市民プールとグラウンドなどの建設

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昭和二十九年(一九五四)、長野市のスポーツ施設増強策としておこなわれた岡田町市民プール改装工事がほぼ終わり、全日本水泳連盟の公認がおりることになった。さらに、高さ一〇メートル三段式・三メートル二段式の飛びこみ台も完成した。一日平均四〇〇〇~五〇〇〇人、最盛期には一万人も利用し、市内には吉田小学校にプールがあったが、約三万人の小・中学生は、この市民プールを利用するしかなかったため、市民プール増設の声は高まるばかりであった。それを受けて市民プールの設備投資もすすみ、三十一年には夜間照明がついた。小・中学生の入場料金が二円上がり五円となったのは三十二年で、同年七月二十日の長野市三〇周年記念行事の模範水泳会では、県下で初めてシンクロナイズドスイミング(水中舞踏)が紹介されている。

 三十三年八月三日、小学四年生が市民プールで水死するという事故がおき、長野市は事故一掃のため、監視員をふやし、三〇分おきに休憩の注意放送をするなどの対策を講じた。衛生上の問題点も指摘され、汚れ放題の水を解消するため、三十六年七月には循環浄化装置がつけられて、水温も一定するようになった。

 四十五年、市民プール移転新設が決定された。城山公園と東和田県営野球場わき(のちに競技用プールとして、五十年六月十五日オープン)が候補地となったが、四十六年六月十三日、城山にレクリエーション用の市民プールがオープンした(写真123)。移転の理由は、①国道一八号線の騒音による山王小学校改築にともなう岡田町市民プール位置へのグラウンド移転の必要性、②市民プールの混雑と不衛生、③休日に大会が多く一般市民がプールを使えないなどであった。四十七年には子ども用プールも完成し、女性水泳教室も盛況であった。


写真123 昭和46年6月城山に新しい市民プールがオープン

 身体障害者専用プールも四十五年五月、県身体障害者福祉センター(下駒沢)に完成し、「機能回復訓練用水槽」として活用された。四十七年、篠ノ井の茶臼山市民プール(四十八年七月十五日完成)の建設が決まり、室内プールも上松の郵便貯金会館と高田(のちにスイミングクラブ開設)に登場する。

 市民プールの不足を補ったのは、相ついで建設された学校プールである。三十一年九月には全日本水泳連盟公認プールが長野商業高校に完成した。小・中学校では、長野市が工事費の三分の一(五〇万円程度)を補助し、残りはPTAの負担ではあったが、三十一年の若槻・大豆島・古里各小学校に始まり、つぎつぎとプールが建設された。三十七年には市内小・中学校三二校中、二七校におよび、長野市は全国でもプール普及率がトップクラスであった。三十九年八月、山王小学校を除けば最後になる小田切小・中学校で、待望のプール開きがおこなわれた。市は四十六年から二年計画(実際には五十四年までかかっている)で、公立全保育園にもプール建設することを決め、私立にも八割の補助を出すことを決定している。

 人気が復活した高校野球で気をはいたのは、長野北高校(現長野高校)である。二十八年五月の北信越高校野球県大会では、県下四地区代表が戦ったが、長野北高校は飯田長姫高校に完敗した。その飯田長姫高校が、翌二十九年春の選抜高校野球大会で全国制覇し、戦後の高校野球熱はピークに達した。

 三十三年信越大会が廃止され、長野県は単独の予選地区となった。長野高校は三十七年、長野県の代表として第四四回全国高校野球選手権大会出場校となった。広岡信三監督の精神野球三訓(大きな仕事・大きな苦労・大きな心)を掲げ、大正十年(一九二一)以来四二年ぶり二度目の出場を成しとげたが、慶応高校に〇対三で敗れた。


写真124 甲子園球場で入場する長野高校野球部選手

 中学校の野球は、長野市中学校球技大会を中心に盛んになり、野球以外にバレーボール・庭球・バスケットボールもおこなわれた。三十七年八月五日、松本県営運動場で開かれた第一回長野県中学校総合体育大会では、軟式野球・軟式庭球・陸上・バレーボール・バスケットボール・サッカー・相撲が実施され、野球は川端中学校が優勝している。


