信濃美術館の建設と文化団体の活動

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信濃美術館は、信越放送(SBC)の会社創立一五周年記念事業として計画され、昭和三十七年(一九六二)七月に、重役会において美術館建設の企画案が決定されている。翌年一月十四日に「信濃美術博物館建設委員会」が発足した。委員会の出席メンバーは、西沢権一郎(長野県知事)・藤巻幸造(県教育委員会教育委員長)・土屋芳郎(県市長会事務局長)・宮原栄吉(県町村会会長)・小坂武雄(信濃毎日新聞社社長)・松井一郎(朝日新聞社長野支局長)・山田邦夫(信越放送専務取締役)の七団体代表者であった。そして同日には、施設の敷地として城山公園の旧日米文化センター・テニスコート跡地の土地提供を長野市に申しいれている。

 これに先だち、三十七年九月の定例長野市議会において、信濃美術館への土地提供をめぐって、議会が紛糾する事態がおきている。『信毎』の報道によると、北沢真佐志議員が「議会になんの相談もない」と倉島市長をきびしく追及し、急遽(きゅうきょ)信越放送の山田専務の出席をもとめ事情を聞くなどしたが、議会軽視だとして市長を徹底的に追及した。さらに「信越放送の配布した建設趣意書には、『敷地は長野市から城山公園内の土地を提供してもらうことになっている』とあり、市長も信越放送の重役として取締役会に出席していたのだからどんな発言をしたのか」などと、追及の手をゆるめなかった。倉島市長の答弁は、「SBCの構想で、SBCの発表だ。市とは関係ない。いずれ成案ができれば市会に相談しなければならないと思っている」というものであった。最終的には、議会側も土地提供を了承している。

 三十九年六月十六日には財団法人信濃美術館建設委員会を発足させ、長野県・長野県教育委員会・県市長会・県町村長会・信濃毎日新聞社・信越放送株式会社・朝日新聞社の七団体で建設委員会を構成した。さらに、翌年三月四日には財団法人信濃美術館設立発起人会を開き、財団法人信濃美術館設立の決定と四十年六月工事着工・四十一年五月竣工・四十一年十月開館というタイムスケジュールを策定した。

 工事着工は四十年八月にずれこんだが、竣工は予定どおりで、のべ床面積一八二六平方メートル・鉄筋和風三階建ての立派な建物が完成した。四十一年十月一日に開館し、「郷土作家とその系譜」・「信州を描いた風景画の秀作」・「信仰から生まれた美術」等を美術館の主要な展示方針として、展覧会事業を開始した。開館に合わせて「洋画百年史展」が開かれ、川上冬崖・中村不折・石井柏亭・小山敬三・黒田清輝・中川紀元・荻原碌山らの作品が展示された。

 当初は、一階に事務室と収蔵庫、入り口の右側に一階展示室、左側がホール、二階は展示室と喫茶室、三階は講堂だけであった。建設費の一部と運営費で約三〇〇〇万円の赤字が生じたこともあって、四十四年三月三十一日に長野県信濃美術館条令(条令三二号)が制定され、長野県信濃美術館協議会が設置されている。それにより六月一日、財団法人から長野県立に移管された。同年十二月増築工事が計画され、翌年十月に増築工事が完成した(写真132)。開館時には、「四仏四獣鏡」や刀剣類・県内各地の遺跡からの出土品などのほかには収蔵品がほとんどなかったが、しだいに寄託作品や寄贈作品をふやしていき、五十一年からは作品購入もおこなっている。


写真132 城山公園の信濃美術館

 また、財団法人驥山(きざん)館(篠ノ井市布施高田)や財団法人北野美術館(若穂綿内)が、前後して開館している。驥山館は、書家の川村驥山が太平洋戦争末期の昭和二十年に篠ノ井に疎開しそのまま永住したことが縁となって、篠ノ井商工会議所会頭ら地元の有志が設立準備会をつくった。川村驥山宅に隣接する篠ノ井市の市有地を払いさげてもらい、三十七年五月に開館し驥山の作品や使用した品物・書道研究の資料などを展示している。

 北野美術館は、四十二年十一月に設立され翌年開館した。北野建設の創立者北野吉登が収集した収蔵品を展示したもので、当初鉄筋コンクリート一階建て七三〇平方メートルの建物であったが、その後増改築されている。前田寛治の淡谷のり子(歌手)をモデルに描いた「裸婦」や、横山大観・菱田春草・ルノワール・岸田劉生などの話題作が数多く展示されている。


写真133 若穂に開館した北野美術館

 いっぽう、民間の文化団体の活動として、うたごえ会や短歌会・俳句会・アマチュア劇団・合唱団などの活動、各種展覧会や作品展がおこなわれている。

 うたごえ会は、三十年代に「信濃のうたごえ祭典」に合わせ、各地の職場・官公庁の労働組合や農村・婦人会などを中心に各地で広がりをみせている。市内では、全逓長野貯金局支部・国鉄長野工場などが中心になって活動している。更北村や篠ノ井町西寺尾村では青年たちが集まり「更北うたごえ」を開催したりしている。また、短歌・俳句などの文学同人会の活動も活発におこなわれていた。短歌会では原型歌人会(東鶴賀)・比牟呂社(妻科)など、俳句会や川柳会では光燿俳句会(善光寺常行院内)・あし火俳句会(松代町)、川柳美すゞ吟社(権堂)・国鉄長野川柳社などがあった。このほか、小説・戯曲として長野ペンクラブ(吉田)や中央文団(箱清水)などもあった。いずれも同人雑誌を発行していたが、資金面で大きな困難をかかえていた。

 アマチュア合唱団や劇団の活動も知られる。四十年代には、アマチュアの混声合唱団が「長野市にふさわしい出し物」ということで親鸞をテーマにしてオペラを公演したり、アマチュア劇団が創作劇の公演を毎年おこなったりもしている。また、若槻団地・伊勢宮団地・若穂団地・柳町団地・犀北団地などの若い母親たちによる人形劇団の活動もおこなわれ、団地間の交流がはかられている。

 松代地区では、地区内の文化グループ一六団体(表40)で構成している松代文化協議会による松代文化芸術祭、松代マンドリンクラブ演奏会、松代音楽祭、松代市民劇場による公演、松代美術協会の絵画、松代留影会の写真、松代美術展など、多種多彩な催しが開催されていた。松代美術展は、昭和七年以降太平洋戦争中を除いて毎年開かれているもので、二科展入選の会員の作品が展示されるなどレベルの高いものであった。この美術展には、趣味の盆栽会や新松代焼陶友会などが特別に参加することもあった。


表40 松代地区の文化団体 (昭和48年)