行政機構の改革

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昭和四十八年(一九七三)四月の長野市の行政機構は、市長・助役・収入役とその下に一〇部があり、また四十一年に合併した一市三町三村に設置された七支所(旧市町村役場)、水道局・消防局となっていた(表5)。そのほかに議会、教育委員会・選挙管理委員会などの各種委員会、などが置かれていた。総務部には二十九年に合併した地区の一〇支所があり、四十一年の合併後に置かれた七支所とは管轄が別であった。また、四十八年からは、企画調整部には初めて新幹線・高速道対策室、福祉部には同和対策室、環境部には公害検査室、都市開発部には長野駅周辺土地区画整理事務所が設置されており、市政の新たな課題への対応を示すものであった。職員数は、市長部局一五〇七人、教育委員会事務局・学校など四二四人、水道局二二九人、消防本部一六九人などで、総数は二三七七人であった。


表5 長野市の行政機構

 昭和四十年代の高度経済成長にともなう市民生活の変化により、市役所でも交通・公害・環境などの部署を中心に行政事務が増加しつづけ、対応するために課・係の新設が相ついだ。四十八年四月、市長の特命事項を担当する調査役や都市開発部に公園緑地課・長野運動公園建設事務所などが設置された。同年五月現在の市組織は一〇部・二局・三委員会・一〇支所、一五一課・室、四五五係にのぼっている。

 しかし、昭和四十八年十月の石油危機以降は低成長期に入り、五十年代は肥大化した行政機構の改革が大きな課題となった。五十年二月、市は市議会にたいして人件費の節減と事務の合理化のため、五十一年度からコンピュータを導入することを説明し、協力を要請した。コンピュータでは、医療費などの福祉行政、市民税などの税金計算、入学児童の就学指定書発行などの教育事務、選挙人名簿管理などを処理する計画であった。

 しかし、コンピュータ導入に関しては、市民のプライバシー保護の問題があり、一気にはすすめない面もかかえていた。

 昭和五十四年三月、柳原正之市長は定例市議会において「低成長時代の民間企業の減量経営にならうまでもなく行政は本来、簡素であり効率的であるべきだ。長野市も最小の経費で最大の効果が得られるような行財政運営に努めたい」と基本方針を述べている(『信毎』)。五十年に約二四〇〇人であった職員数は、五十一年にいったん減少したが翌年には増加に転じ、五十四年度には約二四二〇人で、人件費も五年間で約四〇パーセントの増加となっており、行財政改革が大きな課題であった。市は四月に事務管理部を新設し、六月には、不要不急事務の整理統合、組織機構の合理化、事業の委託化、事務の機械化などを目ざして、市役所の全部局と外郭団体の事務・事業についての見なおしに着手している。

 中央道長野線のルートに関する作業が長野市域でも開始され、地域住民との折衝などの事務増加が予想されるため、昭和五十六年四月、市は新幹線高速道対策室を課に昇格した。また、消費者行政を担当する市民生活課を新設した。行政機構改革の一環として五十四年四月から実施した教育委員会の部制は、縦割りによる弊害が指摘され、元の次長制に戻された。行政機構の減量化は引きつづき検討されていたが、支所の縮小については「議会や住民の意見を聞きながら、慎重に検討する必要がある」としていた(『信毎』)。

 昭和五十六年六月、市の行政機構の簡素化・合理化を審議する行政制度改善委員会が発足した。区長会、商工・農林・婦人など各団体の代表者、学識経験者、市職員OB、市職員労働組合代表者など二五人で構成され、委員長には森本弥三八(信州大学名誉教授)が就任した。市から「新しい時代に向かう市の行政のあるべき姿について」を諮問された委員会は月一回のペースで論議を開始した。森本は「国や県は住民との関係が間接的な場合が多いが、市の行政は直接住民と接している。行革という大義名分だけで単純に削ったりすると、住民生活にすぐ影響するわけだから、慎重に審議をすすめたい」と述べていた。住民生活に密着した旧市部の連絡所と合併した旧市町村ごとに設置した支所などの出先機関の見直しが中心となることから、安易に縮小することもできず、また、各団体から委員を選出しているため、利害がからんで結論が出せるかどうか懸念する声もあった。

 その後、行政制度改善委員会は、①全市にわたって市政上の差別をいっさいなくし、全市民にたいして一様で公平なサービスを徹底させる、②市政の細分化、硬直化を廃し、柔軟性と弾力性をもたせ、流動化、機動化をはかる、③市政のいっそうの簡素合理化をおこない、効率を高める。それによって生ずる人員、財源の余裕を、市民の要望にこたえ、必要な方面に振りむけ、市の新しい時代への発展をはかる、の三点をあげ、このためにはどうしたらよいか論議をつづけ、昭和五十七年六月に答申にこぎつけた(『広報ながの』)。


写真5 市発行の『広報ながの』と『市民の声』

 市ではこれを受けて、昭和五十八年四月、用地部・事務管理部の廃止、一三課の廃止と二課の新設などをふくむ機構改革を実施した。論議の焦点となっていた支所の機構では、四十一年合併の旧市町村の支所に置かれていた振興課が廃止になった。五十九年四月にも市行政制度改善委員会の答申の趣旨にそって、一一課・一九係を削減した。また、新たに電算導入準備室を設け、窓口事務のオンライン化に取りかかった。六十年七月から、住民異動届けの受付・発行、住民票(写)の発行、年金証明書の発行など、住民基本台帳法に定められた業務についてコンピュータ処理をはしめた。これにより窓口での待ち時間は今までの約四〇パーセント減となり、事務処理がスピードアップされた。


写真6 市役所内に特設の転居手続きサービスコーナー(3・4月設置)

 昭和六十年四月現在の市行政機構は表5のとおりで、四十八年四月と比べると一〇部体制は変わっていないが、支所がすべて総務部の管轄となり、また、水道局・消防局が市長・助役の直轄から分離した組織になっている。教育委員会・議会などの組織の大枠はそのままであった。職員総数は定員二五六六人にたいして二三四六人で、三二〇人が欠員となっており、四十八年と比較しても三一人の減少で、職員数からみる限りにおいて、行政機構改革の一定の進展がうかがえる。