長野電鉄の地下鉄化と長野大通り

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第二次世界大戦後、建設省がすすめてきた戦災都市復興を中心とした街づくりが一段落し、昭和三十九年(一九六四)ころから戦災にあわなかった都市の改造事業が始まった。三十九年に密集地区街路調査が全国で長野をふくめた一二都市で実施され、長野市では長野駅西口・東口周辺で密集地区街路整備調査をおこなった。その調査結果をとおして、長野市は市街地道路の未整備により慢性的な交通渋滞をおこしており、信越線と国鉄長野分工場や長野電鉄が市街地を分断し、そのうえ、国鉄貨物基地が西口密集市街地にあり、都市機能が劣っていることなどから、区画整理により市街地の整備をすすめるべきだと指摘された。

 密集地区街路整備調査にもとづき決定された長野駅周辺西口土地区画整理事業が、昭和四十二年に着手された。土地区画整理地域は長野駅前広場から、西は上千歳町通り、北は錦町通り北、南東側は国鉄線路に至る一〇・七ヘクタールであった。昭和四十三年には区画整理審議会を設置し、錦町の労働基準局、日本専売公社長野支局用地などの取得をすすめ、昭和四十四年(一九六九)十月本工事に着手した。


写真8 地下鉄化前の長野電鉄昭和通りふみきり (『長野商工会議所百年史』)

 いっぽう、昭和四十二年の都市計画では三輪・相ノ木通り交差点より南に新たに「長野大通り」の新設を決定し、昭和四十五年に長野・浅川線(「長野大通り」)事業が認可され、用地買収が始まった。

 「長野大通り」事業と長野駅周辺西口土地区画整理事業がすすむと、市街地の長野電鉄線を高架にするか、地下にするかが問題となってきた。高架によって新設の長野大通りと市街地の分断を防ぐことはできるが、電車の騒音問題などを考えると、建設費が高くても長野電鉄を地下化し、電鉄用地と周辺をふくめて長野大通りを建設する方がよいとの方針で、市は地下化の方向で交渉をすすめることになった。建設省は「大都市ならいいが、地方都市の長野市では難しい」とし、長野電鉄の地下化にたいしては「全国的に連続立体交差は高架案しかない」との主張をかえなかった。しかし、何回も交渉をかさね、「連続立体交差式は高架式相当額を国庫補助の対象額として地下式を認める」との結論がでて、地下化ですすめられることになった。ところが、当初より高架式を予定していた長野電鉄からは、地下化にともない、高架式より負担が増大すること、電車車両の不燃化対策や須坂変電所の改修・維持費などの経費負担増が問題としてだされた。そこで、それらの負担増は、長野大通り街路事業で電鉄の線路敷地その他の用地を買収する用地費でまかない、電鉄の建設費の負担は最大限でも高架式以上にはしない、車両の改造等の費用についても十分配慮するなど数項目が、昭和四十七年七月、知事、市長、電鉄社長の三者会談により合意された。

 長野電鉄地下化は、長野県が昭和四十九年三月に、長野都市計画高速鉄道連続立体交差化事業(長野電鉄長野線)として決定し、同月建設省から認可されて実施することになった。工事区間は三輪・長野駅間の地下複線式、延長二六九〇メートル、工事完了予定は五十六年であった。工事は開削工法で、鉄筋コンクリート箱型トンネル方式でおこない、地下駅として善光寺下駅、権堂駅、市役所前駅、長野駅の四駅を開設した。事業費約一二九億円であった。


写真9 昭和56年長野電鉄長野線地下開通

 長野都市計画街路事業「長野大通り」は、全長二キロメートル、幅二五~三八メートルで、車道は片側七~一〇メートル(二車線)、歩道は片側四~五メートルであった。歩道と車道との間の植樹帯、中央分離帯にはケヤキ、トウカエデの並木やイチイやツツジが植えられ、権堂、横山町など三ヵ所にポケットパークの歩道(鍋屋田小学校校庭東側)には藤棚が設置された。事業費は一〇八億五〇〇〇万円で昭和五十八年に完成した。また、この大通りには共同溝が設けられ、電話と送電線ケーブル、上下水道が地下に埋設された。共同溝は全長一・五キロメートル、高さ二・七メートル、幅二・二五~三・七メートルの鉄筋コンクリート箱型で、事業費は道路管理者が約八〇〇〇万円、電電公社、中部電力、市水道局などの占町者が約七〇〇〇万円負担した。この共同溝の設置によって長野大通りには電柱がなく、独自のデザインによる道路照明、シンプルデザインの信号機が設置され、すっきりした大通りになった。


写真10 完成した長野大通り

 西口土地区画整理事業では、昭和四十七年に共同店舗「しょっぷ・こあ」建設が始まった。この共同店舗の建設協定は長野県下で初の試みで、第一地区建築協定が南千歳町の二八人によって結ばれた。これは共同店舗方式の建築で、三階以上の耐火建築、一階を商店または事務所とし、街路面の外壁、窓材などの統一ほかいくつかの条件で建築協定が結ばれた。共同店舗「しょっぷ・こあ」構想は、当時この地区においては、顧客の流れが駅前指向に傾きつつあることから、この地区を市の商店活性化の中枢にしようと計画したが、住宅と店舗が混在し、店主によってそれぞれの再建への必要性、時期、経済性などに差があり、難しい状況であった。そこで、共同化による建設費の大幅軽減、全体を共同敷地にして建物の耐火構造によって建蔽(けんぺい)率をあげ、また、店舗が連続することにより相互の敷地をいっぱいに利用でき、ほぼもとの建築面積を確保した。そして店舗にとってもっともたいせつな間口や売り場面積を確保し、避難路などをとり、安全性を高めることができた。また、地元の金融機関とも交渉して、それまでは長期の借りいれ期間七年間を一五年間に延長することができ、この方式をおしすすめる原動力となった。

 昭和五十一~五十二年には錦町通り(山王・栗田線)の舗装工事、千歳町通りの工事をした。そして、昭和五十五年に土地区画整理事業として、東西連絡地下道(長野駅西口広場と東口を結ぶ歩行者専用地下道)工事に着工した。工事は延長約一七〇メートル、幅六メートルで、非常用ポンプ、身障者用車椅子用リフト、防犯設備などを備えるものであった。事業費は三八億二〇〇〇万円で、工事は昭和五十八年に完成した。それまでは入場券で駅構内を通過するか、踏切を二〇分もかけて迂回していた東口と西口の連絡が容易になった。

 駅前広場の工事は昭和五十五~五十八年にかけ四期に分けて実施した。長野大通り・駅前広場・連絡地下道の開通祝賀行事は、昭和五十八年十一月二十日に全市あげて盛大におこなわれた(『和自成蹊(わじせいけい)』、『長野電鉄80年のあゆみ』)。

 長野市の都市計画では「交通セル方式」が昭和五十三年に取りいれられた。セル(ゾーン)方式は中心市街地の通過交通を排除するために、中心街を四つのセルに分け、隣のセルに行くには区域外にでて、きめられた進入路から入れるような交通システムである。長野大通りはセル環状線の東側で、その後、平成八年に「県庁・大門町線」と「バスターミナル南通り」が竣工し、内環状線が完成した。内環状線は長野冬季オリンピックには大いに活用され、その後も市街地交通のかなめとなっている。


図1 長野市のセル交通