私立高校の新設と県立高校の統合・移転

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昭和二十年代の終わりから四十年代にかけて、長野市域に存続していた高校は、図12のようである。これらのうち、この時期に高校として新しく発足したものには、いずれも私立の長野女子高校・長野文化高校・長野中央高校・篠ノ井旭高校がある。敗戦で海外から引きあげてきた人や、都市から故郷にもどって新しい生活を始めた人たちの子どもたちも、つぎつぎと義務教育の修了年齢に達していた。さらに、高校進学希望者の割合も高くなり、昭和三十一年(一九五六)二月の時点では五一・八パーセントと卒業見こみ者の半数をこえるほどになった。そのため、毎年高校への進学がかなえられない子どもたちが出て、教育関係者やPTA連合会では県立高校の募集定員の増加や県立高校の新設を働きかけていた。しかし、長野県の財政は大きな赤字に悩まされており、やがて財政再建団体になってしまったため、財政の引きしめにあい、学級増・定員増の要求がかなえられるようになったのは、財政再建の適用が終わる三十六年を過ぎてからであった。このような状況をみて、地域の社会教育関係者のなかから、子どもたちのために地域に私立の高等学校を設立しようとする動きがおこり、設立されたのが先の私立の四高校である。


図12 長野市域の高校の系譜(全日制) (各校学校誌史などにより作成)

 長野和洋裁縫女学校(大正十四年創立)から発展した、学校法人家政学園の長野女子高校は、昭和三十二年四月宇木本城の新校舎で人学式をおこなった。定員は家政科一五〇人であったが、志願者が三倍にもおよんだことから、二一六人が入学を認められた。翌三十三年には併設されていた高等家政学校を統合し、以後募集定員を三五〇人としている。全校舎が完成した三十四年からは普通科(定員一〇〇人)を併設して、家政科定員を二五〇人(のち一五〇人)に減らすとともに、校舎・校地の整備をすすめた。四十二年四月長野女子短期大学の開学により、その附属女子高校となって一貫教育がすすめられている。


写真109 長野女子高校・長野女子短期大学の全景 (『長野女子高等学校六十年史』より)

 昭和六年(一九三一)四月創立された長野文化学院は、三十三年四月学校法人文化学園を設立し、市内上千田に新校舎を建設して長野文化高校を開校した。女子の普通教育および被服に関する専門教育を施すという目的から、本科に普通科と被服科、専攻科に被服科(修業年限一年)がおかれた。発足当初の入学者の学級数は普通科三学級・被服科一学級、三十四年には普通科四学級・被服科三学級、三十八年度は普通科七学級・被服科は家庭科にかわり三学級と最大規模になった。この間、戦前・戦後の出生児童数の変動の波をうけ、入学者の学級数は年度ごとに大きな変化をしているが、同校では施設・設備を整えていった。四十二年度以降は普通科五学級・被服科三学級でほぼ安定した学級数を維持している。

 長野中央高校は、第一次ベビーブームの子どもたちが高校進学期をむかえ、いわゆる「中学浪人」があふれ、公立高校ではすぐに対応できないのをみかねて、地元の経済界・教育界の有志が発起人となって創立された。学校法人長野中央学園の設立認可をうけ、三十四年四月長野中央高校を開校した。初年度の入学生は男子二六九人(六学級)であった。大口出資者はなく、建設費用の学校債のかなりの部分を入学生の保護者に引きうけてもらいながら、校舎や施設などの環境整備をすすめた。三十七年には全国に附属・準附属高校を展開していた日本大学との提携ができ、日本大学準附属校となり、四十年代になると統一テストによる日本大学への推薦制度も適用されるようになっている。


写真110 設立当時の私立長野中央高校

 篠ノ井旭高校は、昭和三十四年六月男女共学の私立高校建設計画に始まり、十一月には篠ノ井市御幣川に校地が確保された。翌三十五年二月学校法人篠ノ井学園に高校設置が、長野県知事から認可されたが、新設校のため、生徒募集や各中学校とのつながりを得るのに苦労があったと、関係者は述懐している。その甲斐があって、初年度四月一八六人の一年生と篠ノ井高等女学院からの二年編入生を迎えて、完成したばかりの第一校舎を使ってのスタートとなった。その後校舎等の建設や校庭の拡張も相ついで完成し、三十六度からは普通科に加えて、商業課程・工業課程土木科を設置し、指導の充実がはかられていった。

