流れこんで商店に被害をあたえ、地下式立体交差ガード三ヵ所は通行不能となった。翌日の雷雨では床上浸水一戸・床下浸水五五六戸の被害があった。これによって、高台の宅地造成や下水・排水施設の不備が問題となった。
四十六年九月六・七日の秋雨前線による大雨でも、排水溝から雨水があふれ、全市域で床下浸水九九戸の被害があった。さらに、四十八年七月一日の雷雨では二時間で四九ミリメートルであったのに、吉田・三輪地区で床上浸水一〇戸、吉田・三輪・権堂・古牧などで三六〇戸が床下浸水し、トイレの汚水があふれるなどの被害があいついだ。長野市では、道路舗装や住宅開発がすすんだのに、下水や排水路は整備が遅れていたので、ここ数年は集中豪雨や夏の雷雨によって、小河川や用水路・排水溝が氾濫する都市災害が恒常的になり、市民の不満も高まって市街地整備が急務となった。
豪雨以外にこの時期の長野市域の自然災害では、長野市城山・篠ノ井共和の茶臼山と小松原犀口・七二会谷原と倉並・小田切小鍋・信更町浅野・安茂里西河原などでの地すべり災害がある。
城山では昭和二十八年七月二十五日の大雨で、宇都宮自動車商会の裏庭の石垣が崩れ、幅四〇メートルにわたってすべり始めて、建物を半壊した。さらに、九月二十四日には中腹の民家が危険となったため、取りこわして立ちのいた。その後、城山の新町側斜面は、県の急傾斜地崩壊危険区域に指定されている。
茶臼山の地すべりは、江戸時代天保年間から始まったといわれ、その規模の大きいことと活動が持続的なことから、動く山として名が通っている。明治三十三年以来地すべり防止工事をおこなってきているが、効果はあまりなかった。昭和二十三年六月からの地すべりは、一雨ごとに六〇平方メートル崩れおち、りんご畑その他二〇ヘクタールほどをつぶしてしまった。幅二〇〇メートル・長さ二キロメートルにわたってすべりつづけ、かつて標高七三〇メートルあった南峰は六一〇メートルと約一二〇メートルほども低くなっている。
篠ノ井町では昭和三十二年に、建設省砂防課に茶臼山の恒久的地すべり防止工事を陳情した。そして、地元岡田地区三〇〇戸から一戸一人ずつ現地視察をして現状を理解してもらい、陳情を波状的におこなうようにした。建設省土木研究所は長野県土木部・信大理学部・京大防災研究所とともに「茶臼山地すべり対策技術会議」を開いた。昭和三十五年七・八月の電探検査の結果、地下一八メートルに地下水の層を発見して、抜本策をとる見通しがでてきた。四十二年に地下水排水溝六、深さ三〇メートルのたて井戸四本、地震計・ひずみ計・土圧計を設置した。この工事の効果か、三十七年に四メートルすべっていたのが、四十三年には二四センチメートルと動きがにぶった。さらに、四十四年には鋼管一二本を打ちこむ工事をおこなった。
七二会谷原(やはら)の地すべりは、昭和二十八年六月十八日から一日に二メートルほど、幅五〇〇メートル・長さ一キロメートルにわたってすべり始め、水田九ヘクタールが全滅し、民家二戸が危険にさらされた。倉並地区でも地すべりが発生した。のちに、両地区の地すべり区域には、鋼管の打ちこみ・横穴ボーリングの地すべり防止工事がおこなわれた。四十四年九月十一・十二日には、七二会倉並地区をサンプルとして選んで、全国地すべり対策協議会が「地すべり対策現場討論会」を開いている。
篠ノ井小松原犀口の山が昭和三十三年十月十九日から地すべりを始め、二十五日からは一挙に山すそに押しよせ、ベントナイト工場三棟と民家一戸を押しつぶし、九世帯が避難する被害となった。集落八〇戸のうち四〇戸が危険にさらされ、上中堰が長さ一〇メートルにわたって埋没した。林虎雄県知事が現地視察をして「人命が大切なので、厳重警戒をするように、直ちに国と連絡をとって復旧計画をたてる」と語った。上中堰は川中島平を潤す重要な農業用水のため、直ちに復旧がはかられた。信更町浅野でも四十二年一月二十九日に地すべりが発生した。ここには石積み堰提一四ヵ所・地下排水のボーリング七〇ヵ所の対策をとった。
小田切小鍋田中で四十四年七月八日から幅二〇〇メートル・長さ一キロメートルにわたってすべり始め、二戸が危険となって避難指示がだされた。市道も不通となり、平石一二戸・千木二五戸・栃木八戸が孤立状態となった。同年十二月に小田切小鍋の田中・日方・沢ノ入の三地区二〇戸は移住を決意し、西沢県知事に訴えた。市は山の土地四五ヘクタールを買いあげ、集団移住を確保する計画をたてた。同年七月九日には安茂里西河原で地すべりがおき、七戸が緊急避難をした。これについては、県が擁護壁を建設して防止策をとることになった。