養護学級と盲・ろう・養護学校の新設

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昭和二十二年(一九四七)「教育基本法」の公布により、都道府県に盲・ろう・養護学校の設置が義務づけられた。これをうけて、長野市教育会では昭和二十五年、いままでの専門部会を廃止し、研究部を、①研究委員会、②教科研究会、③諸委員会、④その他の委員会の四つにし、諸委員会の中に初めて特殊教育研究委員会をつくった。ここでは、特殊教育のとらえや内容について研究をかさねたり、他府県に視察にいった会員の報告をききあったりしている。昭和三十年文部省は第一回特殊教育教員養成講座を千葉県市川市に開き、以後毎年おこなうことになった。この年小諸市西中学校(現芦原中学校)に、県内の中学校では初めての特殊学級が開設された。

 長野市教育会「特殊教育研究委員会記録簿」によると、特殊教育委員会は三十年六月に第一回の会合を開き年五回の研究をおこなっている。記録簿のなかで、視察の報告として山梨・静岡・神奈川・東京・群馬の例をもとに、特殊教育で考えられる学級として「①精神薄弱児学級(促進学級・治療学級、固定の精神薄弱児学級)、②虚弱児の学級(養護学級)、③肢体不自由児学級(難聴児、弱視児、吃音構音障害児、四肢不自由児)をあげている。そして、委員が持ちよった自校の事例研究をとおしながら、①学級内の対象児が真の障害児であるか否かの判断、②県の実態調査による小学校四・二パーセント、中学校八・二パーセントとなっている障害をもつ児童(対象児)が、どのような障害をもっているかを見極めることによりそれにたいする指導法が考えられる、③専門家の研究により普通学級での教育効果は上がらないことが明らかになっているので特殊学級設置により救うより他に方法はない」との結論を出している。

 現長野市域では、三十年七月通明小学校に北村治夫を担任として、初めての特殊学級が開設された。この学級は桐組とよばれ、全職員が特殊学級や特殊教育について研究をおこなった。

 昭和三十一年文部省は、特殊教育室を特殊教育課に改名し特殊教育指導者養成講座を開いている。長野県では、長野県教育委員会第一回特殊教育研究協議会が通明小学校を会場に開かれ、また、五月に特殊学級の担任が上田北小学校に集まり、特殊学級連絡協議会という名称で世話係を決め、次回から会場持ち回りとした。八月に第二回目を小諸で、十一月に第三回目を通明小学校で、翌年三月に第四回目を上田市でと四回開いた。これがのちの長野県特殊学級担任者会(通称、県特連)である。

 三十二年六月、城山小学校に宮沢恭久を担任として特殊学級が開設された。学級児童は、二年四人、三年三人、四年二人、五年六年各一人の計一一人であり一学級であった。そして『養護学級記録』第一集を刊行し、翌三十三年の長野県教育研究集会では、「養護学級における精神薄弱児指導」と題して発表し、これはNHK長野放送局のラジオ放送として取りあげられた。その内容については、大きく六領域(生活・健康・情操・生産作業・言語・数量)に分かれており、「独立させたかたちで扱うのではなく、総合的に関係づけ、また、児童一人ひとりの実態に応じたねらいや方法で個別化して指導する」としている。翌三十四年には通明中学校(現篠ノ井東中学校、一部は篠ノ井西中学校)に、長野市域の中学校として初めての特殊学級が開設された。

 長野県精薄特殊学級担任者会では、三十四年に会誌第一号を刊行し、同年長野市には「手をつなぐ親の会」が結成された。これは、昭和二十七年(一九五二)につくられた「全国精神薄弱者育成会」(通称、手をつなぐ親の会)と同様のものである。以後、遅々としてではあるが、少しずつ学級が開設されてきた。県は三十四年八月特殊児童生徒の実態調査を、また、翌三十五年には特殊学級設置希望の調査をおこなうなどして、特殊教育の振興をはかった。これにより、三十七年には、全県で一九校、翌三十八年には五二校で新設され、小中合わせて一二〇学級となった。

