上水道と下水道の設置拡張

608 ~ 617

長野市域の上水道は、昭和四十一年(一九六六)の合併以降は、塩崎、信里、篠ノ井、川中島、更北を中心とした県営水道による給水と長野市による給水との大きく二つの給水に分けられる。

 県営水道は、効率的な給水をはかるため、各市町村が個別に水道事業をおこなわずに県企業局に託してきた経緯がある。上田市から長野市にいたる千曲川沿岸三市三町(上田市、更埴市、長野市、坂城町、戸倉町、上山田町)の広域水道として、千曲川の表流水と篠ノ井小松原地区・川中島四ツ屋地区の深井戸を水源に約一七万人に一日七万二〇〇〇立方メートルを給水している(平成六年三月現在)。

 この計画は昭和三十六年五月に発表され、三十八年四月に県企業局企画部にガス・水道課が設置されて着工している。当初の計画では、松代地域もほぼ全域給水区域に入っていたが、昭和四十一年十二月脱退している。当初の計画は、昭和四十三年十二月、長野市篠ノ井信里地域への給水を最後に完了した。以降は、事業費が大幅に増加したこと、不採算性地域が多いこと、市町村から引きついだ施設が老朽化していたことなどから、事業の再建と施設の改良が大きな課題となったが、累積欠損は昭和五十八年の料金値あげをもって解消された。

 長野市による給水には、合併以降も、急増する水の需要に対処するための拡張と、山間部の簡易水道を統廃合して全市上水道化という二つの大きな課題があった。

 第三期拡張事業終了後は、高度経済成長期のめざましい商工業の発展にともなって人口が増加したこと、また、生活水準の向上のため使用水量が伸びたことにより、既存の設備では給水が危ぶまれる状況になってきた。そこで昭和三十九年四月から昭和四十七年三月までの第四期拡張事業は、犀川水系の増設、裾花ダム建設による裾花川水源の新設、さく井による川合新田水源の新設などを中心としてはじめられた。しかし、その後の周辺部の市街化による給水量の増加は著しいものがあり、四十六年にはそれまで簡易水道であった芋井、浅川地区一部地域の編入と川合新田水源の増量を主とした変更をおこなっている。給水人口は一九万七〇〇〇人、一日最大給水量は、一二万六〇〇〇立方メートルとなった。

 四十七年三月三十一日認可を得た第五期拡張事業では、裾花川上流総合開発にともなう奥裾花ダム建設計画へ参画して、長野県、県企業局、鬼無里村と基本協定を結び、三万二二五〇立方メートルの取水が可能となった。また、昭和四十一年度に合併した松代地区と若穂地区の既存上水道や簡易水道施設の統廃合をはかり、全市上水道化しようとするものであった。なお、この期には配水系等の整備がすすめられ、第二期から供給に重要な役割りを果たしてきた七瀬水源は、配水系等の合理化のため廃止された。


写真33 裾花川のダム湖

 昭和四十九年三月三十日認可を得た第六期拡張事業では、高瀬川総合開発に係る大町ダム建設計画に参画して、上水道用水として一日一〇万立方メートルを取水し、小田切、七二会、信更の大部分、浅川の一部の山間部簡易水道施設の各地区を統廃合して給水区域の拡張をはかること、急増する水需要に対処するための施設の充実と管網の整備を目的としていた。しかし、水の需要は、経済不況や節水意識の高揚によって、五十三年以降低下傾向を示すようになった。このため、大町ダム系の犀川からの取水は伏流水とし、当面一日三万立方メートルまでとする、また、給水人口を三〇万四〇〇〇人から二七万八五〇〇人にするなど、高度経済成長期に立てた事業計画の縮小をおこなっている。このころになると、水道整備のうえで水質の維持管理、既設浄水場や水道管の老朽化対策などが大きな課題となってきた。

 平成五年から平成二十三年までの第七期拡張事業では、平成十年(一九九八)の冬季オリンピック開催にともなう大幅な水需要の増加への対処、ならびに、長野北新都市開発整備事業やニュータウン建設が予定されている将来の安定的な給水のために、大町ダム参画によって確保した一〇万立方メートルをすべて取水していくこと、また、浅川総合開発に参画し、中曽根、本郷の両簡易水道を編入していこうとするもので、計画給水人口二九万六一〇〇人、一目最大給水量二〇万七五〇〇立方メートルとしていた。平成六年市域の上水道普及率は、九九・六パーセントに達している。なお、浅川総合開発の中核であった浅川ダム建設は、さまざまな論議があったが平成十四年九月、県の方針により中止された。

