昭和五十七年(一九八二)五月、北信で初めて長野市篠ノ井小松原の伊勢神社境内で、松くい虫による枯れ木(松くい虫被害)一六本がみつかった。それ以後、この被害は市内全域をはじめ、上水内郡豊野町や千曲川東部の須高地区にまで広がった。
松くい虫被害の発生を確認して以来、長野市内の被害量は、六十年度までに合計八四七八本(三八八一立方メートル)であったが、その後もしだいにふえていき、とりわけ、平成三年(一九九一)度から九年度までいちじるしい被害量となった(表30)。
もっとも被害の大きかったのは六年度であり、四万八五〇〇本(一万九九九〇立方メートル、被害木処理事業費五七万円)におよんだが、十年度には九〇〇〇本台になり、十三年度には四二二七本にへっている。
被害木の処理については、木を伐採・集積してから薬剤をかけ、全体をシートで被覆密閉するくん蒸処理があげられる。駆除作業は四月からマツノマダラカミキリの成虫が羽化する六月までに実施され、処理は森林組合などへ委託された。長野市での発生は、被害材を他県から持ちこんだのが原因とみられていたため、木材、建設業者は被害材とみられる材木の焼却をもとめられた。
伐採の過程で手ちがいによるトラブルも発生した。県と長野市が松くい虫防除の際、所有者の同意を得ずにアカマツを伐採していたことが明らかになった。無断でアカマツを伐採されたのは篠ノ井石川の所有者であった。自宅近くの山林で樹齢五〇~七〇年の松二〇本ほどがいつの間にか伐採されていたことに気づき、一部は立ちがれの木もあったが、大半は木造住宅の梁(はり)などにも使える良材で、損害は六〇万円ほどになったという。しかし、行政側は折れなかった。松くい虫の被害がでたアカマツを伐採するのは県で、実際は地元市町村を通じて森林組合に伐採作業を委託していた。
こうして、県の松くい虫駆除支援センターの応援を得て防除の徹底につとめてきた結果、被害量は大幅に抑制されて、平成十二年には、被害本数三六八一本(二一五六立方メートル、処理事業費六万六〇〇〇円)に減少している。
林業構造改善事業は、第一次事業(昭和四十五~四十七年)につづいて第二次事業(同四十九~五十二年)が実施され、その目的は、林業の生産性および収益性の向上により所得の増大を期することにあった。さらに、零細で分散的な林業経営を、協業の推進(芋井・若穂の林道六路線)によって、また、労働力の減少を、多数の林道をつくったり、あるいは間伐・下草刈りなどをまとまった面積でおこなう団地形成・集約的施業など(松代町西条桐宮線など)によって、それぞれ地区の立地条件に即した方法で克服しようとするものであった。
これら第一次・二次でなしえなかった間伐対策を間伐促進など特別対策事業で、採算もとれなかった基盤整備事業や特殊林産物など生産施設設置事業を、追加林業構造改善事業(昭和五十四~五十五年)で実施した。具体的には若穂、篠ノ井共和、川中島、安茂里で、しいたけ生産組合を事業主体として、林内作業車・チェーンソー・冷蔵施設・加温機などにたいして、四二一〇万円の補助金が交付された。
しかし、これに先だつ昭和五十三年度における林業生産額は、六億八二三二万円で農業生産額の四・四パーセントにすぎず、林業生産額はきわめて低かった。また、総農家戸数にたいする林野保有戸数は三七・三パーセントであり、さらに、林業従事者は五二九人で農業従事者二万三七九一人に対する割合は二・二パーセントになっていた。このようなことから、林業経営は依然としてきわめて零細であった。
こうした困難な条件のなかで、昭和五十七年(一九八二)から平成元年度(一九八九)までの新林業構造改善事業は、それまでの林業事業を生かしつつ、地域林業の振興と山村地域における林業の担い手の養成確保を基本的なねらいとして実施されたものである。
第一のねらいは、地域林業の振興をはかるためには、林産物の加工および加工品の販売に必要な設備などを整備する事業を、新たな事業目的としていた。それは、長野市林業振興協議会(林業研究グループ・きのこ振興会・山林種苗組合・キハダ生産組合)の結成や地域林業組織化推進事業として、松代町豊栄(関屋)の育林と信更町田野口の林道篠山線の開設に具体化された。
