長野市の祇園祭は江戸時代の初期に始まったといわれ、著名な祇園祭として知られていた。毎年七月十二・十三日におこなわれ、各町内から山車(だし)がくりだし芸妓衆やお囃子(はやし)衆が乗って巡行した。なかでも、権堂町の「暴(あば)れ獅子(じし)」は人気が高かった。しかし、戦争のため昭和十三年(一九三八)からは中止を余儀なくされた。二十五年には復活したものの、戦前ほどの賑(にぎ)やかさはなくなっていた。
三十三年からは、「長野まつり」と改名しておこなわれるようになった。この長野まつり実施対策懇談会には、商工会議所・観光協会・市役所・関係市会議員・青年会議所・市連合婦人会・祭礼年番町などが参加し、「従来おこなわれてきた祇園祭を全市的な祭りに発展させ、市民レクリエーションと商業活動をかねたカーニバルにしよう」とのねらいで始められた。七月二十一日の前夜祭・ふれ太鼓をかわきりに、二十二日から三日間にわたって、民謡流し・ミス長野夏まつり審査会・コーラスとブラスバンドの夕・広告まつり・花火大会・にわか物(山車巡行)・子供みこし・神楽などがおこなわれた。
四十二年には、夏まつりの前夜祭として「火と水と音楽と若者たち」が登場した。それまでの中央通り会場を中心とした祭りから、城山公園へと会場を移し、噴水のまわりに仮設舞台をつくっておこなわれた。この前夜祭は、「若い人たちもいっしょに楽しめるものを」ということで、青年会議所などが中心となって計画した。当日七月十三日はあいにくの雨のなかであったが、エレキバンド・フォークグループ・ハワイアンバンド・ジャズバンドなどの競演があり、約一万人の市民が会場に集まった。四十一年の長野市大合併を機に「市民の祭り」への期待が高まり、この「火と水と音楽と若者たち」の企画は若者層に歓迎されたが、四十五年までのわずか四年間で幕を閉じた。四十五年の暮れ、青年会議所では年々先ぼそりになるいっぽうの夏祭りを原点にもどって考えなおそうということになった。
年が明けて一月早々に、青年会議所は市民祭企画委員会を開催し、夏祭りの検討を始めた。三月、青年会議所理事会において「市民総和楽」の新しい祭り「長野びんずる」の創設と企画骨子案を議決し、開催を呼びかけた。「びんずる」の名称は、善光寺のびんずる尊者像からとったもので、善光寺のイメージにもぴったりし語呂もいいということで決定した。善光寺をいただく仏都ということで。〝火祭り〟の案が浮上し、全国各地の市民祭の資料をもとに卍(まんじ)型の踊り場所(図15)なども検討されたが、実際には交通事情などにより中央通りでの開催となった。四月には、「びんずるばやし」の制作の打ちあわせをおこない、信越放送(SBC)を通じ「東京企画」にリズムと踊りの制作を依頼した結果、作詞は森菊蔵に、作曲は真木陽(とおる)と決定された。作詞者の森は実行委員会の要望を聞きながら、その場でペンを走らせ詞を完成させた。委員一同作詞のすばやさにおどろくとともに、軽やかに始まる感じの詞のすばらしさに感激したという。曲は祇園祭のお囃子の笛や太鼓の音を多く取りいれ、また、踊りの列の整頓を考えて曲の途中にお囃子(はやし)を入れるようにくふうした。振りつけは岩井半四郎に依頼した。だれでも踊れる簡略なものをという当初の考えであったが、できあがった踊りはややむずかしく感じたため、実行委員会の相談で手なおしをした。踊っているうちにいろいろなアレンジができるようにという配慮がなされ、このほうが各人が祭りを楽しめるだろうとの予測もあった。
五月一日、市民祭長野地区実行委員会が発足し、連日にわたる事務局会・企画委員会・実行委員会がつづけられた。また、「びんずるばやし」の踊りの指導にあたる指導者講習会や連責任者連絡会も開かれた。七月二日には長野放送(NBS)で「長野びんずる」の特別企画が放映され、長野びんずるの雰囲気(ふんいき)を盛(も)りあげるのに一役かった。
