長野県下では、昭和三十五年(一九六〇)四月二十六日県経営者協会常任理事会が技術教育特別委員会を設置し、当初は工業高校課程および職業訓練所の拡充をとりあげたが、さらには運動方針として信大工学部の拡充整備と工業短期大学を早期に県内に招致する問題に切りかえた。三十六年三月一日技術教育特別委員会の第一小委員会は、同年に国立工業短期大学を県内に設置するよう県当局や県会各党に働きかけ、県会で決議するよう要請した。県会は同年三月二十九日の本会議で全員一致によりこれを可決した。さらに、信大工学部教官会議は六月十五日、県から協力依頼のあった国立工業短期大学部の創設について審議し、三十七年度予算に概算要求を提出することを決定した。これは国の動きとは一歩趣を異にするものであった。
その後、国の動きをみた県経営者協会主要役員等は、三十六年六月二十六日改めて工業高等専門学校(以下、高専)誘致問題で自民党県連会長と懇談し、同年七月二十六日には県総務部長・社会衛生文教委員長・森本弥三八信大工学部長が文部省に長野高専誘致を陳情して、三十七年度開校を働きかけた。
文部省は三十七年度に全国で八校の高専を新設する方針を決め、三十六年八月各都道府県に、高専誘致の意志の有無を打診してきた。これにたいし県下では、長野市・須坂市・小諸市が高専の設置場所をめぐり、既設の信大各学部との関連で対立したため、県は文部省側で決めてくれるよう希望した。しかし、文部省は地元がまとまらない長野県を相手にしなかった。
三十六年八月三十日県経営者協会会長田中重弥らは、西沢知事にたいし、設置場所の確定、招致期成同盟会の設置、敷地確保、教官住宅地元負担金などについて受け入れ態勢の具体的確定を要望した。さらに、同日の懇談会では長野市に、具体的な受け入れ条件の提示を要請し、長野市の態度を打診することが申しあわされた。
これを受けて長野市は、三十六年九月県にたいし高専の長野市誘致について正式の陳情をおこない、文部省にも長野市への設置方を陳情した。この設置場所を長野市に決めた理由について県は、同年十一月八日の県会社会文教委員会で「信大工学部の協力を得やすい地理的条件や交通の便などから、長野市が他市の候補地よりすぐれている」と説明している。こうして、長野市設置は十一月二十四日社会文教委員会で正式に決定し、文部省に報告、三十七年度設置が陳情された(『長野高専三十年史』)。
三十六年十二月四日、西沢知事を会長とする「国立工業高等専門学校招致期成同盟会」が発足し、十二月十三日には「国立高等専門学校長野市招致期成同盟会」が設置され、いずれも事務所は長野市役所内におかれた。しかし、この時点で長野高専の三十七年度第一期校の開校は困難となり、以後はこの同盟会を先頭に全県一致で長野高専の誘致活動と三十八年度開校の運動をすすめることになった。
文部省は、三十八年度に国立高専を招致しようとする各県に地元協力事項として、①用地、②仮校舎・仮寄宿舎、③職員宿舎の三点を示したが、この内容はきびしいものであった。とくに、県内では高専招致をめぐって前述の三市のほか上田市と伊那市が加わり五市が立候補していた。そのため、これを一市にしぼる方策として、受け入れを希望する市は敷地を提供することにした。長野市はこれを受託したため、設置は長野市に決まった。
長野市では、期成同盟会の会長に米倉三郎市議会議長、副に内堀喜一郎市議会議員兼農業委員会会長ら四人が選出され、常任理事に若槻・古里の各農協組合長、三才・古里・徳間の各区長等および学校敷地予定の地元関係者が就任した。三十七年二月二十三日第一回常任理事会では、敷地買収委員会が設置され、徳間地区では隣組長を先頭に地区の発展のため敷地確保に協力した。こうして、敷地の買収は順調にすすみ三十七年四月までに全地主の承諾が得られ、若槻・古里上駒沢地籍に約三万坪の土地を確保することができた。
長野市の敷地確保と受け入れ態勢が整備されたところで、国への陳情が波状的におこなわれた。文部省は三十七年度(第一期校)に長岡・宇部の短大からの移行をふくめて計一二校を開校していたが、第二期校の設置をめぐっては十一月の時点で、長野は同じブロックに属する富山と激しくせりあっていた。しかし、十二月大蔵省の査定では長野がかなり有利となり、三十八年一月十一日には長野をふくめ一二高専の新設が正式に発表された。
