給食・教育センターと高原学校の拡充

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昭和三十九年(一九六四)十一月長野市会の社会文教委員会と市教育委員会は、学校給食センターの建設について会合をもち、市内を五ブロックに分けて給食センターを建設する方針をかためた。

 これは、県内の各地で栄養や経済面からの必要性から、給食センターの建設が始められたり、また、市PTA連合会からも強く要望が出されていたことによるものであった。当時、市内の小学校は全部が自校給食をしていたが、中学校では小学校と併設の浅川・長沼の二校を除いて共同給食は実施していなかった。

 こうして四十一年二月十七日、長野市最初の学校給食センターが古牧高田(中村)地籍に完成し、竣工式がおこなわれた。この給食センターは第一学校給食センターと呼ばれ、いままで一般事業所の給食を実施していたものを市が買いとり、総工費約七〇〇〇万円をかけ、総面積約一一九〇平方メートル、副食をつくる回転式二重がま一三基などが備えられ、調理室と洗浄室の完全分離、食器の蒸気消毒、調理室と外部のエアーカーテンなど衛生面にも力をいれた大がかりなもので、フル運転時には一万三五〇〇食分ができるという、当時県下最大、全国でもトップクラスの大給食センターといわれた。当時の市内学校給食児童生徒数は小中合わせて二万五〇〇〇人で、このセンターで約六〇パーセント近くが処理されることになった。

 これにより、給食費は小学校低学年月五二〇円、高学年月五八〇円、中学校月六九〇円となり、小学校低学年は古牧を除く各校がいずれも安くなり、高学年では鍋屋田、古牧が月額二〇~三〇円高くなったほかはすべて安くなった。

 しかし、この給食センターは、都市化の進行による交通事情等により昭和六十二年四月一日より、青木島町綱島地籍(現長野大橋東犀川堤防沿い)へ移転し、名称はそのまま第一学校給食センターとして業務をおこなうことになった。

 四十一年十月の長野市大合併により、学校給食施設の増築が必要になった。とくに、犀南地区のPTAや学校からの要望があり、市は建設費一億二一三一万円をかけて、篠ノ井東福寺地籍に昭和四十五年四月二日第二学校給食センターを開設した。ここには、自動化された連続あげもの機、球根かわむき機、蒸気回転がま、食器洗い機などが備えつけられ、篠ノ井(信里を除く)、松代(豊栄を除く)、若穂、川中島、更北などの小中学校を対象に一万三五〇〇食分がつくられた。特色としては、給食がさめないように密封した保温完備の二重食かんに入れ、さらに保温できるコンテナで各学校へ運ぶ方式になっていた。この給食センターの完成で、第一給食センターと合わせて二万七〇〇〇食分になり、市内の学校給食は一段と充実した。

 ところが、平成十年代に入り、この給食センターは老朽化により改築が必要となり、同センター東側の畑地(九二四〇平方メートル)を買収して鉄骨二階建て、延べ床面積二九九五平方メートルを新築(第二給食センター)し、平成十五年(二〇〇三)四月完成した。ここでは市南部の小学校一四校と中学校七校の計約八三〇〇食を提供している。旧施設は取りこわし、跡地は駐車場などに使用されている。

 昭和五十年代にはいり、市は自校給食校を減らし、できれば全面的に給食センターへの転換をすすめる方針をたてたが、これには自校給食校側からの強い反対があり、かなり論議をよんだ。しかし、第三学校給食センターが五十四年(一九七九)一月八日大豆島風間地籍に開設され、三学期から業務を開始した。

 これにともなって市内給食センターの配属区分は、つぎのようになった。

・第一給食センター(高田)が、従来の一五校約一万五〇〇〇食分(創設当時より一五〇〇食分オーバー)から、一七校(分校二をふくむ)約一万二六〇〇食分へ、

・第二給食センター(東福寺)が、二五校約一万六〇〇〇食分から、二三校約一万四五〇〇食分へ、

・第三給食センター(風間)は、第一・第二センターからまわった一〇校約七三〇〇食分と、自校給食校からセンター給食にかわった九校約七二〇〇食分と合わせて、計一九校約一万四五〇〇食分であった。

