長野市では、昭和四十八年(一九七三)「街角に彫刻を、うるおいある町づくりを」と、野外彫刻賞を設定した。この野外彫刻賞は、信濃毎日新聞社・信越放送(SBC)が共催し、八十二銀行・長野信用金庫が協賛したもので、全国各地の彫刻展などに出品された作品のなかから、野外の永久展示に耐えられる優秀作を買いあげて展示し、自然と芸術のとけあった町づくりを目ざそうというものであった。
初年度の四十八年は、八月二十一日東京で選考委員七人と夏目市長・笠原助役が出席して選考委員会を開き、柳原義達の「道標」、土谷武の「作品一九七二」、矢崎虎夫の「托鉢」の三作品を入選とした。
長野市の意図した野外彫刻設置は、単に作品を展示するだけにとどまらず、彫刻を展示するにふさわしい公園づくりや市民の憩いの場づくりなどの都市計画もふくめることで特筆されるものであった。そのため、彫刻の設置場所の選定にも気をくばり、作者の意見なども取りいれながらそれぞれにふさわしい場所として、南千歳公園(道標)、城山公園(作品一九七二)、長野市霊園(托鉢)を決定した。三作品の除幕式は、作者出席のもと翌四十九年一月十九日におこなわれた。
彫刻設置は当初一〇年間ぐらいとの計画であったが、現在まで毎年三点から七点の彫刻を設置展示している。
しかし、PR不足からあまり市民に知られていない面があったことにより、市では五十一年に展示作品の鑑賞モデルコースやルートマップをつくったり、解説案内板を設置したりした。また、五十三年には「優れた野外彫刻をもっと知ってほしい」と、展示作品の写真・説明・案内図を盛りこんだパンフレットを五〇〇〇部つくって、市役所市民課の窓口で無料配布を始めたりもした。五十四年四月には、「野外彫刻を巡る会」を催した。市のマイクロバスを利用しての展示作品の見学会は人気を呼び、七月にも再び見学会がおこなわれた。五十六年には、浅川の長野市霊園と城山公園を巡る北コースと、松代や篠ノ井を巡る南コースの二班にわかれて「野外彫刻めぐり」が、六月・九月・十月の三回にわたっておこなわれた。
四十六年八月、「長野市総合基本計画」が長野市総合基本計画審議会から答申され、市ではただちに基本計画を決定した。それによると、観光の振興計画として、「自然環境との調和をはかりつつ、自然景観がいっそう価値を高める観光開発をすすめて、観光客の誘致につとめるとともに、周辺観光地の有機的な連携をはかって、観光の広域化と新しい観光需要に対応した体制を確保する(『総合基本計画』昭和四十六年十二月)」としるされている。具体的には市内の観光施設を、善光寺周辺・飯綱高原・松代および川中島古戦場・その他、の四区分とし(表23)、観光需要の予測に合わせて整備事業計画を策定した。
そのうちの松代周辺整備計画では、「川中島古戦場・海津城跡・旧真田邸・旧文武学校・象山神社・妻女山等の史蹟と、また、世界屈指の性能をほこる地震観測所を有し、観光資源としての価値が大きい」として、昭和六十年の観光客を二〇〇万人(市域全体では一五五〇万人)と想定した。そのうえで、一億六二〇〇万円をかけて海津城跡整備・武家屋敷保存・大本営跡整備などを計画した。
旧文武学校の解体復元は、四十八年十二月から始められた。工事は建物すべてを取りこわし、明治四年(一八七一)の見取り図をもとに古材を生かしながら、藩校当時のほぼ完全な形に復元するというものであった。五十三年九月に復元工事が完了し、一般公開がおこなわれた。記念行事として、日本の藩校展・記念講演・生花展・少年柔剣道大会などが開催された。
いっぽう、八幡原史跡公園整備は、別の観光施設整備および都市計画(公園緑地)整備計画に盛りこまれていた。具体的な整備計画は、五十一年十月にようやく立案された。総事業費一七億五〇〇〇万円、六年がかりで約八・五ヘクタールの大規模な史跡公園を建設するというもので、史跡と木陰広場・集まりの広場・合戦広場と演出広場の三区域に分け、一・四キロメートルの遊歩道や〇・六ヘクタールの池も設けるという計画であった。
城山公園では、三十五年十二月の噴水整備や三十七年十一月の花時計整備などがすでにおこなわれていたが、それに加えて市民広場造成や動物園整備を盛りこんだ善光寺周辺および城山公園一帯の整備計画も、約九〇〇〇万円をかけてすすめられた。
このほか市では、市ぐるみで緑化を推進し、市民の緑にたいする認識を深めてもらおうと、四十八年四月に「市緑化の推進及び緑の保全に関する条令」を施行した。これにより、四十一年から始められた結婚記念樹や小学校入学記念樹の贈呈に加えて、新たに新築記念樹の無料贈呈も始めた。この新築記念樹は、市民に好評であった。