写真125 昭和46年の市中学校球技大会

 小学生の健全育成、少年野球の底辺拡大を目的に、長野市教育委員会主催の長野市少年野球大会(軟式野球)が開かれ、四十二年十月の体育の日におこなわれた第一回大会には一〇チームが参加したが、年々参加チームが増加し、四十六年の夏休みの大会では八三チームが参加している。硬式野球のリトルリーグの組織も、四十五年ころ長野市にできた。満九~一二歳の少年を対象に、①野球を正しく指導し、②広く交歓の場を与え、③個人の体位向上と、④団体生活における協同の精神を養成し、心身ともに健康な少年を養成することを目的としていた。

 青年野球発展の原動力になっていくのが、早起き野球の広がりである。三十九年、長野市の五チームでスタートした早起き野球は年々参加チームが増加し、四十四年八月三十一日からの第一回長野市早起き野球大会では、一六四チームが参加している。なかには、朝鮮・韓国人だけのペクトウサン(白頭山)というチームもあった。同年十一月二十三日に「長野県早起き野球連盟」が結成され、①社会に働く青少年の教養を高め、②体育向上、③相互の親睦をはかることを目的としていた。

 四十五年、早起き野球の規約改正がおこなわれ、①プロ・ノンプロは引退後一年以上、一チーム二人以内、投手・捕手不可、②高校野球経験者は投手不可などが決められ、優勝候補がふえる結果となった。同年春の大会では一七七チームが参加し、レジャーと健康の時代に大流行していく。若者の夜あそびや金づかいが減って親に喜ばれたり、新聞・テレビに報道され会社の宣伝になるといわれるようになった。同年秋には第一回長野県早起き野球大会が長野市でおこなわれ、聚楽(長野市)が優勝した。四十六年春には、初の女性チーム「ウーマンリブ」も登場し、翌年秋の第一七回長野市早起き野球大会では、参加チームが二八六にふくれあがっている。

 野球の広まりを後おししたのが、球場やグラウンドの建設である。長野市に二つの球場をという市民の夢が実現し、四十一年五月一日、東和田に三万人収容の県営野球場が(一部工事を残して)ほぼ完成し、一般に開放され、十月には竣工した。この球場は城山の市営球場とともに、野球のメッカとなっていく。市は四十四年春には、篠ノ井橋下に篠ノ井総合グラウンド、屋島橋わきに屋島グラウンドをつくり、四十六年五月には丹波島橋上流河川敷に犀川運動場を完成した。さらに、犀川下流左岸に、四十七年六月少年野球場・運動広場を開き、長野大橋までの間に、五十一年完成を目指し、野球・サッカーなどもできる緑地公園の計画をすすめた。四十七年には、地すべり後の茶臼山一帯をレジャー地にすることが決まり、グラウンド以外にもプール、テニス・バレーコート、動物園・植物園がつくられることになった。


写真126 犀川河川敷グラウンドが整備され少年野球などに利用される

 城山の市営テニスコートでは、三十年代に入ると、平日の昼間に休憩時間をつかって、近所で働く女性や家庭の主婦らがテニスを楽しむ姿がみられるようになる。婦人たちのテニスブームがすすむなか、四十六年七月には水銀灯五基が備えられ、夜八時まで使えるようになった。同年十月、長野市の女性テニス教室同窓会を中心に、長野女性テニスクラブが発足している。

 陸上では、各地区で駅伝が盛んになった。三十年代前半にかけて、長野市だけでなく、上水内・更級・埴科・上高井各郡などでも駅伝大会が開かれ、三十二年四月二十一日の市制六〇周年記念駅伝では、芹田チームが優勝している。三十三年四月二十日には、信濃毎日新聞社本社前から戸倉駅折りかえしコースで第一回信毎マラソンがおこなわれ、陸上選手の底辺拡大に大きな役割を果たした。県下縦断駅伝大会も盛んであったが、三十八年には篠ノ井・更級四位・上水内六位、長野市九位となっている。長野市は他地区に遅れをとっており、五十八年の初優勝までは苦難の道がつづいた。

