市民生活と消費者運動

548 ~ 553

石油不足が日ましに深刻になるなかで、四十八年(一九七三)十一月、長野市の石油対策会議(関係七部長で構成)は市役所に県石油商業組合北信支部、長水プロパン協会の代表を招き、需給の現状を聞くとともに、石油危機による市民生活の混乱防止のために業界の協力を訴えた。

 灯油について、市側が灯油の配達をやめて、欲しければ取りにくるようにという店がふえて、結果的に売りおしみになっていた。新しく市に転入してきた市民が売ってもらえず困惑した。急病人、乳幼児などのための緊急用の協力店を設置できないか、と頼めば、業者側は、配達経費もずいぶんかかるので供給は従来からの得意客でも実績の八五パーセントぐらいに落ちており、新規需要には応じきれないとことわった。緊急用の斡旋所は市内北石堂の林業会館に設ける予定であったが、卸業者はそれへの出荷量を全体の一〇〇〇分の三しか配給しなかった。

 プロパンガスについては、長野市の消費は一ヵ月六〇〇〇トンで、市内にはタンクが七つあるが、備蓄は三、四日分しかなかった。民生用第一主義だが、卸の段階で家庭用は五パーセント、LPガス車は五〇パーセントカットされている。川崎からのタンクローリーが入ってこない。年末(四十八年)をどうするか、タンクの底を毎日ながめている、という状況であった(『信毎』)。

 消費者と売り手の立場が逆転した。商店側は主婦の願いを無視するかのように、品物がないなどと強腰(つよごし)で、物価が上がりっぱなしの状態にみんなの感覚がまひしている現状が恐ろしいと、ある主婦(モニター)は消費者の監視の必要性を訴えていた。


写真3 ミナクルシイ電話設置初日の記事(『信毎』)

 長野市民会館にとって、痛いのは量不足の上に重油の値あがりで、前年度までは安いB重油を使用していたのを、公害への配慮もあって四十八年度からA重油に切りかえた。このA重油が年度当初は一リットル一三円ほどだったのが、四十九年一月には二二円ほどに値あがりしたが、暖房使用料は据えおきのままだった。石油事情のよい時は室内の気温を一八~二〇度にしていたのを、当節は節約で一五、六度にするのが精一杯たった。そのため、歌謡ショーなどで一定以上の温度にしてほしいという要望があった場合には、主催者側に重油を持ちこんでもらっていた。

 春をむかえても、春物衣料が秋冬物につづく買いびかえ傾向で売れゆき不振が目だった。各店の分析によると、まず前年同シーズンにくらべ平均二〇~三〇パーセント高という春物衣料の高値・物価高がつづくなかで、生活苦におちいった市民が「おしゃれをしなくても死ぬことはない」と買いびかえをしていたためのようであった。こうした高値反発の買いびかえ傾向は「同じ春物でも、いままで自分が持っていた服と組みあわせて着ることができるセーター、スカート、スラックス、しかも二〇〇〇円から四〇〇〇円の比較的安いものが例年通りに売れていたのにたいし、一万円をこえるワンピースやツーピースなど高級品になるとまったくの不人気」(あるデパート)という話にもうかがわれた(『信毎』)。


写真4 長野市の生活物資調査(昭和49年2月9日『信毎』)

 こうした経済状況が長野市民の家計におよぼす影響について、勤労者世帯一ヵ月当たり(表4)をみると、つぎのようなことがわかる。まず、収入では貯金の引きだしによって家計をまかない、ついで、妻の収入の果たす役割が高まっている。いっぽう、支出では先ゆき不安で、やはり貯蓄が、ついで租税・社会保障費が目だった増加を示している。それにくらべて、生活防衛のくふうも一定の成果をおさめて、消費支出の増加率は低く、四十七~五十年までの三年間に一六六・三パーセントの伸びにおさえられている。ところで、この間、消費支出中の光熱費は同一七八・四パーセントと大きい。


表4 長野市の勤労者世帯1ヵ月当たり収支の推移 (単位:千円)

 あいつぐ物価値あがりに生協活動が見なおされた。長野市内の地域生活協同組合は、当時新しく加入する組合員が急増していた。それも三〇人、五〇人とまとまって集団加入するところが相つぎ、三輪、浅川、吉田の三地区では合計一〇〇〇世帯以上が生協組合員になる計画もすすめられた。

 生協に加入していれば、「生活必需品の最低限必要量はなんとか確保できる。他店にくらべて安いものが多い」というのがこうした新組合員の声であった。生協側では、これまでにみられなかった動きだけに「企業の買いだめ、売りおしみなどにたいする消費者の抵抗のあらわれ」とみていた(『信毎』)。市内に二つある地域生協は、活況をおびていた。組合員約二七七〇人の長野生活協同組合(本部は伊勢宮)では、四十八年十月ごろから組合員がふえはじめ、およそ三〇〇人ふえた。同年暮れから一月にかけて、連日のように「生協の説明会を開いてほしい」という電話が団地の主婦グループなどから相つぎ、従来、組合員がゼロだった川中島町や御厨団地などからもまとまって加入した。同組合の場合、最低二〇〇〇円の出資金をたせば組合員になれた。

 しかし、長野生協自体の経営は困難がつづき、すでに四十七年度七〇〇万円の赤字決算によって、日本生協連へのCO・OP商品その他の手形支払いが停滞したため、店舗閉鎖をふくむ抜本的な改善勧告がなされた。この経営危機に際して理事会は、組合員活動家もふくめて、いくつかの委員会活動をはじめた。①商品テスト委員会は食品添加物の学習会、長野生協独自のしょうゆの開発に取りくんだ。②共同購入委員会は毎月一回定例会を開き、商品テスト委員会と共同で生協しょうゆの開発やノーワックスみかんの購入、無添加ポークウィンナーの購入、ホルムアルデヒドなどに取りくんだ。③商品研究委員会はポリおけの塩化ビニールモノマーの毒性が問題になり、みそ漬け物おけに木製のものを、という組合員からの要求を受けて、佐久市の工場に仕こみみそおけの製造を依頼し、共同購入した。

 五十一年七月に長野市くらしの会連絡協議会主催の第一回不用品交換市(リサイクルバザール)が長野市民会館集会室で開かれた。この催しは市内の生活学習グループが、家庭で眠っている品物を再利用し、物のたいせつさを知ってもらおうと、市の後援で開いたもので、出品者二〇五人、出品数二二〇七点、三時間の販売で、売りあげ金額は五九万円(販売率七九パーセント)にのぼった。販売は出品者から預かって売る委託販売方式であり、売りあげ代金のうち、一部は提供者に返金され、残額は市に寄付された。これを皮きりに、その後は、年に二、三回の割で開かれている。