幼児教育と幼稚園教育

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昭和二十五年(一九五〇)私立学校法が施行され、私立幼稚園はこの法の適用を受けることになった。この年の県内の幼稚園数は一七園(公立一、私立一六)である。その後、幼稚園は増加しているが、保育園にくらべるとその数はきわめて少ない。昭和四十七年(一九七二)の場合、県内公認保育所五四六ヵ所にたいし幼稚園は一〇二園(公立九、私立九三)で一八・七パーセントにすぎない。長野市内では、昭和四十九年に公認保育所五九ヵ所(公立三六、私立二三)にたいし幼稚園は三〇園(公立一、私立二九)で五〇・八パーセントをしめており、幼稚園は市部に集中していて町村部はほとんどが保育所であった。

 これは、昭和二十二年に林虎雄(社会党県書記長)が県知事に当選すると、保育所設置に力を入れたので、市町村に続々と保育所が設けられていった。市町村政担当者も父母も幼稚園・保育所の区別はかならずしも明白ではなく、就学前教育というより、季節保育所の発展か集団生活に慣れたり適応できればという程度の考えが多く、幼児教育は保育所でというのが一般化した。保育所はもともと児童福祉法に基づいて、保育に欠ける幼児を収容する施設であって、幼稚園とは法的な根拠も目的も異にしている。けれども幼稚園のように三歳から五歳の幼児を受けいれて保育をおこなっていたことから、違うといっても実際には同じ年齢の幼児がいるので混同されていたのである。

 そこで、就学前の幼児教育の「幼保一元化」が問題となってきた。しかし、幼稚園の主務官庁は文部省、保育園のそれは厚生省であり、長野県でも公立幼稚園は県教育委員会、私立幼稚園は総務部、保育所は社会部が主管していて円滑にはすすまなかった。昭和二十五年に信濃教育会は幼児保育研究委員会を設けて、小学校入学以前の幼児教育と小学校低学年児童との連絡を中心に、講演会や講習会を開き、保育カリキュラムを研究し、幼児の養護・幼児の躾(しつけ)などの問題を協議した。この委員会が母体となってのちに幼稚園教育課程の編さんがおこなわれた。県教育委員会は小中学校の実験学校のほかに、幼稚園の実験園も指定して就学前教育の研究を始めた。松本市立松本幼稚園は昭和二十四年から三年間の研究指定を受け、二十七年に保育日課表・保育カリキュラムについての実験報告をおこない、自由遊び・問題児の取りあつかい・小学校とのつながりの三分科会で研究協議をおこなった。県内幼稚園から多数の参加者があり、今後もこうした研究会の開催をつづけてほしいという声があがった。昭和三十年(一九五五)には県幼児教育研究会が開かれるようになった。

 幼稚園については、以前から一般的に市部の経済的に豊かな家庭の子どもが入る所というような印象があり、自治体も保育所には助成しても幼稚園にはその必要がないという考えが強かった。さらに、幼稚園は仏教寺院やキリスト教教会などの宗教法人の設置・経営も多かったので、助成をすることをちゅうちょする傾向もあった。幼稚園に助成がないため、市街地に集中した幼稚園は経営上のため入園児獲得争いまで生まれた。そこで、長野県私立幼稚園連盟(昭和二十一年結成、以下県私幼連)では、県・県議会や市町村へ就学前教育としての幼稚園教育についての理解と援助を訴え、助成金申請や適正配置などの陳情をつづけた。


写真106 松代幼稚園 (日本基督教団松代教会)

 第六回東海地区幼稚園教育研究大会が、長野市で昭和三十二年に開かれることになって、その準備のため市内や北信の幼稚園の責任者が集まるなかで、地区連盟の結成が話題となり、三十三年十一月に長野市幼稚園連盟(以下、市幼連)が結成された。この市幼連が母体となって、三十七年には北信ブロック幼稚園連合会が組織された。以後、年間数回の園長主任会がもたれ、保育料・職員給与・退職金基準・園児募集・適正配置・研修会・実習生受けいれなどについて協議した。また、社会・音楽リズム・絵画制作・砂場遊び・週案などの分科会を設けて、各園まわりもちで教諭全員が各分科会に属して研修をおこなった。

 昭和三十二年に幼稚園教育要領と幼稚園設置基準が施行され、基準に達しない園舎と教諭資格が問題となった。各園とも保育室・遊戯室など直接教育に関する施設は整っていても、管理のための施設は不十分であった。また、教員も夏期に免許法認定講習をおこなっていたが、臨時免許状所持者が多かった。当時、県内には幼稚園教員養成機関は一つもなく、ただ、信州大学教育学部が、小学校教諭免許状取得者の希望者に幼稚園教諭二級免許状取得の便宜をあたえていた。しかし、教育学部卒業生で私立幼稚園に就職するのはきわめてまれであり、たまたま就職しても小学校に就職口があれば鞍がえしていった。これは、給与の差の大きいのも一因であった。県私幼連は、幼稚園教諭の養成機関の早急な設置を県に要望した。


写真105 長野西高幼稚園の園舎

 長野県は三十七年(一九六二)に、県短期大学に入学定員三五人の児童科を設置した。つづいて、四十一年に清泉女学院幼稚園教員養成所(四十三年保母も併せ養成する保育女子専門学校となる)、四十二年に飯田女子短期大学に保育科、本州女子短期大学に幼児教育科、四十四年に長野保育専門学校(長野文化学院)というように私立の養成機関が設けられて、幼稚園教諭の需要を満たすことができるようになった。各幼稚園も園舎の増築・改築をおこなって、基準を満たすようにつとめた。連盟は三十三年に研究委員会を設置して、県幼稚園教育研究協議会を開催した。三十六年に振興委員会を設置し、各幼稚園PTAの代表を集めて、県私立幼稚園PTA連合会を組織した。

 文部省は昭和三十八年四月、幼稚園教育振興七ヵ年計画を発表した。さらに、同年十月厚生省と協議して、保育所のもつ機能のうち、四歳・五歳児の教育に関するものは、幼稚園教育要領によることが望ましいという協同通達を出した。県私幼連の一〇年以上にわたる運動が実を結んで、三十九年に私幼連の研修事業に県費助成が実現した。そこで、県私幼連は発展的に解消して、社団法人長野県私立幼稚園連合会を組織した。

 三十九年の県内の幼稚園は四九園(学校法人一五、宗教法人一九、社団法人一、個人一四)となった。六年後の四十五年には八四園と三五園も増加した。長野市内の幼稚園は二〇園(公立一・私立一九)であった。長野市は四十五年に私立幼稚園にたいし、園児一人につき年額八〇〇円を算出の基礎として補助するようになった。文部省は四十七年度から、幼稚園教育整備一〇ヵ年計画を発足させた。長野市内の昭和五十年度の幼稚園は表32のようであった。


表32 長野市内の幼稚園