 平成六年は、全国的な猛暑と干ばつとなった。長野市でも長野地方気象台観測史上最高の記録的猛暑と少雨となった。長野市降水年表によると、長野市役所の観測地点の降水量は、四月に一五ミリメートル、五月四六ミリメートル、六月五九ミリメートル、七月二一ミリメートル、八月一二ミリメートル、九月は、十五日まで七ミリメートルという状況であった。長野市水道局では、五段階の渇水対策実施計画を立て対応したが、最終的には節水依頼のみで、時間給水などの最悪な事態に至ることはなかった。

 長野市の上水道給水区域は、平成六年の段階で図2のようである。これを水源からみると、戸隠、犀川、野尻湖、川合新田、裾花川、松代、若穂などの水源があり、(岡田水源は昭和三十五年廃止、七瀬水源は昭和四十七年廃止)各地域に給水している。しかし、それぞれ独立しているのではなく送水管で接続され、有事の際に備えている。旧市域の水源の中心は犀川水源・川合新田水源や裾花川水源であり、犀川浄水場から夏目ヶ原浄水場などにポンプアップされて給水されている。小田切、七二会、信更地域も犀川水系で給水されている。かつて戸隠や裾花川、野尻湖など長野市よりも標高の高いところに水源をもとめていた様相は、第六期拡張事業の大町ダム建設参画以来、標高の低い犀川へと大きくかわってきた。なお、松代、若穂地区は、水源となる山が浅く千曲川(岩野)や地下水(寺尾)にも水源をもとめている。また、綿内地区では屋島橋を渡り川合新田水源から給水している。こうして、安心して飲める水を安定して供給していける体制がととのってきた。


図2 市営水道と県営水道の給水区域(『広報ながの』平成6年6月1日発行より)

 市では、昭和六十三年(一九八八)市上水道事業七十周年と近代水道百周年を記念して、犀川浄水場内の旧原水ポンプ室を改修して長野市水道資料館を開設した。一階には近代水道の歩みと長野市の水道施設、地階には水道資材を展示している。さらに、平成七年(一九九五)には水道開設八十周年を迎え、七月十九日記念式典を挙行するとともに、記念誌「暮らしの水の物語」を発行した。翌九年八月二十九日、夏目ヶ原浄水場に夏目ヶ原親水公園が竣工した。八十周年記念エリア、学習エリア、修景・鑑賞エリアの三つからなり、市民が楽しみながら水道事業の歴史や仕組みにふれることができるようにつくられている。


写真34 犀川浄水場の沈澱池


写真35 市水道資料館に展示の水道資材

 昭和四十年代になると下水道整備の遅れによる問題は、身近にもはっきりと影を落とすようになってきた。昭和四十九年五月の『広報ながの』では「猫の死体、弁当箱、古タイヤ…。私たちもごみを拾い、立て札をたて、川をきれいにしようとしても、水は上流からごみを運びたちまち汚くしてしまいます。(中略)どうか魚が住めるような川にしてください。お願いします」という、市長あてに届いた小学生の手紙を紹介し、「実際に私たちの周囲の川に、気がついてみると魚が泳いでいるような川は市街地のどこにもない。川は泣いている。」と河川浄化への協力をもとめている。当時、下水道計画地域の家庭では六八・七パーセント加入にまでいたっていた。四十五年からは、市民参加の衛生監視員の制度をすすめるなどの取りくみもしてきていたが、家庭雑排水や工場廃液、各種のごみなどで、とくに、市街地の河川の汚れは目をおおう状況にあった。生活環境の改善と公共用水域の水質保全をはかるため、また、豊かな自然を次世代に引きついでいくために下水道施設は不可欠なものとなり、その建設が切望されるようになっていた。

 長野市の下水道は、単独公共下水道区域、千曲川流域関連公共下水道区域(上流処理区)、同(下流処理区)、特定環境保全公共下水道区域(飯綱処理区)、同(下流処理区)の大きく五つの区域に分けられている。


写真36 上松地区の下水管の埋設工事

 旧長野市街地を受けもつ単独公共下水道は、昭和二十八年に事業認可を受けて以来、昭和四十二年から平成十二年まで五回の事業拡大をおこなってきた。計画区域三七〇七ヘクタール、計画処理水量一四万三五〇〇立方メートルで、大豆島にある東部浄化センターでその終末処理をおこない、千曲川に放流するものである。