長野高専初代校長には美作小一郎、第一期入学生は、機械(定員八〇人)一〇〇人、電気(定員四〇人)五一人が決まり、仮事務所には信大教育学部吉田農場の管理室を借用してあてた。開校式と第一回入学式は、三十八年四月二十日若槻小学校講堂でおこなわれ、校舎は旧若槻中学校を、寄宿舎は旧浅川中学校を、それぞれ仮にあててスタートした。長野市徳間七一六番地の本校舎が竣工して移転したのは翌三十九年四月十八日であった。
長野市内の私立短期大学は、昭和四十年~五十年にかけて三校新設された。これは昭和三十九年(一九六四)六月学校教育法の一部改正により短期大学が恒久的な制度として認められ、また、地元の要望によるものであった。
長野清泉女学院短期大学の前身は、長野清泉女学院高校に昭和三十六年四月設置された同校「専攻科」である。この専攻科は、高校卒業者を対象に女性として必要な教育・知識・技能を授けるための修業年限一年で始められたが、四十一年四月文部大臣認可の各種学校「長野清泉女学院幼稚園教員養成所」となり、修業年限は二年に延長された。さらに、四十三年四月からは保母資格も取得できる厚生大臣指定の保母養成所となり、校名を「清泉女子専門学校」と改名。翌四十四年四月には「清泉保育女子専門学校」となった。こうして高校と専門の両校がしだいに充実発展してきたため、五十年ころには箱清水(城山)の校地がせまくなり、それ以上の拡張は望めない状況であった。
昭和五十年学校教育法改正にともなう専修学校への切りかえに際し、文部省から当保育専門学校は、五年以内に専修から短大にすることが望ましいとの助言を受け、短期大学移行に踏みきる決意をし、その運動が始められた。五十三年十月長野市議会において、長野市上野の市有地約六〇〇〇坪(一万九八〇〇余平方メートル)を譲渡することが決定され、同年十二月二十三日譲渡された。五十四年五月二十五日外郭団体(親泉会、泉会、さゆり会、愛泉会)の役員会で、短期大学設立の実行委員会が組織された。同年七月三十一日清泉女学院短期大学設置認可申請書が文部省に提出され、五十六年一月十六日同短大の設置認可があり、つづいて二月二十四日保母養成所が指定認可された。同年四月八日第一回入学式がおこなわれ、初代学長は藤森さと、幼児教育科一二一人、英語科五七人の第一回生が入学した。開学と校舎落成記念式典は、五月五日におこなわれた。
昭和三十四年一月設置認可、四月発足の長野中央学園(中央高校)は、長野経済短期大学と同一の学校法人であり、三十七年十一月日本大学と準附属校契約をした。
昭和四十二年(一九六七)三月長野経済短期大学(修業年限二年)が同じキャンパス内の長野市東和田に創立された。学科は経済科一部・同二部で、四月第一回入学生として一部四五人・同二部四七人が入学した。初代学長には経済学博士の木下彰が就任し、同年十二月長野経済短期大学附属幼稚園を設置。さらに、四十四年三月経済科を経済学科一部・同二部に変更して、五十一年二月には一部入学定員を一五〇人・同二部一〇〇人に変更した。同年八月飯綱高原にセミナーハウスとグラウンドを同所に建設した。
ところが、五十二年十月日本大学の通告により、中央高校は準附属校取り扱いの解約がなされた。この解約通告文の理由は「長野経済短期大学に併設され、実質的に同短大の附属校である」というものであった。しかし、その後中央高校あげて生徒の学力アップと日本大学合格者の増加につとめ、六十一年四月一日からの日本大学準附属校再契約がなされた。同短大の学科は五十八年以降に数度の改正や名称変更があったが、平成六年(一九九四)四月カリキュラムを全面的に改正して、経済・経営・経営情報・秘書の四コースとなった。
長野女子短期大学の母体は、長野女子高等学校である。同高校では昭和三十五年から短期大学設置を目的に六年間にわたり実験実習校としての、組織・用地・校舎・経費面などの準備をすすめ四十一年度末までにほぼ完了した。この間四十二年一月二十八日学校法人長野家政学園が認可され、同年二月七日長野女子短期大学(長野市宇木本城、四十六年十月町名変更により長野市三輪)の設立が認可となった。理事長・学長は小林倭文、学科は修業二年の家政学科で資格免許は中学校教諭二級(家庭)普通免許状であった。四月十五日入学式があり、第一回入学生は定員一〇〇人のところ七六人であった。
四十九年一月家政学科の専攻課程として、家政七〇人、被服三〇人(中学校教諭二級普通免許、家庭)の設置が認可された。つづいて同年三月には衣料管理士養成大学として、被服専攻履修者に二級衣料管理士の資格付与が日本衣料管理協会長から認定された。その後、平成元年(一九八九)三月家政学科を生活科学科と改称し、さらに、六年九月情報管理士の称号付与(全国大学・短期大学実務教育協会)が認定された。