 この時点で自校給食校として存続したのは、芋井、小田切、信更など山間地の小・中学校(各分校をふくむ)と比較的給食施設が新しく大規模な若槻小学校であった。

 飯綱高原学校の前身は古く、昭和十六年(一九四一)に市内吉田町の横田九一郎の好意により、戸隠高原越水地籍の私有地約四万八九五〇平方メートルを教育施設に活用するよう市に寄付され、翌十七年市が約六四七平方メートル(児童室四、休養室二、その他職員室、浴室、食堂兼体育館など)を設置し、収容人員一〇〇人で、十八年に長野市学童保養所として開設した。この施設は戦後もつづいて林間学校とも呼ばれ、小学校児童の夏季訓練に利用されたが昭和三十四年の記録では、まだ小学校五、六年生の希望参加で、このころようやく参加者が多くなり、この年は前年より約四〇〇人ふえて引率教師をふくめ約四〇〇〇人余りの参加があった。三日間ずつの交代で、おもな内容は、①キャンプファイヤー、②飯ごう炊事、③付近の山をハイキング、④こん虫や植物しらべ、⑤生活記録は日記に、⑥DDTなどで下水ごみ捨て場の消毒などとなっており、これはその後も長く引きつがれる内容であった。この施設は二六年間利用されたが、老朽化と、二度の近隣市町村との合併にともなう児童数の増加による狭矮化(きょうわいか)、さらには、付近の急激な開発による環境の変化等により、昭和四十四年度限りで閉鎖した。

 新たに飯綱高原一ノ倉池近くの市有地に一部県の援助を得て、昭和四十五年六月二十日、市が総工費約六〇〇〇万円で鉄骨(一部鉄筋)二階建て、一五畳一三室、一二畳二室のほか食堂、浴室などを備え、収容人員二五〇人の飯綱高原学校を開設した。


写真107 昭和45年開設された飯綱高原学校

 高原学校は毎年六月から九月初旬まで、市内小学校五年生(一部五・六年生隔年)を対象に二泊三日(一部一泊二日)入校させ、共同宿泊や飯綱登山などによる、団体生活や心身の健康増進を目的とした。ところが平成十一年(一九九九)にはこれもまた老朽化がいちじるしくなり、同十二年度には飯綱高原スキー場東側にある、公営宿泊施設「しなの山荘」を期間的に借用して実施することになった。

 新潟県能生町の百川臨海学校は、昭和四十五年(一九七〇)三月能生町立百川小学校が統廃合により廃校となり、能生町から百川区に無償払いさげとなったものを、四十八年四月一日に長野市と百川区が賃貸契約により、内部を改造して長野市が臨海学校として開設したものである。その後長野市は五十年四月二十五日、さらに同区内の雲龍寺を借りうけ、内部改造を加えて臨海学校第二校舎として開設した。


写真108 昭和48年から能生で始まった臨海学校

 臨海学校は、毎年七月一日から八月上旬まで、市内小学校六年生(一部五・六年生)を対象に二泊三日入校させ、雄大な海で共同宿泊により団体生活や心身の健康増進を目的とした。

・第一校舎は、木造一部二階建て、宿泊室二(内食堂兼用一)、管理人室一、厨房室一、収容人員二二〇人で、放送設備一式、カラーテレビ、洗濯機、電気掃除機、扇風機、ボートなどが備えられている。

・第二校舎は、木造平家建て、宿泊室九(内食堂兼用一)、配膳室一で、放送設備一式、カラーテレビ、洗濯機、電気掃除機、扇風機、ボートなどが備えられている。

 長野市教育センターは、昭和五十七年四月一日、大字鶴賀(南部小学校北隣)に、完成し開館した。この建設は五十四年十二月に市総合教育センター建設委員会の答申によるもので、当時市内に散在していた視聴覚ライブラリー(後町小学校内)、心身障害児のための教育相談室(鍋屋田小学校内)、少年補導センター(市役所第二庁舎東側にあった第一分室内)の諸施設を合わせて併設したものであった。建物は、鉄骨三階建て、総工費三億八二二〇万円で、事務室、心身障害児の治療室や観察室、テレビスタジオ、視聴覚教材製作室、LL教室(語学訓練室)、研修室、会議室などが配置されている。ここでは、おもに市内小中学校の教職員がLL教室を利用しての英語研修、視聴覚教育をすすめるための研修やテレビ教材の製作、各教科の研修、また、保健安全、青少年の健全育成についての研修などがおこなわれている。

 教育相談センターは、児童生徒のいじめ、不登校の問題解決のために、相談スタッフ(相談指導員・相談員)の派遣をおこなう目的で、平成十一年九月一日長野市城山分室内(旧NHKあと)に開設された。職員は所長(学校教育課長兼任)のほか、相談指導員、学校訪問相談指導員、電話相談員、家庭訪問相談員などが若干人ずつ配置されている。