青少年健全育成と関連施設

597 ~ 604

昭和二十六年(一九五一)に国は、すべての子どもたちの幸福をはかるために、三原則と十二ヵ条からなる「児童憲章」を制定した。その三原則は、①児童は人として尊ばれる、②児童は社会の一員としておもんぜられる、③児童はよい環境のなかで育てられる、というものであった。これを契機にこのころから、市内各地に育成会が結成されはじめた。

 長野市では「神武景気」といわれた好況期の昭和三十年に、子どもの幸せをはばむ悪い環境や条件を取りのぞき、健全な育成をはかることを目的として、「長野子どもを守る会」が結成された。三十一年に市内約一〇〇の育成会に働きかけて、毎土曜日「母と子の映画会」を市社会福祉会館で開き、一〇円の整理券で文化映画・教育映画を上映した。これをきっかけに同年七月十二日、城山蔵春閣で市内一三〇の育成会・子ども会・PTA校外指導部が集まって、長野市育成会連絡協議会を結成した。地区育成会連絡協議会も設けて、単位育成会との連絡調整をはかるようにした。長野警察署でも、三十二年の少年暴力団六人逮捕を機に、署内に「少年非行防止対策部会」を設けて、防犯協会と連携して、少年の非行防止・健全育成に本腰をいれることになった。

 埴科郡松代町では三十二年に、青少年の福祉増進と非行化防止をはかろうとして、町会議員・教育委員・民生委員・保護司・学校長・婦人会長・青年団長などの代表二〇人が集まって、青少年問題協議会を設立した。会長に八田恭平町長を選び、下部組織として、町内七地区の児童委員・保護司・婦人会・青年団などによって地区幹事会をおき、実際の青少年健全育成にあたることにした。


写真27「不良化防止家庭のしおり」

 高度経済成長の繁栄のなかで、昭和三十三年からの「岩戸景気」・四十年からの「いざなぎ景気」は、物の豊かさとともに、享楽的雰囲気や金銭・物中心の風潮をうみだした。また、人口の都市集中・核家族化・共働き家庭の増加などで地縁血縁がくずれてくると、社会連帯のきずなも希薄となった。こうした社会の影響をより強く受けるのが子どもたちである。金銭乱費・盛り場はいかい・喫煙飲酒・覚せい剤・不良交友・暴力恐喝などの問題をおこしたり、既存の道徳・社会規範に抵抗してかわった服装・髪形・行動をとり、フーテン族・ヒッピー族・アングラ族などといわれる青少年がふえてきた。そこで、地域の将来をになう青少年の健全育成が、いっそう問題になってきた。

 この時期に、長野市は青少年問題協議会専門委員会を開き、青少年保護育成問題について話しあった。公民館青年学級では、月曜・水曜のサークル活動(時事問題・絵画・ギター・コーラスなど)・レクリエーション・戸隠キャンプなどをおこなった。また、市の社会福祉協議会と青少年保護育成協議会が中心となって、青少年保護育成運動をすすめた。この目標は、①家庭における青少年教育の振興、②勤労青少年の保護育成と教育機会の充実、③青少年をめぐる社会環境の浄化と健全育成施設の充実、④年少者の非行防止、であった。

 昭和三十九年(一九六四)七月から、長野県は長野市三輪田町の市社会福祉会館内に長野少年補導センターを発足させた。補導委員九七人(内三一人は学校選出補導委員)を委嘱し、長野警察署の婦人補導員と共に、長野駅・権堂町・城山公園・市営プール・裾花川沿岸・犀川堤防・デパート一帯を、数人でパトロールし、「愛の一声」による街頭補導や学校家庭との連絡にあたった。同年、松代町の中心街六町内(殿町・伊勢町・中町・紺屋町・鍛冶町・肴町の約七五〇戸)が、県の少年保護育成モデル地区に指定されている。

 市役所新庁舎(現本庁舎)が昭和四十年に完成して移転すると、若松町の旧庁舎を「長野市青少年の家」として活用することとなった。四十一年に旧表庁舎一階と同中庁舎一・二階を改造して、市内の中小企業で働く青少年(一五歳~三〇歳)のレクリエーション・休養施設とした。事務室・集会室(四)・和室・娯楽室(囲碁・将棋など)・談話室(テレビを備え)・音楽室(ステレオを備え)・卓球室(二台)・体育室をつくり、勤務先発行の「利用証」があれば、無料で利用できるようにした。住みこみの管理人をおき、午後一時~九時まで開放し、必要に応じて指導者も委嘱した。また、市内の勤労者・自営業者も利用できるようにした。

 四十二年三月には市内三ヵ所に、高さ一メートルほどの木製の悪書追放ポストを設置した。そのポストには、「悪書の関所です。悪書追放ポスト」と書いてあった。「おとなが買った不良雑誌を家に持ちこまないで、このポストへ投げすてていってください」という趣旨で設置したものである。

 県は長野少年補導センターを、四十三年に長野市に移管し長野市少年補導センターとした。市は社会部に青少年室を設け、青少年に関する対策を統合できるようにし(四十五年からは教育委員会社会教育課が担当)、市の大合併を機に、長野市少年補導センター篠ノ井分室も設置した。少年補導委員は、長野一〇二人・篠ノ井二三人計一二五人となった。市少年補導センターは、街頭補導・少年相談・環境浄化・広報・啓発活動に力をいれた。四十三年から、長野子ども会大会が開かれるようになった。同年八月には、篠ノ井青少年育成協議会が結成された。