 陸上競技の大会も盛んになったが、長野商業高校・長野西高校が活躍した高校の大会も、市の陸上競技場がないため、長野高校や長野商業高校の校庭が利用されている。そこで、長野市は三十五年十月、県に陸上競技場中心に県営総合運動場建設を請願し、四十一年五月に県営野球場が完成した。さらに高校総体に間に合わせるよう五十一年四月には市営総合運動場が(一部未完成を残して)実現した。

 青少年の健全育成を目的に、さまざまなスポーツ教室・スポーツ少年団等が各地で盛んになった。長野市教育委員会は三十四年七月、①スポーツレクリエーション、②水泳、③野球、④母親巡回スポーツ、⑤勤労青少年スポーツの各教室を開催し、スポーツに力を入れた。三十九年十月三・四日東京五輪聖火が長野市を通過し、この年、市内で初めて、南千歳町のスポーツ少年団が開設され、四十三年五月には、市の第一回少年スポーツスクールが開かれている。

 復活のきざしがみえた柔道では、二十九年九月の第四回県下四地区対抗柔道大会で、講道館三船久蔵十段が「空気投げ」等の幻の形を実演している。長野柔道クラブの少年たちも、長野警察署道場で稽古(けいこ)をしていたが、三十六年旧武徳殿(長門町)が県警柔剣道場として復活してからは、ここが少年柔道教室の中心となった。柔道は三十七年中学校、三十八年高校の体育正課となって活気づき、四十一年十月に設立された個人柔道場養心館(箱清水)は、全国大会へも出場するようになった。

 剣道も各地区で盛んになり、四十年十月には松代署で松代少年剣道部が誕生し、四十二年結成された権堂町少年剣道部は、秋葉神社で権堂親善剣道大会を開催している。長野市少年剣道教室から生まれた、長野剣道スポーツ少年団も盛況であった。

 少年サッカースクールも四十四年に開設されており、会員がふえていくなか、四十七年六月城山小学校で第二回県少年サッカー父歓会が開かれ、七少年サッカースクール六七〇人余が参加している。

 町のスポーツ教室も活発になり、三十五年、川中島公民館では、バレー・野球教室等のスポーツによる町づくりに取りくみ、三十七年には、一三動作二分四〇秒の町民体操を朝・夕おこなうようになった。ラジオ体操も各地区で実践され、三十二年には西長野子ども育成会が、全国ラジオ体操優良団体として表彰されている。また、ファミリースポーツとして期待された自転車の人気がでてきたため、四十四年六月十日から十月七日にかけて、篠ノ井橋・村山橋間二〇キロメートルで千曲川サイクリングコースがつくられている。

 四十六年国体開催を目指し、長野市教育委員会は体育課を新設した。社会教育課(少年サッカー)、青少年室(少年柔剣道)、市長直轄(早起き野球)などの窓口一本化をはかるためである。

 四十六年六月十一日、市民待望の長野市民体育館が真島町に完成した。県下最大規模で、左右両面ガラス張りの天然採光を採用している。記念の招待バレー日立武蔵対全鐘紡や、長野市春のママさんバレーボール大会の決勝がおこなわれ、カネボウチーム(若里)が優勝した。ママさんバレーの人気は高く、四十七年七月二十一日には、「長野市ママさんバレーボール連盟」が発足した。


写真127 昭和46年真島地区に当時県内最大の市民体育館がオープン


写真128 昭和46年5月、犀川河川敷でのママさんバレー大会

 市民体育館でおこなわれた婦人スポーツ教室は、数あるスポーツ教室のなかでもっとも盛んであり、四十七年ころにはバレーボールや卓球などがおこなわれている。定員の倍以上の人気で、三〇~四〇代中心に女性スポーツが盛んになっていく。四十八年には巡回スポーツ教室・ママさんバレー教室・勤労者スポーツ教室が新たに設けられ、底辺拡大の役割をになっていた。