テレビ放送と東京オリンピック

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日本放送協会(NHK)が独占していた放送電波が、放送法・電波法(二十六年六月一日施行)によって民間に開放されると、昭和二十六年(一九五一)十月十八日に信濃放送(SBC・翌年四月信越放送と改称)はラジオの予備免許下付を得て、局舎建設・放送設備設置を突貫工事ですすめた。ラジオの本放送をめざすいっぽうで、テレビ放送にも強い意欲を示し、設立趣旨目的のなかにFM放送の実施・ファクシミリ放送の実施・テレビジョン放送の実施をかかげていた。翌年三月二十五日、全国八番目の民法として本放送を開始した。

 その後、二十八年二月一日NHK東京放送局がテレビ放送を開始し、同年八月二十八日には日本テレビ放送網(NTV)が、わが国初の民放によるテレビ放送を実現させた。しかし、長野県におけるテレビ放送はなかなか実現できなかった。テレビ受像機の生産は放送実施に関する政府方針の決定が遅れたこともあってほとんどすすまず、生産量はたいへん少なくかつ高価なものであったため、一般家庭での購入はとうてい望めないものであった。さらに、長野県内では東京からの電波はごく一部の地域しか受信することができなかった。長野市内でも東京からの電波は高い山々にさえぎられてしまい、菅平・四阿山(あずまやさん)をかすめてくる電波を湯谷方面でかろうじて受信できるだけであった。二十九年三月末の全国テレビ受像機普及状況は表41のとおりで、長野県内には一台もなかった。翌三十年三月には、長野県内では五一台との記録が残されており、以降しだいに増加しNHK・SBCの放送開始後は急増している(表42)。


表41 テレビ受像機普及状況


表42 長野県内のテレビ普及状況

 長野県でのテレビ放送は、三十二年五月三十日のNHK長野テレビジョン中継放送所(善光寺サテライト局)の実験放送がその始まりであった。NHK東京放送局からの電波を長野で受信し、増幅のうえ波長をかえて善光寺平一帯に発信するもので、「サテライト局」といわれる全国初の試みでもあった。九月一日には早くも本放送を開始している。当初、実験放送の開始は四月一日とされていたが、郵政省の許可がおりず、五月十日の『信毎』には「善光寺平のテレビ放送足踏み、業者はあせり気味」という記事がある。「一番こまっているのは、これを機に一もうけしようというわけで山林やリンゴ畑などを売って開店した〝にわか業者〟で、許可がおりるのを首を長くして待っている」という、テレビの大量販売を見こんで新規に開店した電器店の苦悩を伝える内容であった。しかし、実験放送から約半月後の六月十七日の『信毎』には、「ざっと二・三百台売る」の見出しもみえている。さらにこの年十一月のえびす講では、テレビが福引きの景品として登場している。

 SBCは三十二年十月十二日に予備免許の下付を受けたが、免許の取得にあたって信濃放送(本社松本市筑摩)との競願問題がおきている。二十八年六月にテレビ放送の申請をおこない、三十一年十一月にはNHKとSBCとでテレビ電波発射塔を美ケ原に建設することに合意し、着々と準備をすすめていた矢先突如として信濃放送がテレビ放送の申請をおこない免許下付をあらそうこととなった。両者間で話しあいをもち「できるだけ三十三年二月末までに解決するように」というのが、郵政大臣が示した予備免許下付の条件であった。主たる問題は資本の構成と役員の構成であったが、話しあいはなかなかすすまず、林虎雄長野県知事に仲介を依頼した。結局二月二十七日、信濃放送側の申請取りさげで決着をみている。


写真134 城山のNHK(平成9年、若里に移転)

 十月二十五日ついに試験放送が開始され、十一月十五日には本放送が開始されている。これにより、県内をはじめとして新潟県や山梨県の一部地域でも視聴が可能となった。

 テレビの普及にともない山間部にもテレビを所有する家がふえてきた。しかし、周囲を山で囲まれた土地では鮮明な画像をみることができなかった。松代町豊栄地区では、三十五年秋ころから皆神山山頂に共同アンテナを建てようという動きがおこり、翌三十六年NHKとの共同施設として助成金を受け、一三〇人余りの会員を募って皆神テレビ共同聴視組合を設立した。工事着工からかなりの時間がかかったが、同年十二月十六日に完成祝賀会をおこなっている。また、同じ豊栄地区の赤柴・関屋地区でも同様の動きが早くからあり、テレビ塔を赤柴の裏山に建てることとし三十五年大晦日に完成させている。

 三十八年(一九六三)十二月十六日にはNHK長野放送局がカラー放送を開始し、翌年十月一日にはSBCもカラーの本放送を開始した。これは、この年に開催される東京オリンピックの開幕に間にあわせるためでもあった。

 三十九年十月十日に開幕した東京オリンピックは、アジアで初の〝世紀の祭典〟といわれ全国民が競技に熱狂した。開催に先だち、県では一月下旬オリンピック国民運動長野県推進協議会を結成し、二月から実際に運動をすすめた。その内容は、オリンピックへの理解・国際理解への推進など六項目をあげ、とくに聖火リレーの沿道を花でうめることをうたっていた。

 十月三日、新潟県から聖火を引きつぐとこの日の終着点の県庁では、約四〇〇〇人が出むかえ提灯(ちょうちん)行列で祝った。翌四日の午後三時から、「聖火を迎える長野市民のつどい」が城山公園市営球場で開かれた。長野駅前から市内の中高生のブラスバンド・鼓笛隊・ボーイスカウトの聖火パレードがおこなわれているいっぽうで、会場の市営球場では小中高生のマスゲームや市内合唱団の大合唱・市婦人会員の五輪音頭踊りなどがおこなわれ、約八五〇〇人が聖火の到着を祝った。聖火は、大町・松本・塩尻・諏訪を経て山梨県に渡された。また、馬術競技のおこなわれた軽井沢町への聖火の分火は、東京の国立競技場からヘリコプターで川中島中学校校庭へ運ばれてリレーを開始し、十月十五日に馬術競技場の聖火台に点火された。

 東京オリンピックを機に、テレビ授業を前面にうちだした学校があった。後町小学校では、オリンピック期間中に特別時間を組み一日一・二種目、全部で一〇時間前後をみせた。また、三輪小学校では、オリンピックを児童にみせるため地元寄付によってテレビを備えようとするPTAの計画があがった。ともに、教育とテレビ視聴との関連が大きな議論となった。


写真135 SBCテレビ学校放送のちらし

 四十三年十二月二十日には、長野放送(NBS)がサービス放送を開始した。県内二番目の民間放送局開局の動きは三十七年ころからあったが、県内外の八社が競願する状態になっていた。八社の競願では免許の交付は見おくられると判断した西沢権一郎長野県知事は、八社の一本化に乗りだした。県内三社と県外五社にたいし一本化の斡旋案を示し、おおむねの同意を得ることができた。四十二年十月二十一日「株式会社長野放送」として信越電波管理局を通じて郵政大臣に免許申請をおこない、十一月一日に予備免許が交付された。


写真136 昭和43年2番目の民間放送として長野放送局(NBS)開局