第二のねらいは、林業の担い手の養成確保をはかるために、林業者のニーズに即応した生産、生活環境の整備をし、山村にある資源を活用した就労の促進等、林業者の定住条件を整備するための事業種目を新たに加えることであった。これらは、林業生産基盤整備事業として、林道開設(若穂、浅川)や林業者定住化促進事業として、集会用建物の建設、早期特用樹林育成事業で育林がともに七二会で施行された。
さらに、林業構造改善事業として、平成三、四年度には林道の整備、森林施業モデル団地の整備を、また、四、五年度には林業者等の就業の場の確保、生活環境の整備を促進する目的で、林業山村活力増進モデル事業をおこなった。森林体験交流促進施設整備事業に関しては、松代町西条地区に森林体験・交流をはかるためのレクリエーション施設として、林間広場・森林浴歩道(一〇二一メートル)・駐車場などを整備した。また、同時に同施設利用促進のために、林道桐宮線舗装(一〇八三メートル)工事も実施した。これらは、事業費一億円近くを投じて、林業者などの就業機会の確保、生活環境の整備をねらったものである。これらにより、国の施策である林業構造改善事業は完結し、以後は、長野市独自(第一次・第二次)の林業振興計画に引きつがれた。
平成四年二月から十二年までの第一次長野市長期農林業振興計画により実施された状況は、つぎのようである。
①森林資源の整備として、天然林の伐採と人工林の植林によって平成元年度人工林八四五四ヘクタールを、十二年度には八七三一ヘクタール(三パーセント増)を目ざした。しかし、十二年度の人工林の実績は、元年度以下の八三五七ヘクタールにすぎず、森林を取りまく経済環境のきびしさを物語っている。
②林道、治山施設の整備として、森林資源の高度利用と林業生産活動の活性化をはかるため、林道等の林業経営基盤の整備を促進した。その結果、林道は一八三キロメートルから四・六キロメートル延長している。
③しいたけなどのきのこ類やキハダの特用林産物については、短期収入を得る作目として、適地植栽による集団化を促進し、産地形成を推進しようとした。しかし、生しいたけ、なめこは外国産におされ、前者は二年の九二トンから十二年度には一五トンに激減した。それも、松代しいたけ生産組合ほか五団体によって担われているにすぎない。後者は同じく四二トンから二七トンにへっている。ちなみに、農産物にふくまれるえのきだけは元年度の五六二二トンから十二年には二七二七トンに減少している。
④このほかに林業経営の担い手の育成、林業技術の普及、環境緑化の推進などの事業が推進された。
この振興計画に先だって明らかにされた『一九九〇年世界農林業センサス』によれば、一ヘクタール未満の森林所有者が六七パーセントをしめ、零細な所有構造になっている。サラリーマン化、組合役員の高齢化などにともない、管理の行きとどかない森林がふえているため、管理体制の充実をはかる必要があった。また、山林手いれ状況アンケート(長野市独自集計)結果では、手いれをしていない個人林家は六七パーセントにおよんでいる。高度成長期を通じて山村部の過疎化とともに、長野市(とりわけ市街地)在住の非農家林家の激増は、林業の荒廃を推測させる(表31)。
このような荒廃を食いとめるために、長野市では、皆伐可能な条件にある私有林の所有者と五二四ヘクタール分の分収造林契約をむすんでいる。その収益の分収割合は、昭和三十九年当初は五割ずつであったが、造林・保育事業が難しくなるにつれ、しだいに市側の取分比が多くなってきている。ただし、平成元年の改定以後は、市八割、私有者二割の比率が据えおきになったままである。
第二次長野市長期農林業振興計画は、第一次のあとをうけて平成十二年から二十二年にむけて施行されている。そのうち、森林・林業振興の基本方針は、つぎのようなものである。
①長野市の森林・林業の将来にむけて、生産基盤の整備、計画的な造林・保育と特用林産の生産を推進する。
②自然景観の保持、水資源かん養、災害の防止、保健休養の場として、重要かつ多様な機能を果たしている森林資源の保全につとめる。
③森林の総合的利用の観点から、市民が自然の恵みと豊かさを享受できる調和のとれた森林の整備をすすめる。