昭和四十年代後半から六十年代にかけて、計五回の市議会議員選挙が実施された。四十一年(一九六六)十月の二市三町三村合併の翌年九月におこなわれた選挙は、旧八市町村から最低一人の議員は選出できるよう、定数四四人を人口で比例配分し、旧市町村ごとの選挙区であった。四十六年九月、はじめて全市一区の選挙区で実施された。
党派別の議員数の推移をみると(表6)、自由民主党は昭和五十四年九月の選挙で現職・新人の二人が立候補したが二人とも落選し、以後二回は立候補者がいなかった。いっぽう、社会党・公明党・共産党は、五十八年九月の選挙まで、ほぼ横ばいか増加傾向をしめしていた。しかし、六十二年九月の選挙では、公明党は現有議席を維持したが、社会党は二議席、共産党は三議席をそれぞれ減らし、保守系無所属議員の増加をみた。なお、この間の投票率は、四十六年九月の八四・四パーセントを最高に、それ以後五十八年九月の選挙まで減少しつづけた。六十二年九月には七七・五パーセントと若干の増加を見たが、八〇パーセント台を回復するまでにはいたらなかった。
この間の市議会や市議会議員選挙をめぐる主な動向をみると、まず、昭和四十六年に入り選挙区の問題が浮上してきた。四十二年の旧市町村ごとの選挙区は、合併した地区の住民感情などに配慮したもので、四十六年九月の選挙は、全市一区の選挙区で実施することになっていた。しかし、新市部の保守系議員を中心に「合併後四年では新市部の環境整備などが旧市部にくらべて格差がある。せめて地元から確実に議員を送りこめる旧市町村ごとの選挙区をもう一度」という声がでていた(『信毎』)。新市部の保守系議員は、七月に臨時市議会を開催し旧市町村ごとの選挙区条例案を審議することをもとめていたが、議会の大勢が全市一区の選挙区に傾いたため条例案の提出を断念し、全市一区による実施が確定した。九月の定例市議会では、「長野市基本構想」を可決したが、これを具体化する総合基本計画は、四十七年から六十年までを計画年度とし、総事業費四〇〇〇億円を投入して、土地区画整理・道路整備などの都市基盤整備と、公害防止・住宅難解消などの生活環境整備をはかろうとするものであった。九月三日づけの『信毎』は、「市議選むかえる長野市政の課題」の記事で、合併後も市内八地区は旧市町村意識を根強くもちつづけてきたが、「基本構想を前に合併市の未来を問うとき、このようなセクト主義は市街地住民にとっても、許されなくなって」きており、県都の課題がゆだねられる新しい議会には「地域の利益代表でなく、市政にたいして筋の通った批判者の役割」がもとめられていると報じている。
昭和五十年六月、市は九月実施の市議会議員選挙で選挙公報を発行することを検討している。定数四四人にたいして六五人前後が立候補を予定しているマンモス選挙となるため、有権者の「もっと候補者をよく知りたい」という声に答えようとするものであった。しかし、約九万部の選挙公報を短期間に市民へ配布する有効な手段がなく、八月に市が条例の提案を見おくったため、選挙公報の発行は実現しなかった。五十三年九月の市議会では、四四人の議員定数を増員するかどうかが論議されている。これは五十年の国勢調査で長野市の人口が三〇万人を突破し、五十三年九月には三一万六〇〇〇人となり、地方自治法で人口三〇万人以上の市は、議員定数が四八人と定められていたためであった。保守系無所属議員が所属する新友会は、財政負担の抑制と現行の定数でも民意は十分に反映できるとして、四四人のまま据えおくことを主張し、地方自治法の精神を尊重する立場から、社会党・公明党が二人の増員を、共産党が四人の増員をそれぞれ提案していた。採決の結果、増員せずに現行の定数のままでいくことに決している。
昭和五十四年八月、『信毎』は「近づく長野市議選」と題した記事を連載した。石油危機後の低成長期を迎え、二期目の柳原市政のもとで国体開催、青少年保護育成条例の制定などがあり、これらに市議会・議員がどう対応したのかとして、財政・スポーツ・清掃工場入札・青少年保護育成条例・都市づくりの五項目を取りあげている。青少年保護育成条例の項では、条例の審議過程や内容の問題点についてつぎのように指摘している。議会は五十三年三月に賛成多数で条例を可決したが、「表現の自由や、深夜外出禁止などによる基本的人権の侵害を招きかねないといった憲法にかかわる点」があったにもかかわらず、議会での審議に不十分だった面がみられ、市民の中には危惧(きぐ)する声もあった。「議会は市側の政策監視などをするいっぽう、広く市民に論議の中身や本質を知らせ、市民と共に考える姿勢を失ってはならない」はずで、この条例制定は「市民の声を市政にどう反映していくかという、議会の原点ともいえる課題」をしめしている、と結んでいた。投票が迫った九月には、選挙公報や立ちあい演説会がないことから、有権者に候補者の公約や考えなどの情報を提供するために、候補者へのアンケート結果をまとめた「長野市議選候補者 公約と姿勢」を掲載している。
県議会議員の長野市選挙区における党派別議員数の推移は表7に掲げたとおりである。自由民主党・社会党・公明党・共産党で議席を分けあう構図は基本的にはかわらず、五十年四月と六十二年四月定貝が一人ずつふえて一〇人となっているが、自由民主党・社会党で各一議席の増となっている。投票率は選挙を重ねるごとに低下し、六十二年四月には七〇・七パーセントまで下がっている。
いっぽう、国政における衆議院議員選挙では、この期間に昭和四十七年十二月の第三三回から六十一年七月の第三八回まで、計六回実施されている。長野市が属する第一区では、自民党二、社会党一と政党別の議席数には変化がみられないものの、議員の新旧交代がすすんだ。五十一年十二月の第三四回選挙では、社会党現職の中沢茂一が落選し、かわって同党新人の清水勇が初議席を獲得した。いっぽう、自由民主党では、五十五年六月の第三六回選挙まで、小坂善太郎・倉石忠雄両現職の当選がつづいた。しかし、ロッキード事件で田中角栄元首相が有罪判決となり、衆議院解散をうけて実施された、五十八年十二月の第三七回選挙では、同党新人の田中秀征が、五回目の挑戦でトップ当選をはたした。また、倉石忠雄の地盤を受けついだ若林正俊も初当選し、小坂善太郎は新旧交代ムードが高まる中で落選した。衆議院・参議院の同日選挙となった六十一年七月の第三八回選挙では、前回落選の小坂善太郎が返りざくいっぽうで田中秀征が落選し、二期つづけて当選することの厳しさがみられた。