 高校進学希望者の急増にたいして長野市では、国立工業高等専門学校誘致のために、徳間地籍に約五万坪の敷地を確保(高専は約三万坪を使用して開校)していたこともあり、昭和三十七年になると対策案をまとめた。それによると、①川端地籍にある長野市立高校に普通科を新たに併設し、徳間に新校舎を建設後普通科生徒を移す、②将来は両校を統合する、というものであった。学校・同窓会・PTAでは、学校内の事情から新設する普通科は女子のみにすること、できるだけ早いうちに両方の科の統合をはかることなどを陳情し、市側からは考慮する旨の確約を得た。こうして、普通科女子一〇〇人の増募が決定し、三十八年四月被服科二〇〇人普通科一〇〇人(翌年より募集定員二〇〇人)が、川端の市立高校校舎で入学式をあげた。しかし、新校舎建設財源に苦慮した市側の都合により、徳間地籍の新校舎は普通科のみの長野市立第二高校として三十八年四月認可された。三十八年十月から建設工事に入った第二高校校舎は、三十九年六月鉄筋三階建て校舎が完成し、六月二十二日第二高校生徒らは新校舎に移った。翌年に管理棟・体育館、特別教室棟は四十一年に完成し、十月に竣工式がおこなわれた。四十二年には両校の統合が公表され、校内ではそのための研究が全職員の参加ですすんだ。校舎の増築もすすめられ、四十三年三月には統合後の学校名が「長野市立皐月高校」と決定し、下旬には川端からの市立高校の移転がおこなわれ、四月には徳間に皐月高校の発足がみられた。


写真111 完成したばかりの市立第二高校校舎

 長野工業高校の移転・新築は、昭和三十年代から始まった高校の危険校舎の改築・体育施設の整備と、県庁舎新築・国立工業高等専門学校誘致などがからんで論議がすすんだ。長野工業高校の同窓会が中心となって関係方面と折衝し、現在地での改築を働きかけたが、三十九年(一九六四)の二月県議会において、県庁舎の新築とセット化されて移転新築と決まった。一〇億円といわれた、市内の一等地約一万坪の敷地と校舎を売却し、移転先は長野市が敷地二万坪を探して寄付することになり、候補地の現地視察の結果三十九年三月、安茂里地籍に隣接する犀川北部の青木島(現差出南)に決定した。移転新築計画は、知事査定で約六億円の予算が認められ、四十年四月地鎮祭・起工式をおこなった。四十一年三月、鉄筋コンクリート四階建て管理棟と普通教室棟、三階建て実験実習棟、鉄骨平屋建て機械工場・土木建築実習棟・体育館などからなる新校舎群が完成し移転した。四十一年度は新校舎で入学式もおこなわれ、引きつづいて運動関係その他の付属設備が整備されていった。


写真112 丹波島橋ごしにみられる長野工業高校新校舎

 明治三十八年創立の松代農学校と大正六年開校の松代実業学校女子部をうけついできた松代高校は、昭和二十七年の県立高校移管以来、校地をはじめとする施設拡充が課題であった。三十年代の生徒急増期をむかえ、校地拡張がはかられ、三十七年には松代城跡東側に運動場を、三十八年には鉄筋二階建ての新校舎が建設された。三十九年の新潟地震を契機に校舎全面改築の機運が高まり、移転先の選定をすすめ適地を松代町西条に選定した。四十年八月から始まった松代群発地震をのりこえて管理棟や教室棟が建設され、四十三年三月新校舎へ移転した。その後も体育館・グラウンド等の建設がすすめられ、教育環境がととのえられていった。

 これらの全日制課程のほか、青年教育の一翼をになう中等教育機関として戦後に生まれたものに、定時制課程と通信制課程がある。四年制の定時制課程は、高校に進学して学習しようとする意欲はもっているが、家庭の事情や仕事の関係で全日制課程の高校に進学できない青少年に、主として勤務が終わった夜間に後期中等教育を受ける機会をあたえるために設けられた。現市域には図13に見られるような、高校の定時制課程が設けられていた。勤労学徒として働く職場が確保でき、就学しやすい旧市域には、募集定員が一〇〇人をこえる定時制課程が設けられたが、篠ノ井・松代地区では募集定員が低く設定されていた。


図13 長野市域の高校の系譜(定時制・通信制) (各校学校誌史などにより作成)