 四十四年五月から「愛の鐘」の設置を始め、市内すみずみまで広がっていた有線放送を利用して、季節に応じて時刻を決め、子どもたちの帰宅をうながすようにした。松代地区の場合は、象山山頂に六方向の拡声器を向けたストレートホーンによる「愛の鐘」塔を設置した。曲が選ばれ、五十年からは朝六時「愛の鐘」三五秒・昼十二時「野ばら」六〇秒・夕六時「夕やけこやけ」(季節により変更)四五秒・夜九時「家路」五五秒と、毎日四回放送している。

 昭和四十四年九月には七二会地区陣場平に「青少年山の家」を完成させた。青少年山の家はこの後、松代の地蔵峠・篠ノ井の小山田池・保科の菅平・小田切の富士の塔の四地区にも設けられた。いずれも収容人員五〇人、交通費・食糧は自己負担、宿泊料は無料というのが多く、菅平青少年山の家のみは小中学生は無料、一般は二五〇円となっていた。この年には若里公園の一部に、子どもたちのための「ちびっこ広場」(わんぱく広場)が開設された。

 昭和四十七年(一九七二)五月には、吉田に鉄筋コンクリート二階建てで、五〇台の駐車場付きの「長野市勤労青少年ホーム」を完成させた。そこには娯楽談話室・図書室・卓球室・体育室・シャワー室・音楽室・講習室・和室・ホール・料理実習室・生活相談悩みごと相談コーナーなどが設けられた。この後、五十六年に篠ノ井小森へ、五十九年に南長野妻科へ「勤労青少年ホーム」を開所し、吉田のホームを「長野市北部勤労青少年ホーム」と改称し、小森を「南部」、妻科を「中部」と称するようになり、この時点で旧庁舎の「長野市青少年の家」は廃止された。

 第四次中東戦争が四十八年十月に始まると、石油値あげ・供給制限で、石油危機がおきた。翌四十九年は戦後初の経済マイナス成長となり、狂乱物価による消費者物価は二五パーセントも上昇した。高度経済成長時代から低成長・不況・省エネルギーへの転換がめまぐるしいなかで、さまざまの不安定要素が子どもたちへも悪影響をあたえた。

 市では四十九年四月に、「長野市少年補導センター条例」を施行し、少年補導センターを西町へ移転した。同年、市PTA連合会は教育環境委員会を設け、少年非行の実態調査・街頭補導・俗悪環境調査をし、民間放送連盟・自動販売機業者・出版業者へ陳情したり要望書を提出して、子どもたちの健全育成に努めることとした。

 市は市民の青少年健全育成についての論議をふまえ、次代の日本をにないあすの長野市を築く者は青少年であり、青少年を心身共に健康で有為な人材として成長させることは、親の責務であり市民の願いであるとして、五十二年十月九日に前文と三ヵ条からなる「青少年健全育成都市宣言」をおこなった。翌年三月には、全国六市の条例を参考にした「青少年保護育成条例」を議決し、十月一日に施行した。市は青少年課を設けて、具体的事業として、①青少年指導者講習会を継続的におこない、指導者の確保と資質の向上をはかる、②すべての青少年育成団体に横のつながりをもたせ、総合的な市民会議を設立させる、③高校生の親の会をつくり、高校生の健全育成と非行防止を推進する、④青少年のために環境浄化をすすめる、⑤条例の趣旨徹底に努める、などの事業にとりくんだ。同時に区長会・育成会・PTA・少年補導委員会・少年友の会・防犯協会・婦人会などの関係団体の連合体として「青少年育成市民会議」が発足した。つづいて「青少年育成地区会議」が、市の二六行政区内に結成された。

/603p

 青少年育成地区会議や少年補導委員会・育成会連絡協議会は、地域の子ども会のリーダー養成のためのジュニアリーダー講習会を開いたり、動く子ども広場「すこやか号」の派遣をもとめて、子どもたちに集団遊び・ゲーム・工作などの指導をおこなったりした。さらに、懇談会や講習会を開いたり子ども会行事をおこない、機関紙なども発行して広報・啓発をおこなった。青少年健全育成のための諸行事を、松代地区を例として『育成会十五年のあゆみ』(五十九年・松代地区育成会連絡協議会編)から拾うと表21のようである。松代では「育成会賛歌」もつくられている。


表21 松代地区育成会事業例 (昭和44~58年)


写真28 川中島町育成会のたこづくり教室

 同年十月は、体育の日を中心に「青少年を非行から守る強調月間」を設け、スポーツ施設・青少年山の家・ちびっこ広場・児童館(児童センター)の活用をすすめ、施設設備の充実をはかった。十一月には青少年健全育成市民会議を開き、ポルノ雑誌自動販売機設置のための土地建物を貸さない・売らない、電源を提供しない運動をすすめることを決め、さらに、各地区で自動販売機の総点検と撤去運動をおこなった。県書店商業組合の協力もあって、五十九年までに三十八台のうち、二九台の撤去に成功した。


写真29 青少年健全育成審議委員の有害図書自動販売機視察

 昭和五十三年からは、長野市青少年健全育成推進大会を開くようになった。五十七年には山田中に、宿泊・運動・キャンプ施設などを備えた長野市青少年錬成センターを開所した。この年に少年補導センターは、鶴賀七瀬の教育センター内に移転した。六十年の地区選出補導委員は四〇六人となり、学校選出補導委員八八人を加えて四九四人となり、指導体制の強化がはかられた。五十九年(一九八四)度の市の青少年育成にかかわる課と事業概要は表22のようである。


表22 長野市青少年育成担当課と事業概要 (昭和59年)