カネボウ綿糸長野工場の跡地利用

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カネボウ綿糸(本社大阪市)の合理化計画が発表されたとき、閉鎖される三工場のひとつにカネボウ綿糸長野工場(鐘紡長野工場)がふくまれていた。長野市は、市街地にまとまった広さを確保できる同工場跡地(若里)に着目し、五輪関連事業としての活用をもくろんでいた。十数回にわたる交渉の結果、平成五年(一九九三)十一月、カネボウ綿糸の親会社である鐘紡の社長は、大阪市内での中間決算の会見で、長野市への長野工場跡地の売却が最終段階に入ったことを明らかにした。そして同月十日、長野市役所で、市土地開発公社理事長(助役)とカネボウ綿糸社長が売買契約書をかわした。跡地五・九ヘクタールの買い上げ地価(三・二平方メートル当たり)は、約一五万円であった。

 鐘紡長野工場は昭和十三年(一九三八)に操業を開始し、同二十六年と同五十八年に増改築をおこなった。七万八〇〇〇の紡機をもち、従業員は二五〇人であったが、平成五年十一月、長野工場の閉鎖により、転職を希望しない一八〇人が退職した。

 工場敷地の長野市への売却は、長野赤十字病院移転新築が先行しており、時期的に二度にまたがっていたのである。同病院は昭和五年(一九三〇)市内北石堂町に建設されて以来五十年たち、老朽化が目だっていた。四九〇床のベッドは救急患者用以外、常時満床状態で手ぜまになっており、駐車場問題も深刻であった。そのため、昭和五十年ごろから移転の構想をうちだし、長野市に用地確保を要請していた。そのうえ、市長の諮問機関である長野市医療施設整備協議会から、長野赤十字病院の移転策については、積極的な援助につとめるべきであるとの答申が五十三年十二月にだされた。そこで、市土地開発公社は翌五十四年に、若里の工場敷地(社宅)二・六四ヘクタール(二万六四〇〇平方メートル)をおよそ一四億円で取得し、市が病院に貸与することになった。起工式は五十六年(一九八一)十月二十九日に同工場社員住宅跡地においておこなわれた。


写真43 大本願上人を迎えた鐘紡長野工場
(カネボウ綿糸(株)所蔵)

 新病院は地上八階(一部五階)、地下一階、延べ三万九〇〇〇平方メートルの規模(旧病院のほぼ二倍)で、一〇六億円の巨費を投じてつくられ、五十八年九月に完成した。このうち、長野市は医療行政の一環として、公的医療施設の拡充整備の立場から二〇〇床病棟の建設分をふくめ約二二億円を負担した。病院側の自己資金(借入金を含む)は六一億円ていどで、残りは国・地方自治体の補助金などでまかなった。近代的な医療施設と、七〇〇床のベッドを備えた新病院は、地域の中心的医療機関として、ガン、脳卒中、小児疾患などに力をいれ、あらゆる疾病に最高の医療を提供することになった。病院規模をしめすベッド数は、県下では佐久総合病院につぎ、松本市の信州大学附属病院と並んで二番目である。二一科の診療科を設置し、県下三病院にしかない救命救急センターもある。医師七一人、看護師三五六人を含む全職員数は六九〇人であった。


写真44 昭和58年若里に新築移転した長野赤十字病院 (『長野赤十字病院八十年の歩み』より)

 新病棟が完成し、九月二十二日から入院患者の大移送作戦を実施した。小規模な引こしはすでに始まっていたが、本格的な作業は十九日からの四日間におこなわれた。なかでも入院患者約二五〇人の移送は安全とスピードが要求されるだけに、救急車四台、バス(リフトバスを含む)など合計四〇台の車でピストン輸送する大がかりなものになった。備品などの引こし作業も、四日間に四トントラックで延べ約三八〇台分という大作業であった。落成式は五十八年十月一日に新病院でおこなわれた。

 五十九年度の新規外来は五万五〇〇〇人余のうち、長野市内在住者が六七・二パーセントをしめていたが、県外からも年間一〇〇〇人をこす外来患者があり、利用者数では県下トップクラスであった。こうして利用者が増大し、待ち時間もしだいに長くならざるをえなかったが、三〇億円にものぼる借り入れ金の返済など、苦しい経営のなかで職員一人を増やすことも容易ではなかった。しかし、開院後、ほぼ四年たった六十二年十一月、市から借用していた病院川地は、借入金利の低下などの好条件を機に、買収に切りかえられた。

 いっぽう、平成五年売却の鐘紡長野工場は鉄筋コンクリート造り平屋約二万二〇〇〇平方メートルあったが、そのうち約一万五〇〇〇平方メートルは内部を改装(天井張り、暖房装置・換気装置等設置)のうえ、平成十年(一九九八)冬季五輪開催時に新聞・雑誌などの活字メディアのメインプレスセンターに利用された。五輪後は工場建物を取りこわし、整備したうえで、シャトルバスの発着場、広場や駐車場などの多目的広場にされていた。ただし、跡地内南側のヒマラヤスギの大木は歴史を語る「記念」としてそのまま残されている。

 長野市のフルネットセンターが平成十年四月、マルチメディアを活用して、地域の情報通信網を整備した拠点として鐘紡跡地に発足した。総事業費約四三億円で、国と県が三分の一ずつ補助した。しかし、スタジオ・調整室、マルチメディア編集室、マルチメディアシアターなどの有料施設がほとんど利用されていない状況がつづいた。いっぽう、インターネットなどが自由に使える無料のコーナーやパソコン教室などは人気が高い。

 長野市は、平成十一年四月に中核市に移行するとき、保健所を設置することになっていた。八年十二月の定例市会で、鐘紡工場建物の一部が活用できないか検討するとされていたが、九年三月の定例会では鐘紡跡地に新設すると答弁されている。建設用地としてフルネットセンターの隣に〇・六ヘクタールを市土地開発公社から確保し、保健所ができあがった。


写真45 カネボウ綿糸長野工場跡地に建てられた長野市保健所(左)とフルネットセンター(右)


図4 鐘紡長野工場跡地の略図

 保健所は、総務課、保健予防課、食品衛生課、衛生検査課、それに生活部の健康管理課が健康課と名称変更して、五課体制で発足した。職員体制は中核市として三六人必要であったが、そのうち、当面県から二〇人の職員を、技術資格者を中心に派遣してもらって、五年間に順次市職員に切りかえていくことにした。

 さらにまた、十三年五月、水野美術館の地鎮祭が鐘紡跡地の現駐車場東側の隣接地約〇・五五ヘクタール(五五〇〇平方メートル)でおこなわれた。同美術館は鉄筋コンクリート三階建て延べ約二七〇〇平方メートルの建物と、広さ約二五〇〇平方メートルの日本庭園からなっている。総工費は土地購入費をふくめて約一七億円といわれ、十四年七月二十七日に開館した。収蔵品は、美術館理事長が長年にわたって集めたもので、日本画約四〇〇点におよぶもので、なかには、横山大観、橋本雅邦、菱田春草らの名画がふくまれている。


写真46 水野美術館