 長野工業高校では、文部省基準の最低八五単位を上まわる一〇一単位を四年間で修得するようにし、意欲にもえる勤労学徒に確かな専門的技術教育がほどこされた。三十一年度には在籍三五〇人のうち九〇パーセントまでが工場・商店・会社などで働いていた。働いているうちにみこまれて卒業後の就職までが保証されたとか、生徒求人が多すぎて断るのに困ったとかいう話も残っている。

 定時制普通科では全日制課程にかわりたい生徒たちの仮の学び舎の姿も一部ではみられ、『信毎』によると長野北高校では昭和三十一年三月、一学年約一二〇人中六〇パーセントほどが全日制課程への再志願をし、三十数人が全日制へ転出している。そのようであるから、入学しても職業をもっている生徒は三〇パーセントに過ぎなかったし、三・四年生になって就職してもアルバイト程度で、卒業時に就職できたのは一五パーセント程度のこともあった。

 農業科は農山村で家の仕事をにない家から離れられない若者たちのために、中心校のほかに多くの分校が設けられ、昼間部の四時間授業の定時制分校として、地元自治体の協力を得て運営された。生徒は、すすんだ技術・一般教養修得のため学習にはげみ、きまりにより最終年度は中心校で履修した。学校では設備等の不足は自治体の補助を得て間にあわせ、先生たちには生徒募集の働きかけの苦労があったという。

 これらの定時制課程は三十年代になると、定時制課程の充実・振興を名目にした文部省の「定時制整備基準」・県の財政再建や三十年代半ばからの国の高度経済成長政策進展のなかで、全日制課程の大衆化や農山村の過疎化の影響をうけて、規模の縮小から統合・廃校への道をたどるようになった。とくに農業科の分校は、市街への通学の便がよくなったことや、家庭の経済環境の改善・生徒の意識の変化が、分校軽視の風潮とあいまって生徒が激減し、分校の統廃合の動きに抗しきれず、早くから相ついで姿を消していくようになった。

 通信制課程は在宅で学習することを主にし、定期的な面接授業を併用しながら高校の学習をすすめる課程として、北信地区では唯一長野西高校に併設された。入学した生徒は、距離や労働時間の面から定時制課程に通う便宜を得られない勤労青少年や、修学の機会を失いかけていた高校教育修得に意欲をもつ人たちであった。出発当初は卒業への見とおしが示されていなかったことから、定時制課程在籍の併修生が大部分で、生徒の募集に苦労したといわれている。学習指導要領が改定されるなかで、通信制課程で取得できる単位が拡大され、昭和三十年(一九五五)には待望の高校卒業資格に必要な八五単位を通信制課程のみによっての取得が可能になり、卒業も認められるようになった。長野西高通信制課程から第一回の卒業生を送りだすことができたのは三十一年度であった。そのなかのある一人の卒業生は、「通信教育のみで卒業することができた。ただもううれしさのほかは何もない。思えば長いようでもあり、また、ごく短い五年間でもあった気がする。入学当時はまだ通信制課程による卒業は認められていなかったし、私にはそういうつもりもなかった。一年半ほどは親友らしい友は一人もできず、全くの孤独だった。今考えると寂しい限りだった。その当時と比較して、今の通信教育は非常に学習しやすくなったという感じが強い。」と感想をのべている。

 昭和三十八年の学習指導要領の改定により、通信制の教育課程も全日制・定時制と同列に位置づけられるようになった。在籍生徒数も三十年度には八〇〇人近くにふえ、四十年代に入ると二〇〇〇人台へと伸びるほどになった。この間学校では生徒の便宜をはかり、学校の面接とは別の日に地方面接を飯山・上田・臼田等でおこなったり、面接日と試験日を別の日(地方では別の時間)におこなったりした。さらに、日曜日の本校での面接に出席できない理美容業の生徒や日曜勤務の看護婦たちのためには、四十三年からは月曜日に面接するようにした。生徒の登校日数が多くなると、職場の関係で休めなかったり交通費等の負担増も心配されたが、生徒たちは鬼無里をはじめ二〇余の地区学習会を組織して学習をすすめるとともに、学習仲間との親睦・団結を強めていった。このほか、卒業を目指した学習計画指導もあって、宿泊スクーリング・関西修学旅行・全定合同運動会参加から単独の運動会の実施へなどの成果を上げている。四十三年になると後援会も発足して事業主の理解と協力も得られるようになり、通信制課程が定着する大きな力となっている。