「第一回長野びんずる」は、七月三十日から八月十二日の間に市内各所でさまざまなイベントや行事がくりひろげられた(写真140)。おもな内容はつぎのようであった。
○八月一日 飯綱火祭り、○七日 松代地区自衛隊音楽パレード・長野地区びんずる踊り、○八日 子どもみこし・松代地区びんずる踊りとNHKのど自慢大会、○十一日 篠ノ井合戦祭り(子どもみこし)、○十二日 篠ノ井合戦祭り(びんずる踊り・大花火大会)
八月七日の「長野地区実行委員会日誌」は、「九時三〇分、何ひとつ事故もなく無事終了。第一回の市民祭は大成功をおさめたといえそうだ。ヨカッタ!」(青木恵太郎「びんずる三昧」)と結ばれている。
その後、回を重ねるにつれ、若穂地区や川中島地区でもびんずる踊りがおこなわれるようになっていった。五十一年には、高校総体の前夜祭をかねて七月三十一日におこなわれた。
びんずる踊りに刺激(しげき)されてか、善光寺境内で二十六年ぶりに「善光寺盆踊り」が復活したり、長野駅前広小路商店街の夏祭りや蟻の市などもおこなわれた。また、大豆島地区では、次年度成人式を迎える若者たちの手で「大豆島甚句(じんく)」を踊る盆踊り大会がおこなわれていた。
神武景気(三十年)・岩戸景気(三十四年)がつづくと、国民のくらしは一変した。マイカーや家電製品が普及したこともあって、余暇時間が大幅に増大し「レジャーブーム」という流行語が生まれた。国民は余暇時間を必死に楽しもうとしたが、かえってどこの行楽地も人だらけという現象をひきおこした。
長野県内では、国道一八号の舗装整備、国鉄信越線・中央線の特急運行や信越線の全線電化、黒四ダムと大町ルートの開放、戸隠バードラインの開通、野尻湖畔の別荘団地・大学村の創設などによって、都市部からの観光客が入りこみレジャーブームにいっそうの拍車をかけた。
長野市では、三十一年に市民ハイキングコース(①もとどり山、②浅川展望台、③富士の塔、④太郎山展望台、⑤旭香園)を選定し(図16)、市民に「市の中心街から近く、そのうえ家族づれで日帰りできるコース」として広報などを使ってPRした。また、飯綱大座法師池湖畔の飯綱キャンプ場では、電灯設備やバレーコート・炊事場兼水飲み施設などの施設整備がなされ、若者に好評をはくした(写真141)。
三十六年十一月、大峯・地附山観光開発の一環として長水養老院東南面に長野ゴルフ場が完成した。これは、長野ゴルフクラブ(小坂武雄理事長)・信濃観光会社(熊井英次社長)が建設をすすめていたもので、駒弓神社わきの練習場をふくめ総面積一一万五五〇〇平方メートル・六ホールのゴルフ場であった。市街地に近いということもあって、観光の充実に資するものとして期待されたが、五十四年には閉鎖された。三十九年十月には、飯綱上ケ屋のバードライン沿いに長野カントリークラブも開設されている。また、四十年十二月二十七日、飯綱高原スキー場が開設された。飯綱山の南東山腹に約二〇万平方メートルにわたって初級から上級までの四コースが整備され、リフトも一基架設された。食堂と無料休憩室からなるスキーセンターと、大型車三〇台が駐車できる無料駐車場も設置されていた。
いっぽう、家庭で余暇を楽しむものとして、『信毎』では「日曜大工」を特集して紹介した。「日曜日のひととき、仕事から解放されたサラリーマン氏にはのんびりとした時間だ」や、「日曜大工は、趣味と実益をかねる庶民的なもの」などと記事に載せられている。
四十五年五月三日には、県下で初の「歩行者天国」が中央通りでおこなわれた。自動車の乗りいれを禁止し、道路にはベンチやビーチパラソルがおかれ、家族連れの市民が買い物や夕涼みなどを楽しんだ。