長野県の公民館の普及速度ははやく、都道府県のなかでは先進地として、昭和二十八年(一九五三)には県下全市町村に設置された。しかし、独立建築の家屋として建てられた公民館は少なく、町村役場や小学校などの小部屋を仮用して発足し、兼務で無給の館長と役場職員等の主事をおいて運営するケースが多かった。昭和四十五年度になっても、県下市町村の公民館長は常勤四二人中専任九人、兼任三三人(教育長・助役など)というありさまで、非常勤館長が一三九人という実態であった。
県下各地の公民館では、敗戦のなかから立ちあがった青年が、日本民主化のさきがけを自認して農村を中心に活発な活動を開始した。昭和二十七年八月の『古里公民館報』によれば、公民館発足五年目を迎えて、「分館活動を主力へ、期待は青年学級」のタイトルで記事を載せている。予算的にも前年の三〇万円をはるかに上回り、同年は五三万円と躍進の一途をたどっているとし、同年度からは村内の五分館(富竹・金箱・下駒沢・上駒沢・三才の五分館)の活動に補助金を支給し、前年発足した勤労青年向けの青年学級を充実することにした。これにより未来をになう青年教育は、婦人教育とともに公民館活動の主柱のひとつとなっていった。
昭和三十三年度市公民館浅川分館の事業計画概況は表37のようである。予算面からみると、青年学級・婦人学級などで構成される教養部の予算が四三パーセントで高い比率をしめている。産業部では地域の農業生産向上のために品評会や競作・競技会を計画しており、体育部では市民の健康・体力づくりや交流を意図した運動会・大会などを計画している。
長野市では三十年代から四十年代にかけて、青年の学習サークル・グループ活動が盛んで、公民館主事会議では、青年教育が研究課題の重要な柱として設定されていた。昭和三十年に実施された市公民館の婦人講座(連続一〇回)の第二回目の講座では、映画「嫁の野良着」を活用してグループ討議をした。そこでだされた問題をふまえて、講師は「嫁と姑(しゅうとめ)のあり方」というテーマで講演し、身近にある女性問題解決の手がかりが得られるよう助言している(『婦人講座の記録集』)。
長野市公民館は二十八年には二五分館を設立していたが、二十九年四月、長野市への近隣一〇ヵ村の編入合併により、各村公民館は古里支館ほか九支館の設立となった。三十一年の支館条例廃止により支館はそのまま分館となり、この年には三九分館となった。なお、二十九年九月アメリカ文化センターは、日米文化センターと改称されて長野市公民館の管理下におかれた。
昭和四十一年(一九六六)長野市の市町村大合併までには四二分館が設置されて、長野市公民館の分館活動はひろがりをみせていた(『館報城山』第一四号)。大合併後、長野市公民館(城山)は市立中央公民館として組織がえされ、篠ノ井・松代・若穂・川中島・更北・信更・七二会の元市町村立公民館も、ともに市立公民館として位置づけられ、八館並列方式となった。
『昭和四十二年長野市公民館概況』によれば、公民館の重点目標を「市民から頼られる公民館〝地域課題をほりおこす公民館〟となる。地域のひとりひとりの生活要求や願いを的確にとらえ、それを学習課題として諸講座、学級を開催する」として、地域の課題解決にとりくんでいく姿勢を強調し、つぎの七事業をおもな事業としている。
①公民館職員自身の研修を深める。②同和教育をすすめる。③諸講座、諸学級を開催する。④文化活動をすすめる。⑤体育、レクリエーションをとおして住民の健康の増進をはかる。⑥公民館報を発行する。⑦分館と部落公民館活動をさかんにする。
四十二年の公民館の概況は表38のとおりで、市立公民館八館のほかに分館二四、地域分館二二九を数えるほどに増大していた。篠ノ井公民館の場合をみても、東福寺分館など計七分館があり、さらに、小地域ごとの地域分館が七一に達している。しかし、合併後の長野市の公民館および分館・地域分館には相互の連携が弱いため、地域課題の堀りおこしの視点や方法にも地域差が大きかった。そこで、新市一体による社会教育・公民館活動をすすめる目的で、四十三年十二月には第一回長野市公民館研究集会が、城山の中央公民館・蔵春閣・観光館を会場として開催された。研究集会の共通テーマを「地域公民館の活動を進めるにはどうしたらよいか」とし、「組織・規約・財政・事業」の面から活動についての検討をせまる研究集会であった。八分散会を設けて、七瀬・瀬脇・田野口ほか地域分館の現状レポートが提出され、助言者には市立公民館長や現場をよく知る主事らをあててすすめられた。四十六年には『地域公民館の手引き』が発行され、地域公民館への交付金・建設費補助金の制度が置かれるなど活動を支援する体制が強化された。
四十年代後半には、長野市立中央・川中島両公民館の新館が四十五年三月に竣工し、つづいて翌年二月には松代公民館、四月に若穂公民館、十二月には信更公民館と市立公民館の新築がつづいた。
このような状況下で、成人学校講座(条例により三十五年に公民館から独立)が飛躍的に拡大された。四十五年四月には、三輪会場に加えて成人学校講座を城山会場にも開設して二会場二一科目(日本画・善光寺の歴史・盆栽・俳画・文学の五科目の講座を増設して)としている。さらに、四十六年には話し方ほか三科目、四十七年には中国語ほか五科目と成人学校講座の新設がつづいた。当時の講座担当者は、「この時期は、成人学校講座にたいする市民の要望がきわめて高く、いくら講座をふやしても応じきれないで、朝早くから行列ができ、その盛況が中央紙・地方紙はもとよりテレビ・ラジオで報道されると、翌年はさらに応募者が殺到するという有様で、その熱気のすさまじさは驚くばかりであった。そのため、新しい講座を設けるごとに忙殺されどうしであった。」(『館報城山』第一四号)と回顧している。したがって、長野市では、四十三年度に設置された篠ノ井公民館の成人学校とともに三成人学校が場所をかえて運営されており、ともに盛況な活動状況を生みだしていった。
その後さらに、市民の成人学校へのニーズが高まり、安茂里公民館(四十七年)、朝陽・若槻両公民館(ともに四十八年)、芹田公民館(四十九年)、古牧公民館(五十年)、中部公民館(五十年)と成人学校の開設がつづき、学習科目と講座数は増大の一途をたどった。このように成人学校講座は盛んな様相を呈した。
昭和五十一年(一九七六)中央公民館が廃止されて、つぎの市立公民館六館が設置された。城山公民館(城山公園内)、東部公民館(北長池)、西部公民館(安茂里大門)、北部公民館(若槻東条)、南部公民館(栗田)、中部公民館(緑町)
そして五十四年度には、長野市の成人学校講座の科目数は八四、講座数は一二九、講師数は九一人となり(表39)、受講生の数は四六〇〇人をこえた。