 国立校の信州大学教育学部附属長野小学校では、全国的に特殊教育にたずさわる教員養成の必要がさけばれるなか、昭和四十年に「特殊学級設置学年進行五ヵ年計画」にもとづいて、特殊学級校舎の建設計画と対象児の調査をして開設準備をした。そして四十一年一月に児童生徒募集を始めたが、三月には、予定よりも早く特殊学級用校舎(通称、北校舎)が落成した。鉄筋コンクリート二階建て普通教室五、特別教室五、管理教室五で、小・中一貫教育ができる施設であった。

 入級児童については、教育可能な精神薄弱児を対象に、低・高学年二学級各一五人の定員にたいして、初年度は低学年六人、高学年一〇人の計一六人が決定し、四十一年四月指導教官三人、ほかに事務官が一人と入級児童で出発した。これに合わせて、信大教育学部では、同年四月から教官二人、学生定員二〇人の養護学校教員養成課程が発足した。

 北校舎では、四十二年新たに中学校一年、四十三年中学校二年、四十四年には小学校中学年および中学校三年の学級を開設し、計六学級となった。「特殊学級」での教育実習は、四十二~四十三年は、副免(特殊免許が副)取得者のために二週間でおこない、四十四年からは主免(特殊免許が主)取得者の実習がおこなわれるようになった。期間は、翌四十五年までは八週間、四十六年からは六週間となった。その後、昭和五十年養護学校設立が許可になり、同年五月十七日、独立した信州大学教育学部附属養護学校となった。

 県下の特殊学校をみると、盲・ろう学校をのぞいて精神薄弱児学校が県下に初めて開校されたのは、昭和三十六年の長野養護学校であり、その後、四十一年には伊那養護学校、四十七年には松本養護学校が開設された。

 このうち、長野養護学校は、三十六年四月一日に開校した。この年までに全国の精薄養護学校は、国立二校、都道府県立二校、ほか市立私立を合わせて計一八校しかなく、長野県教育委員会の力の入れようがうかがえる。しかし、実際には校舎建築が間に合わず、長野盲学校の一室を借り、ここを仮事務所として発足の式をおこなった。県は、県内初めての養護学校であるとして、特殊学級センターとして精薄児教育に効果をあげようとし、また、寄宿舎を完備するところから、教育方針としてつぎの三点をあげている。①学齢にある教育可能な精神薄弱児にたいして義務教育としての学校教育をおこなう、②精神薄弱の特殊性を考慮し知的偏重を排し、個々の能力に応じた全人的な教育をほどこし、将来の社会的適応と社会的自立に目標をおく、③原則として、全児童生徒を寮舎に収容し、二四時間の生活訓練をとおして実践的な人間を育成する。

 こうして、一年目の入学選考では、ほぼ全県から希望のあった五九人のうちWISC知能診断検査、調査、面接をとおして中学生九人、小学生一〇人の計一九人が決定した。地域的には長野市六人、諏訪郡三人、松本・大町二人、南佐久・小県・下高井・東筑摩・上高井・伊那で各一人となっている。当初は入級児童や寮母などをふくめた開校を六月とみこんでいたが、校舎建築が遅れ、結局九月一日の開校となった。寮母には三人が配当され、八月二十三日に第一回の入寮者九人をはじめとして、段階的に入寮をし、その後の追加入学をふくめ、八月末までに三〇人が入寮をすませた。その後も追加入学がふえ、この年の末には最終的に合計九〇人に達した。以後、毎年八〇~九〇人規模で教職員も三五~四〇人くらいで推移している。

