地区の文化活動と野外劇場・映画館

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戦後、人々の生活のなかにしだいにゆとりが生まれるようになってくると、各地区での文化活動や体育的行事が、公民館活動などの一環としておこなわれるようになった。

 安茂里地区の「花のパレット祭り」は、昭和二十二年(一九四七)に始まった。前年に復員した鶴見隆行が、故郷のアンズの花を見て「すさんだ世相に潤いのある社会をつくりたい」という願いから、美術会の仲間と計画した。第一回の「花のパレット祭り」は安茂里小学校で開催され、信州美術会会長石井伯亭ら多くの画家が招かれるなどして盛大であった。年を重ねるごとに内容が充実していき、長野観光協会・北信美術会・信濃毎日新聞社・信越放送(SBC)の共催や後援へと広がっていったが、平成四年(一九九二)三月には、発足当初の目的が達成されたこと、四五回という節目の年を迎えたことなどの理由により、この祭典も幕を閉じることとなった。

 松代町では、昭和二十八年十一月三日から八日間の日程で「信州文化祭」が開かれた。松代町住民の総力をあげ、文武学校百年祭・象山先生九十年祭・松代文化資料展・通信文化展・信州蚕糸展など、多彩な催し物がくり広げられた。三十六年十一月には、松代開府四百年祭が日本電信発祥遺跡公園落成式とともにおこなわれた。記念講演講師として、作家海音寺潮五郎が招かれている。三十九年十一月には、象山先生百年祭がおこなわれ、「省諐録(せいけんろく)」の碑の除幕式や遺墨遺品展覧会などが催された。記念講演講師として東大教授丸山真男が招かれ、「日本思想史における佐久間象山」と題して講演をおこなった。


写真137 松代町に残る旧文武学校

 また、体育的行事として町民運動会がさかんにおこなわれるようになった。

 西長野地区の町民運動会は、二十五年に始まった。運動会を通じて町民の融和と連帯感を盛りあげよう、子どもからおとなまでが楽しく参加できるようにと、町会が主催し企画運営している。三十六年から一時中断していたが、五十一年には復活した。復活一年目の大運動会は晴天に恵まれ、出場人員はのベ一五〇〇人に達し、町民対話と親睦の目的はおおいに達成された。新築された公民館での慰労懇親会も大盛況であったという。七瀬地区では、年齢別リレーや男女別リレーなどの得点種目のほかに、花笠音頭・相州甚句の民謡踊り・鶴寿会(老人会)と来賓による太公望・全員参加の綱引き・抽選会などがあった。さらに、各分会の運動会参加者率をも得点に加えるというユニークな採点方法もおこなわれていた。長門町でも町内の親睦と慰安の目的で運動会が催され、酒盛り競争・けつ圧測定・お先に失礼などの盛りだくさんの愉快な競技種目と多数の賞品とで、町民一同が楽しい一日を過ごした。

 しかし、三十九年の東京オリンピックを機に盛りあがりをみせた各地区の運動会であったが、しだいに規模を縮小したり中止したりする地区がふえてきている。

 城山の長野市野球場北(現テニスコート付近)にあった野外劇場は、市民納涼大会や各種イベントなどに利用された。三十年には、善光寺開帳に合わせ長野商工会議所主催による「仏都商工祭」がおこなわれ、野外劇場では信越放送三周年記念の「信越民謡競演大会」などが開かれた(写真138)。三十二年八月一日からおこなわれた納涼大会では、納涼素人天狗大会・たばこクイズ・郵便局演芸の夕などの数々の催し物がステージいっぱいにくり広げられた。この期間中、桜並木から会場入り口まで約一〇〇灯のぼんぼりがつけられたりライトアップがされたりして、納涼大会を盛りあげた。市婦人会・長野専売局・大豆島甚句保存会をはじめ、市内の金融機関や放送局・交通各社も参加して一ステージを受けもった。また、三十五年の市民納涼大会では、素人のど自慢コンクール民謡の部優勝者大会もおこなわれ、連夜一〇〇〇人から二〇〇〇人の観衆を集めてにぎやかに催された。三十六年、長野産業文化博覧会の開催にともない野外劇場周辺は第二会場として利用された。


写真138 昭和30年城山野外劇場での信越民謡競演大会

 長野市内の映画館は、『長野商工要覧』(昭和三十年・長野商工会議所発行)掲載の特定商工業者名簿によると、裾花映画劇場・中央映画劇場・長野活動館・長野東映商工会館・長野映画興業(相生座)・七瀬映画劇場の六館があった。さらに、長野市街図には、千石劇場・千石小劇場・演芸館・長野映画劇場・東映劇場が載っている(図14)。このほか吉田に一館があり、また、篠ノ井町・松代町にも各一館があった。その後もしだいにふえていき、三十二年には一五館になっている。当時の映画館経営は、ふつう「二万人に一館」が限度とされていたが、長野市は一五万人に一五館をかかえ「一万人に一館」という飽和状態になっていた。


図14 市内の映画館図 (『長野商工要覧』により作成)


写真139 権堂の相生座(もと千歳座)映画館

 三十三年には、さらに一館が開館した。東映株式会社直営の封切館で、映画愛好者には冷暖房完備の高級施設で封切映画を見せるということで歓迎されたいっぽうで、同業者からは「経営不振の映画館も二・三館あって、これ以上映画館がふえることは経営面から非常に困る(『信毎』)」との意見がだされていた。

 三十六年には、映画観客数は前年の三割減となった。テレビの普及に加えて屋外でのレジャーを楽しむ人がふえ、若者たちが映画にあまり興味を示さなくなったためと言われており、大衆娯楽としての映画もかげりをみせるようになった。映画館では、大作や人気スター出演の作品を集めたり、設備の改善などをおこなったりして客足の確保に力をそそいだが、閉館を余儀なくされる映画館もふえていった。

 長野子ども劇場は四十六年に、演劇鑑賞などにより美しい芸術にふれたり自然に親しんだりする活動を取りいれて、「子どもに生の演劇を、舞台の感動を」「地域ぐるみで親子の育ち合いを」という願いをもってスタートした。四十八年には、城山公園で「子どもまつり」を初めて開催したり、児童文化・教育について母親たちの研究学習会を開いたりもした。五十六年には、須高・更埴の子ども劇場がそれぞれ独立したが、長野子ども劇場は会員約二三〇〇人を数えた。会員の増加により大所帯すぎて子どもの様子がつかめないため、地域に根ざした活動をすすめやすくするねらいをもって三ブロックに分割した。それぞれが独自の活動をおこなうこととし、会員をふやしながら年間四、五回の定例鑑賞活動や子どもの交流活動などをおこなってきている。