宗教界の動向

537 ~ 542

昭和二十八年(一九五三)三月の文化財保護委員会で、宝永四年(一七〇七)落成の善光寺本堂が国宝に指定された。第二次世界大戦前に国宝の扱いを受けていたものは、敗戦後はすべて重要文化財とされた。昭和二十八年にいたり、その重要文化財の中から国宝を指定することになり、善光寺本堂が改めて国宝に指定されたのである。

 善光寺本堂の建築様式は、権現造りという評価がおこなわれていたが、日本国内では最大の開山堂建築であるという学説が、二十八年五月に納骨堂建築にたずさわった沖津清から日本建築学会北陸支部大会で発表された。

 同年六月、善光寺大勧進貫主東伏見慈洽は、京都の名門寺院青蓮院門跡に就任した。善光寺大勧進貫主が本務であるのに、さらに青蓮院門跡になるのは、いずれが本務かという批判がでたが、双方とも本務ということで解決をみた。また、同年九月には戦時中に供出されていた善光寺境内の六地蔵が再建されることになり、起工式がおこなわれた。

 昭和三十年三月に鷹司栄子が善光寺大本願に入山し、誓玉尼となった。大本願は住職大宮智栄上人が老境に入り、上人引退後は一条智光副住職が昇格することになっていた。そこで、将来の副住職候補として鷹司栄子が入山したのである。鷹司栄子(誓玉尼)は尼僧の修行のため京都知恩院の尼衆学校に入学した。慶応大学文学部を卒業していた誓玉尼には仏教系大学の大学院で勉強してもらいたい意向が大本願側にあったが、浄土宗派の大学院がなく、宗派が同じということで誓玉尼が尼衆学校を選んだという。

 三十五年四月十一日から、善光寺大本願は大本願内に「尼僧道場」を開設した。将来は女子高校を立ちあげる計画であった。尼僧教育は眼前の必要事であったが、全国的には東京芝の増上寺と九州熊本の善導寺の二ヵ所にしかなく、尼寺維持に必要な教育機関であった。

 東伏見慈洽善光寺大勧進貫主は、三十一年二月に辞意を表明した。翻意をもとめる善光寺一山にたいし、善光寺の機構が改革されれば留任すると心情を表明した。この住職の意向にたいし、善光寺大勧進の一山会議は了承の方向で事態を収拾し、改革に取りくんだ。

 これにたいし、従前から善光寺問題に発言をつづけてきた長野商工会議所は、「あり方を再検討せよ」という意見書を提出した。この意見書の大要は同年三月八日の『信毎』に掲載され、市民を巻きこむ事態になった。約四ヵ月間の善光寺機構改革論議の後、東伏見慈洽師の留任が決まった。

 三十四年五月で、東伏見慈洽住職が任期満了となり、後任住職が決まらなかったので、総本山延暦寺は大勧進半田孝海副住職を特命住職に任命した。しかし、同年七月に半田特命住職は辞任したので、善光寺大勧進一山会議は半田住職に、名誉住職の称号をおくった。


写真142 善光寺大勧進

 タイ国王から贈られた仏舎利は、善光寺納骨堂に納められていたが、この仏舎利を世にだそうという動きは二十七年(一九五二)から始まっていた。仏舎利を納める善光寺五重塔建設は、江戸時代の寛政八年(一七九六)の設計で建設しようという話しあいがすすみ、全国から一億円を募金する計画であった。この運動は昭和三十五年には長野市も取りくむことになった。また、この年善光寺山門と経蔵は重要文化財に指定された。

 善光寺五重塔の建設が停滞しているとき、新たに「善光寺忠霊殿」造営の計画が発議され、四十三年一月、善光寺忠霊殿造営奉賛委員会が発足した。参議院議員青木一男会長、信濃毎日新聞社社長小坂武雄副会長の奉賛会は、東京にも奉賛会東京本部を設置して募金活動を始めた。第二次世界大戦の戦没者を慰霊する忠霊殿建設運動は順調にすすみ、起工式は四十三年七月におこなわれた。


写真143 昭和45年4月善光寺に完成の日本忠霊殿

 いっぽう、神道界では、明治神宮が戦災で焼失していたので、二十九年に復興奉賛会が中央に設置された。同年七月二十六日に復興協賛会長野県本部が設立され、会長に小坂武雄信濃毎日新聞社社長、副会長に田中邦治県教育委員、武藤清文県神社庁長らが就任した。長野県への割当額は八八〇万円であり、そのうち、長野市民は六五万九〇〇〇円を負担した。

 長野県神社庁は、昭和三十一年の第十一回連合会で、建国記念日を制定し、国民の祝日にすることと、神社法の制定を政府に要望することを決議した。また、紀元節の復活と、宗教法人法での宗教ではない神社を志向する「神社法」を推進する活動が、その後も息長くおこなわれた。

