スキー場の開設と市民体育祭のはじまり

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長野市のスキー愛好の若者や学生は、すでに戦前から飯綱高原大座法師池南側の入坂(にうざか)(仁王坂)付近一帯のスロープを利用して楽しんでおり、戦後数年間もその状態がつづいていたが、しだいにスキー愛好者がふえたり、また市民行楽や観光の面からもスキー場の設置が望まれてきた。

 昭和二十三年(一九四八)一月に長野市公民館が、つづいて同年十月に市教育委員会がスタートすると、社会教育の一環として市民の体育事業がすすめられるようになった。その一つとして二十四年十月末日から十一月三日文化の日にかけて、市体育協会と公民館が主催の、第三回(第一・二回の詳細は不明)長野市体育祭がおこなわれるようになった。体育祭は各支所対抗で、種目は野球・庭球・卓球・籠球・排球・陸上・水上などであった。開会式を市営球場で済ませ、あと種目別に必要な会場に分かれておこなう方法であった。二十五年には体操・遊戯が加わり、二十七年にはバドミントン(羽球)・柔道・剣道・弓道も加えられた。

 スキーは、二十六年一月から二月にかけて市体育協会と公民館が主催で、初めての市民参加の講習会が、入坂および西沢スキー場でおこなわれた。翌二十七年二月には市民スキー大会と銘うって飯綱(入坂)で開催された。当日参加は一二〇人で、種目は一般男子回転・同長距離・少年回転・同長距離・女子回転・リレーなどであった。二十八年第三回大会には参加制限が決められ、国民体育大会スキー予選および県スキー大会出場選手は認めない、また、少年組は新制中学校の者、一般男子は新制高等学校以上、女子は女子一般などとされた。これらはいずれも市民全般のスキー愛好者の広がりによるものであった。二十八年十一月の第七回市民体育祭では、市民から募集した体育祭参加記念バッジがつくられた。

 二十九年四月飯綱高原一帯を地籍にもつ芋井村が長野市に編入合併すると、にわかに飯綱高原全般の観光開発がすすむようになった。三十一年開設の飯綱(入坂)スキー場(写真129)のスキーハウス(約三〇坪、ストーブ二基)もその一つであり、さらに、三十一年には市と川中島自動車会社との協力で、飯綱高原バス道路(門沢口から大座法師池まで)の建設がすすめられた。これは単にスキーだけでなく、飯綱高原開発のもとになるものでもあった。これにより市は同年七月大座法師池の周囲に市営テント村の開設もしている。ときあたかも同年飯綱高原と戸隠高原が上信越国立公園に編入となり、観光開発やスポーツ施設の開設に拍車がかけられることとなった。こうして、三十一年の飯綱高原の行楽客は春季約一万人、夏季約二万人、秋季約二万人と推定され記録的な行楽数となった。


写真129 入坂に完成したスキー小屋と冬の飯縄山 (『長野市報』昭和31年2月15日より)

 これまで市民体育祭と市民スキー大会は、初期の開催年度のちがいから、その回数の呼称にちがいがあったが三十二年度からは市民体育祭にそろえて呼ぶことになった。三十三年二月第一二回市民体育祭スキー大会には小学生の部も加えられ、そのためか家族連れも目だち、また、一般市民約五〇〇人が集まり市外からの女性のスキーヤーもみられるようになった。三十七年スキー大会は主催が市教育委員会と市体育協会で、市スキー連盟主管、後援が長野観光協会・川中島自動車(株)となり、組織の広がりがみられる。そして競技規約には全日本スキー連盟規約が準用されることになった。

 同年一月飯綱とは別に、大峰・地附山観光開発の一つとして長野国際観光会社による二ヵ所の地附山スキー場が開設された。第一スキー場はスロープの長さ三〇〇メートル(中級)、物見岩近くの第二スキー場は一二〇メートル(初級)で、いずれも市街からもっとも近いスキー場として日曜・休日には家族連れなど一〇〇〇人以上でにぎわった。

 三十九年(一九六四)東京オリンピック大会が開催され、二年後の四十一年には十月十日が「体育の日」と制定されると、夏季市民体育祭は多く体育の日を中心におこなわれるようになった。

 四十年六月、飯綱観光開発の一環として、入坂スキー場を飯綱鉱泉近くに移して新飯綱スキー場とし、さらに、スキーリフト一基と、スキーセンター(二階建て二三七平方メートル)を総事業費約三〇〇〇万円で設備する工事が着工された。工事は、冬のシーズンに間にあわせるよう十二月二十七日に竣工した。コースは初級から上級までの四コースが整備され、当時は市街地に近く絶好のスキー場として喜ばれた。四十一年二月十三日には新飯綱スキー場の開設を記念して、第二〇回市民体育祭スキー競技大会が開かれた。当時はフランスから来日中のジャニーヌ・モンテラ選手を招いて模範滑走をするなど、もりだくさんの行事がおこなわれた。

 また、四十一年十月の長野市大合併により、松代は長野市と合併したが、同町には地蔵峠北向き斜面に、古くから初級・中級者むきの「地蔵峠スキー場」があった。同峠には宿泊もできる市営の地蔵峠山の家もあり、毎年一般スキーヤーのほか、恒例の北信アルペンスキー大会や少年スキー大会などがおこなわれた(写真130)。


写真130 昭和40年地蔵峠スキー場での北信少年スキー大会

 飯綱スキー場は、その後四十二年十二月までには第二スキーリフトが作られたり、滑走コースも四コースとなり、さらに、スキー場周辺の駐車場や休養施設などが設置された。こうして飯綱スキー場ではこのころから市内小中学校でもスキー教室が開かれるなど、長野市民の冬季スポーツ場として大きく発展した。

 いっぽう、この新飯綱スキー場とともに、同年飯綱高原一の倉池を改修して「飯綱湖スケート場」が開設された。四十一年二月二十日には、市民スケート競技大会が同スケート場でおこなわれた。種目は一般男子一周・同三周、同一〇周、同リレー、壮年男子三周、高校男子一周・同五周、高校女子一周・同三周、中学生男子三周・同女子一周などの種目をはじめ、パン食い競争、ミカン拾いなどレクリエーション競技などであった。

 四十一年十月二十二日には、長野市内川合新田に近代的な屋内スケート場(スケートセンター)が完成オープンした(写真131)。これは前川製作所(東京の産業用冷凍装置会社)の子会社が運営するもので、人工的に滑走可能な氷上リンクがつくられ、当時としては画期的なものであった。一周三三三メートルの外周リンクと一八〇〇平方メートルの平面リンクがあった。オープン当初は年間約三〇万人の利用者があった。この施設は市内小中学校から一般市民まで広く利用され、レジャーだけでなくスケート競技に弱いとされていた長野市民の競技スケートの向上にも寄与することとなった。


写真131 川合新田地籍に造られた屋内スケー卜場

 しかし、その後レジャーの多様化などがすすみ、年々利用者が減り、平成年代に入ると利用者数は五分の一に落ちこんだ。加えて長野冬季オリンピックの招致が決まると、さらに大きく整った施設が必要となり、エムウェーブの設置とともに、平成十年(一九九八)三月川合新田スケートセンターは閉じることになった。

 エムウェーブの設置管理は、長野市と協賛企業による第三セクターであるが、前川製作所は川合新田スケートセンターでの製氷・冷却装置をそのまま移して運営に当たることになった。