 昭和四十九年、第三期拡張事業が認可され、南部と東部二処理区となった。川合新田汚水処理場は、南部汚水処理場と改名された。これより先、昭和四十六年より第二期拡張計画の変更をおこない、東部終末処理場新設にむけて、用地確保のために大豆島地区へ協力要請がなされていた。しかし、大豆島地区の反対が強く五十年八月には、白紙撤回された。その後、市長がかわり大豆島東部開発計画案が提示され、再度要請、翌五十一年十二月一日、用地の調印式となった。五十三年一月、東部中央汚水幹線工事に着手、その後、屋島地区や放流先の千曲川漁業協同組合との調印もすすみ、同年九月三十日東部浄化センターの起工式となった。昭和五十六年四月三十日全体計画の八分の一まで完成し、八月一日通水。一日の処理能力二万八七五〇立方メートルで運転を開始した。そして、昭和六十三年三月三十一日二系列目、平成九年三月三十一日三系列目を完成させて順次処理能力をふやし、平成九年四月三日には南部終末処理場を廃止して、東部浄化センターに統合させた。長野市平成五年の下水道計画図は図3のようである。


図3 長野市の下水道計画図 (『広報ながの』平成5年9月1日発行より)

 千曲川流域下水道(下流処理区および上流処理区)は、長野県が事業主体である(図3)。昭和四十六年六月一日、上田市から小布施町までの四市五町村によって、千曲川流域下水道建設促進期成同盟会が発足した。基本計画調査が昭和四十九年度から五十九年度までおこなわれ、都市計画が決定された。その事業認可は下流処理区が昭和六十年度、上流処理区が平成二年度であった。概算事業費一七八〇億円、平成三十年を計画目標年次としている。そして、終末処理場用地となる赤沼地区、真島地区で説明会がもたれ、地域住民に協力要請がだされた。

 下流処理区の長野市域では、北部市街化区域および将来市街化が想定される区域二六〇五ヘクタールを対象としている。赤沼地区で下水道問題対策委員会がつくられ、三五項目の要望がだされるなどの動きもみられたが、昭和六十年度から用地交渉など本格的に事業に着手した。六十二年十一月二十五日には終末処理場の起工式、平成三年三月二十五日には供用を開始し、その後、平成十二年度まで五期の整備拡張計画事業をすすめてきた。なお、赤沼地区の下流処理区終末処理場は、汚れた水を生きかえらせ、たいせつな自然を守る理想郷にとの願いをこめて「グリーンピア千曲」という愛称で呼ばれている。

 長野市の上流処理区では、南部の更北、川中島、篠ノ井、松代地区の市街化区域と、将来市街化が想定される区域およびその周辺三九一二ヘクタールが対象とされている。昭和五十五年九月、信濃川上流流域下水道南部処理場建設反対真島地区期成同盟会が結成され、十一月には知事へ陳情するなどの動きもみられた。昭和六十二年県では計画を見直し用地面積を縮小して、区長会や反対期成同盟へ再度要望した。その後の建設に向けての動きのなかでは、平成四年、長野冬季オリンピックフィギュアスケート会場を処理場内につくることを陳情する一幕もあった。平成五年十月十九日起工式、平成十二年までに三期の整備拡張計画事業をすすめてきた。真島地区の上流処理区終末処理場は「アクアパル千曲」の愛称で呼ばれている。

 観光開発がすすむ飯綱高原一帯は特定環境保全公共下水道として整備をすすめている。また、特定環境保全公共下水道(下流処理区)については、下水道普及促進のために、下流処理区の一部の地区(松代地区と若穂地区)について同制度を導入してすすめているものである。

 下水道整備について長野市でも、受益者負担を課した。昭和四十七年三月一日から開始し、当初一平方メートル一七〇円、一〇等級制で業務の一部を外部に委託した。下水道料金は、当初は水道料金比例制であったが、五十五年九月には従量制に改定された。

 なお、昭和五十九年「下水道でつくる親水の郷 善光寺ホタル郷」のキャッチフレーズで、城山公園堀切沢改修工事が下水道モデル事業として建設省の指定を受けた。これは、雨水調整池とホタルの水路を築造したものである。六十年二月東部浄化センターにもホタル実験水路をつくり、九月には幼虫を放流して研究もすすめた。この取り組みは、平成九年建設省の「いきいき下水道賞」に、また、平成十二年建設省の「甦(よみがえ)る水一〇〇選」建設大臣賞に選定された。


写真37 よみがえる水100選に入った堀切沢

 長野市では平成元年から、下水道マンホールの蓋は市の花と実であるりんごの花のデザインを採用している。なお、平成十三年度末現在、長野市における下水道の人口普及率は六三・九パーセント(国六三・五パーセント・県五九・九パーセント)であった。


写真38 市の花(りんごの花)と実をデザインしたマンホールのふた