活動の本質を模索するPTA活動

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敗戦後にアメリカから導入された父母と先生の会(PTA)は、昭和三十・四十年代の高度経済成長期のはげしい社会変動のなかで多くの課題をかかえ、活動の本質を模索しつつ発展したが、児童の健全な育成をはかるPTA本来の姿を取りもどすための困難な歩みをつづけていた。

 高度経済成長期の日本では、経済優先の思想が先行する価値観のもとで、家庭生活が崩壊しはじめた。PTAも、時代に即応した新しい家庭像をもとめて学習を重ねていった。しかし、安定した親と子どもとの関係が失われて、子どもが居場所を見つけられない状況が生じ、非行化する子どもがふえつづけた。

 この非常事態にこそ地域の学校単位PTAの出番があったが、PTAの運営能力だけでは、とても対応しきれる状況にはなかった。

 PTA発足当初の昭和二十三年度決算(県内五四四PTA分)によれば、「施設設備を中心とした後援的活動の費用が七〇パーセントをしめ、PTAの本来的な教養活動費はわずか五パーセント」(『長野市PTA五十年の歩み』であった。学校・教師側にも援助依存体質があったことは否定できないが、当初から主体性の乏しいPTA活動として登場していた状況であった。長野市でも昭和二十八年(一九五三)「この年、PTA会費の学校援助・教員の研修補助に当てられている現状の改善が問題になる」とあり、「役員の独断決定、役員選出の方法改善などPTA組織の民主化の方向が問題」となっていた(『長野市PTA五十年の歩み』)。さらに県教委昭和三十年調査でも学校援助体質は引きつがれ、校舎施設補助などの学校補助費は二七八一万円で、四七・三パーセントをしめていた。この状況を示す長野市PTA連合会(以下、市P)の発足後一〇年を経過した昭和三十三年の活動状況はつぎのようである。

 市Pの組織には、①委員総会(前年度事業報告・決算・会則改正・役員改選ほか承認)、②正副会長幹事会(幹事・書記の選任、長野県PTA連合会代議員選出、市P研究集会の企画・推進、陳情・請願ほか)、③常任委員会(総会準備、本年度事業ほか協議、来年度事業・予算の検討)、④専門委員会(高校進学委員会のみ)の四委員会が設けられて、活動を展開していた。このなかで特記されることは、第一回長野市PTA研究集会が実施されたことである。会員同士が学ぶという、PTA本来のあり方を模索する事業であった。


写真121 昭和33年の『第1回長野市PTA研究集会研究記録集』

 研究集会は、三十三年九月の日曜日に城東小学校を会場に、六〇〇余人の参加者を得て開催された。一一の分科会の研究テーマはつぎのとおりであった。

①PTAの使命・組織運営、②学校施設、③PTAの教養、④校外指導、⑤学校給食、⑥家庭生活指導、⑦映画鑑賞、⑧道徳教育、⑨安全教育、⑩恵まれない子供の教育、⑪進学指導高校増設

 このうち、第二分科会の「学校施設」の研究内容は、「PTA会費の大半が施設等に使用される現状に鑑み、PTA活動をどのように考えたらよいか」(芹田小PTAレポート提出)ほか、不足する学校予算、施設の充実整備への協力などが協議されるなど、市Pでも、会費の大半が学校施設など援助費に支出されていた。このように、PTAがかかえている諸問題解決の道をもとめて、第一回研究集会が開催されたことは大きな活動の成果であった。しかし、集会記録によればプール・給食施設設置ほか、学校援助費の問題点は出されたが、「施設は何もかも市で持てというPTA活動も行き過ぎ」との助言者の発言がみられた。また同記録によれば、プールや給食施設費用の地元負担やむなしの考えが底流にかいまみられる分科会協議となっていたのである。

 市Pの組織運営は発足以来、市教育課(市教委)が主導してきていたが、三十年度になって初めて現職校長四人が幹事に加わった。三十二年度からは会則も改正されて女性副会長が生まれ、さらに幹事にはPTA側(女性)からも選出されるようになった。翌三十三年には、「十年以上も市役所内にあった事務所を現場の後町小学校に移し、幹事も教育長・学務課長にかわって新しく二人の女性と後町小教務主任が加わって九人となり、さらに、二人の専任書記も入って事務局の陣容がすっかりPTAらしくなって充実強化」された。同年に発足した市PTA研究集会の新設ともあいまって「本会が組織・運営・活動の面でようやくPTA本来の軌道に乗ったひとつの転機の年といえる。」(『長野市PTA五十年の歩み』)と高く評価している。しかし、学校援助費問題そのものは、前進しにくい状況がみられたのである。このように、父母が経済援助する側に立たされたのは、PTAの主導権が学校・教師側にあり、父母と対等の関係を構築することができない状況がつづいたことにもよっていた。

 昭和三十八年(一九六三)の『信毎』教育欄に、東大教授宮原誠一の「PTAの出なおし-新学年に考えたいこと-」が掲載された。そのなかで宮原は、あえてPTAは出なおしをやるべきだと述べている。その理由に「ここ数年PTAはだんだんよくない方向(形式主義化の方向)に向かっている」として、役員や委員だけのPTAになってしまい、かんじんの会員の活動がなされていないと指摘した。そして、このような形式主義化の横行の理由は、戦後一六年間もPTAをやってきながら「PTAの本質観が親にも教師にもほんとうにつかまれていないからである」と述べている。PTAが本質からそれた学校財政援助を断ちきることができないところに、「PTAをゆがめるきめて」があるときびしく指摘した。財政援助はやらないで、親と教師の日常的文化活動を主とすることにすれば、地元の有力者などに役員になってもらう必要もなく、「会長はじめ役員は母親に交代でなってもらうのがよい」とも言って、女性が表舞台に登場することに期待感を表していた。

 昭和四十二年七月、文部省から「父母と先生の会のあり方について」(社会教育審議会報告)が、都道府県教委へ送付された。そのなかで、通達の理由について、発足以来二〇年余も経過し、社会情勢もいちじるしく変化した今日において、「従前の学校後援会的な活動に重点をおかれていたあり方を改めて、児童生徒の健全な成長をはかるという本来の目的、性格をこの際明らかにする必要があるとの見地からなされた」と述べている。

 この直後に実施された昭和四十二年度第一〇回市P研究集会で、市長代理で祝辞にたった教育長花岡直一は、「学校のためにPTAが集める特別寄附金は、なるべく止めるようにしてほしい」と述べている。また、研究協議(一六分科会)後の全体会では二つの協議題が取りあげられたが、そのうち、第一協議題では、PTAの使命とありかたに関する件が取りあげられ、「長野市内のPTAにはまだ寄付推進団体的なところが少なくない。しかし、本来のPTA活動に立ちかえろうとする努力をしているつもりである。」と意見集約された。苦しい胸のうちを吐露した意見集約であった。なお、この集会に先だつ八月には全国PTA研究大会が長野市で開催され、市Pからは一〇〇〇余人という多数の会員が動員され参加している。


写真122 昭和42年8月長野市での『全国PTA研究大会要項』の表紙

 昭和四十七年度第一五回長野市PTA研究集会は、六八校一四〇〇余人が一〇分科会三〇分散会に参加して協議がおこなわれた。参加希望の多かった分科会は第三分科会「家庭教育はどのように進めたらよいか」で大分科会になったため、一二の会場に分散して研究協議が実施された。子どもの健全育成が叫ばれる時代のなかで、子どもが見えなくなってきていた父母が、ようやく子どもをめぐる家庭教育に深い関心を示した結果であった。