 肢体不自由・病虚弱児を対象とした学校の開校は、三十七年の諏訪養護学校(肢体不自由を中心に複合の形)と、四十六年の若槻養護学校(病虚弱)とで、この時期には二校のみである。このうち、若槻養護学校の開校は、およそつぎのような経過をたどった。昭和二十六年(一九五一)十二月二十四日、若槻病院内にいままであったさつき病棟の成人患者を他の病棟に移し、ここを小児科病棟とした。当時入院患者八〇〇人のうち小児患者十数人を対象に小児科が独立し、児童に理解をもった患者のなかから、男一人女二人が指導員となって学習を加味した生活指導を始めた。二十八年養護学校設立をめざして、県特殊教育担当主事による長野市教育長への要望、さらには地元から療養所長・市教育委員会・若槻小学校長・若槻中学校長(現北部中)連名での県への陳情が再三おこなわれたが、病気療養に専念するものにたいする勉強は、逆効果であるとの理由でいったんは承認されなかった。しかし、同二十九年にさらに陳情をつづけた結果、翌三十年五月、若槻小学校・中学校養護学級として院内での学校教育が始められた。この年度から教員一人の派遣が了承され、小学生二一人、中学生一〇人の指導にあたった。軽度のものは全学年を一室に集め、起きられないものはベッドで個々に指導した。三十一年四月一日からは正式に公立学校として認められ、国立長野療養所内に若槻小・中学校分室として教員二人が配置され、三十二年度には教員が一人ずつ増員により小・中学校別々の授業ができるようになった。在籍校はそれぞれ若槻小・中学校とした。療養所の病棟改築に際しては、市の負担のもと小・中学校別々の教室を整えることができた。

 昭和三十四年には長野市立北部中学校の新設により、若槻中学校分室は北部中学校分室となる。さらにこの分室は三十五年にはそれぞれ若槻小分校、北部中分校として小児科病棟・整形一般病棟に併設され、患者の全人的な成長を願う教育課程の模索と実施を繰りかえし、あわせて県立への移管を申請しつづけた。

 四十五年には国立療養所改築にともない分校の県立化が具体化し、同年十月から県立養護学校校舎の建築が始まり、四十六年六月七日、長野県若槻養護学校の開校式ならびに校舎落成式をおこない、県立の独立校として発足した。若槻養護学校は、学校教育法第七一条に基づいて設立され、胸部疾患・心臓疾患・腎臓疾患・喘息などの慢性疾患のため、国立療養所東長野病院に入院し、六ヵ月以上の医療または生活規制を必要とする病弱虚弱の児童生徒にたいし、小学校および中学校に準ずる教育をほどこすことを目的としたものであった。


写真113 東長野病院に隣接して建てられた若槻養護学校

 いっぽう、盲・ろうの障害児教育については、昭和二十二年公布の「教育基本法」による当該学校の設置が義務づけられたことから、その方途がさぐられた。

 長野県では、戦前から長野市に置かれた県立長野盲唖学校をめぐり、盲部を松本に統合する一校説や、長野・松本とする二校説、長野・上田・松本・飯田・諏訪とする五校説などが出されたが、長野県の地形的特徴から長野・松本に盲・ろう一校ずつとなった。こうして、長野市には長野県長野盲学校・長野県長野ろう学校・長野県長野盲唖学校の三校が併置される結果となり、三校ではあるが校長は一人であった。同二十五年長野県長野盲唖学校は全生徒の卒業とともに自然廃校となり、長野県長野盲学校・長野県長野ろう学校の二校となった。校長もそれぞれ別になり、ここに独立した盲・ろう二校が誕生した。

 長野県長野盲学校では、昭和二十五年七月に上田市の上田盲学校を合併し、かわりに上田市には点字図書館が設置された。就学が義務化されたとはいうものの、まだまだ、視覚障害をもつすべての学齢児が就学したわけではなく、教師が東北信の各町村をまわり生徒集めをするなどしていた。上田と合併しても、生徒数は三七人、教職員は一〇人であった。二十六年長野市から提供された三輪神境に五〇〇坪の新校舎が建設され、独立した長野県長野盲学校として発足するとともに、高等科別科としてあんま科が設けられた。翌二十七年には校舎寄宿舎の竣工式ならびに創立五十周年記念式典を開いている。さらに、二十八年には高等部理療科・本科あんま科の設置認可となり、三十二年には高等部本科理療科、三十五年には本科あんま・はり・きゅう科の設置認可があって現在の学校の基礎がかたまった。高等部の設置にともない、各町村の役場を訪ねて該当生徒の勧誘につとめた結果、三十一年度には六七人、三十三年度には八三人と増加し、教室を区ぎったり寄宿舎を使って授業をしたりすることとなった。そこで、三十五年十一月には長野市北尾張部に新築の校舎が落成し、移転した。