 靖国神社法案は自民党によって強力に推進されたので、これに反対する諸宗教は、大同団結して反対運動を展開した。新宗教もこの法案に反対し、昭和四十三年(一九六八)一月、日本宗教連盟が靖国神社法案に反対声明を出した。新宗教は政治的票田でもあったので、政界の水面下では複雑な様相を呈した。

 翌四十四年六月三十日に、自民党は靖国神社法案を国会に提出したが、審議未了となった。四十九年に、自民党は靖国神社法案を単独で衆議院で可決したが、参議院では廃案となった。

 敗戦後一〇年ほどもつづいたキリスト教ブームは沈静化してきたが、青年や学生は数多く教会に集まり、信州大学や長野県短大の中でも聖書研究会が活発におこなわれた。戦前には想像もできないキリスト教への関心が、学生達の中に高まった。

 キリスト教の救世軍長野小隊(一つの教会を小隊と呼ぶ)は、第二次世界大戦下では官憲の取り締まりで解散を余儀なくされていたが、三十五年八月旧遊郭のあった近くの長野市東鶴賀町に再建された。

 セブンスデーアドベンチスト長野教会は、昭和二十年四月という敗戦まぎわに牧師が長野市に赴任していた。キリストの地上への再臨を強調するこの教派は、ホーリネス教会とともに治安維持法で厳重に取り締まりを受け、投獄された牧師の中には殉教した者もあった。敗戦後の布教の結果、長野市三輪に教会堂を建設している。

 戦前は宣教師が常駐していた長野県(あがた)町教会や長野救主教会(聖公会)関係の宣教師たちは、敗戦直後は長野市に復帰したが、日本が経済成長を遂げると、本国の教団が宣教師の派遣先をアフリカやインドに変更したので、在長野の宣教師は、昭和四十七年聖公会のミス・シェパード婦人宣教師を最後に全員引きあげてしまった。

 いっぽう、アメリカ国内の福音派と総称される伝道意欲の旺盛な諸教派の宣教師が、長野市に多数来住した。戦前の宣教師のように大きな宣教師館を建てるでもなく、大学や高専の英語教師をしたりして生計を立て、青年中心の伝道をしていった。チームと呼ばれるグループの宣教師が主で、長野福音教会、長野めぐみ教会を樹立して今日におよんでいる。

 戦前は諏訪郡、上下伊那郡を中心に伝道していたフィンランド福音ルーテル教会は、昭和十六年に合同して日本福音ルーテル教会となっていたが、昭和三十六年から長野市に伝道し、日本福音ルーテル長野教会を設立した。日本基督教団妻科教会は昭和二十八年八月から長野市七瀬の現在地に移転し、教会名を日本基督教団七瀬教会と改称したが、四十五年九月に日本基督教団信州教会と再度名称変更した。

 長野市往生地に本部をもつ復活のキリスト教会は、伝道館という教派の流れをくんだグループであったが、昭和二十九年に独立し、新教派を設立した。長野県が中心であるが県外にも数教会がある。本部の長野市往生地の完徳学院を中心に伝道している。

 カトリック教会は、昭和二十五年に戦前の母教会であったシレジアから、アメリカ経由で献金があり、現在の長野市田町に聖堂を献堂した。シレジアはドイツから分離され鉄のカーテンの東へ編入されたので、シレジアからの援助も司祭等の人的派遣も途だえてしまった。現在は日本管区という日本人の宣教区として運営され、田町と長野市吉田に聖堂と保育園を所有している。

 「五五年体制」と呼ばれた昭和三十年以降は、戦後体制からの脱却が声高に叫ばれる時期であり、さまざまな復古体制要求の運動がおこってきた。安保条約改訂反対が政治闘争化するなかで、キリスト教界の大部分は「靖国神社法案」(靖国神社国家護持法案)反対で政治的な戦いを開始し、諸宗教と連携して署名や反対集会とデモを繰りかえした。長野市でも日本基督教団の諸教会を中心に、反対集会とデモが継続的におこなわれた。「靖国神社法」が最終的に廃案になったのは、前述のように四十九年であった。

 日本最大の基督教団は、第二次世界大戦下に、国家の強力な指導で結成された諸教会諸教派の合同教会である。この合同教会の信条や姿勢と異なる信仰をもつグループは、それぞれ各個の教会を形成している。ウエストミンスター信条の厳守をかかげる日本改革派教会は、昭和四十六年から長野市に教会を設立した。

 昭和五十五年以降、伝統的保守的な信仰をもち、カトリックや日本基督教団を批判する福音派と呼ばれる教会が、多数長野市に設立されている。また、キリスト教系と名のる諸宗教の活動もこの時期に活発化した。


写真144 日本基督教団松代教会