 新校舎は、南北の教室を二階の通路でむすび、四方から集まりやすいように中央に体育館を配するなど当時としては工夫された教室配置であった。また、未完成の校庭を職員と高等部生か連日くわやスコップで整地をしていった。整地された校庭には鉄線リレーの直線コースがつくられたり、盲人バレーコートが作られた。また、盲人野球でも広びろとした校庭でおこなうことができ、今までのように打ったボールが人家に飛びこむこともなくなり、のびのびとプレーできるようになった。校舎内には実習室や治療室が完備され、外来の治療も始まり来校した患者にたいしてあんま・はり・きゅうの実習治療がおこなえるようになった。また、治療奉仕に公民館や老人ホームにも出かけ盲教育の理解にも役だった。

 いっぽう、長野県長野ろう学校では、義務教育化のすすむなか、今までの中等部は中学部となり、昭和二十五年には今までの中等部四・五年制にもう一年加える形で高等部が新設された。高等部では、木材工芸科(現在は産業工芸科)と被服科(現在も同)が設けられ、この年の終わりに初の高等部卒業生をだしている。木材工芸科の卒業生はおもに建具師の店へ、また、被服科の卒業生は仕立て関係の会社や店に就職していった。PTAも組織化され、昭和二十四年には戦後の新しい同窓会も組織された。同二十八年には前年に皇太子の立太子および成人式の記念下賜金を基金に校旗校章を新調した。部活動も盛んにおこなわれ、二十九年には関東地区ろう学校体育大会で、野球第三位となったのをはじめ、三十四年には関東地区ろう学校卓球大会で女子が団体優勝するなどの活躍があった。この間三十年には運動場拡張工事が竣工し、さらに、増築校舎が落成するなど、教育環境もだんだんと整っていった。二十九年の盲ろう養護学校への就学奨励に関する法律の公布にもかかわらず、盲学校同様に職員が各地をまわり熱心に就学をうながす努力をした。また、ろう学校に赴任を希望する教師もほとんどなく、校長が各地の学校に働きかけたり、信大教育学部や長野県短期大学の卒業生によって、ようやくの思いで教師を確保するなど当時のろう教育にたいする社会の関心は薄かった。三十五年にはNHKが、ろう学校の教育を取りあげ放送をした。


写真114 長野県長野ろう学校

 昭和四十年から四十一年にかけて、鉄筋三階建て校舎や新体育館・さらに、技術家庭科および職業教室が完成し、四十一年五月には落成式がおこなわれた。同年幼稚部の五歳児学級が一学級設置され、早期からの教育の必要性が高まってきた。四十三年には四歳児学級が、四十六年には三歳児学級が新設され、現在の幼小中高の体制がここに誕生した。四十六年、幼稚部に在籍していた幼児のうち、聞こえや発音発語のよい幼児が地元の小学校に就学するインテグレーション(統合教育といっていた)も始まり、また、その児童をろう学校に定期的に通学させ、発音指導や学習指導をおこなう「きこえの教室」も始まり、この年は三人が通っている。

 昭和四十七年には、創立七〇周年記念式典をおこない、校歌を制定し、記念誌の発行、理科の岩石園を設置した。同年、幼児教育の功績にたいし「第四回中日教育賞」がおくられている。四十九年には小学部が、五十年には中学部がそれぞれ城東小学校や柳町中学校と交流を開始し、運動会やクラブ活動・遠足・音楽会を合同でおこなうなどをとおして、ろう教育の理解とコミュニケーションの確立をはかっていった。また、中学部では社会見学や遠足の折に、見学地近くの中学校とも交流をおこない、鬼無里中学校(上水内郡)をはじめとして多くの学校と交流をし、学校祭に招待したり野球やバレーボールの練習試合をするなどしている。