長野市と松本市を結ぶ国道一九号のうち、長野市安茂里小市と東筑摩郡生坂村までの四五キロメートルは犀川にそって山にはさまれ、とくに落石・土砂くずれ、転落事故の危険が大きい道路で、全国の国道のなかでも指折りの悪路であった。このルートは通称犀川線とよばれ、生坂から安茂里までは昭和初期に一二の橋が架けられた。山ぎわにコンクリートの壁をつくり、その上の崩れやすい山はだをコンクリートで固める斜面防護壁の強化や急カーブの改修、道幅の拡幅、老朽化した橋の架けかえなどの工事は昭和四十七年(一九七二)以降ラッシュを迎えた。どの橋も最短距離に設計してあり、川と橋が直角に交差していることから、大型車の通行が不便で、橋が渋滞をつくりだす原因の一つでもあった。橋の架けかえを強く望む利用者の声は前々からあったが、橋までの用地買収が思うようにすすまないなどの難点をかかえていた。一二の橋のうち、古い橋のままで残ったのが水篠(みすず)橋・大安寺橋・明治橋・両郡橋の四つであった。
昭和六十年一月二十八日午前五時四五分、日本福祉大学の学生を乗せた三重交通の大型スキーバスが大安寺橋を渡る直前のカーブを曲がり切れずに犀川の笹平ダムに転落、二五人が死亡した。バスは急カーブの途中からほぼ一直線にコンクリート製の橋の欄干とガードレールを突き破って水深四~五メートルのダム湖に水没した。スピードの出しすぎと急カーブに気づくのが遅れたことに事故の原因があった。大安寺橋の架けかえ工事がすすむ最中の事故であった。
橋幅を拡張し道路と橋の鋭角のつなぎを解消する橋の架けかえは、水篠橋からはじまった。長さ一五五メートル、幅約一四メートルの新橋は五十三年に完成、橋のもつカーブが半径一五〇メートルになり、橋と道路が緩やかに接続され、しかも橋幅が今までの橋の倍となり、大型車同士のすれ違いや橋への出いりがスムーズとなるなど往年の問題が解消された。
つづいて着手したのが昭和四年に架設した幅五・五メートルの大安寺橋であった。当初は六十一年三月に完成予定であったが、バス転落事故を契機に工事を早め、六十年九月に「大安寺新橋」の渡り初(ぞ)めがおこなわれた。新橋は大安寺橋の上流約二五〇メートル地点から橋の左岸たもとまで、長さ二九一メートル、幅一三メートルで、両側に歩道も設けられた。総工費約三〇億円であった。これにより大安寺橋を渡る直前の半径約五〇メートルの急カーブは解消された。
明治橋は橋と国道のつながり方が不自然で、その上橋の幅が五・五メートルと狭く、大型トラックとはすれちがうことができない橋であった。そのうえ松本方面からは下り坂の上にカーブが直角に近く通称「魔のカーブ」と呼ばれていた。新しい橋は、全長約一四〇メートル、車道幅七メートル、両側に二メートルずつの歩道を取りつけたもので明治橋の下流に平成六年に完成した。併せて橋の前後一・三キロメートルが拡幅された。
両郡橋は犀川にかかる橋のなかで最も狭い橋であったが、小田切と篠ノ井を結ぶ重要な橋であった。しかし、橋の両側で国道がほぼ直角にカーブしているため見通しも悪く、また、雨が降ると両側の低い部分に水がたまるなど問題をかかえていた。しかも、バス停が橋の南側にあるため、バス利用をする小田切地区の小・中学生や保育園児・村びとたちは、そのつどこの橋を渡らなければならず、激しい交通ラッシュのなかで、事故と背中合わせの危険な毎日を送らねばならなかった。地元では「もっと人間優先の橋に」ということで、歩行者専用橋の併用をという願いが四十八年ころからあった。昭和五十三年に長さ五五メートル、幅二メートルの歩行者専用橋が完成した。この橋はつり橋で、斜張橋とよばれる工法を取りいれた日本で初めての橋であった。新橋は川幅が一番狭くなる場所に約八〇メートル架けることになり、平成になってようやく橋の取りつけ部分の道路付けかえのため山を切りくずす工事がはじまった。この橋は平成六年に完成した。
明治橋と両郡橋の間にある双子トンネルも幅が六メートルと狭く、その上トンネルの前後は崖くずれの危険もあるため、全長約七三〇メートルの新しいトンネルを掘り、小田切ダムまでほぼ直線で結ぶよう改良された。
通称「もぐり橋」といわれる「平三水(たいらさみず)橋」は、信更町三水と上水内郡信州新町の国道一九号を結ぶ市道の橋で、昭和三十八年にできた。この橋は信更町三水、上尾、氷(ひ)の田などの住民にとっては国道に出る一番たいせつな道である。しかし、橋の高さは河床から最高二メートル前後しかなく、ダムの放流や増水のたびに水面下にもぐり、渡れなくなってしまう。「もぐり橋」の名はここから出ていた。昭和五十一年、「安心して渡れる永久橋に」という地元の声が実り、総工費二億七〇〇〇万円で工事が始まった。橋の上流八〇メートルの所に高さ一八メートル、長さ一一五メートルの鉄筋コンクリートの永久橋が昭和五十三年の長野国体にまにあうように完成した。
腐った欄干から小学生が転落死した小笹橋(篠ノ井村山-七二会飯ノ森間)は、事故から三年後の四十七年から工事が始まり、鉄製の永久橋となった。工費は約一億六五〇万円であった。事故の数年前から架けかえの要望があったが、小学生の転落事故で着工が早まる結果となった。
安茂里と川中島町四ッ屋を結ぶ犀川の小市橋に「自転車・歩行者用道路をつけてほしい」という要望は国道一九号の工事がすすむにつれてあがってきた。この橋は工事中の混雑をさけるために迂回路として利用が急増、大型トラックも乗りいれるようになった。五十六年には「午前七時から午後七時までに五一七六台の自動車が通過し、一八〇人余が橋を渡った」という県の調査結果がでた。五十九年の段階で自動車が一〇〇〇台以上、歩行者が一〇〇人以上利用する橋のなかで歩道・自転車道のない橋は落合橋・川中島橋・村山橋・小市橋の四橋を数えた。そのうち、落合橋は架設中、川中島橋も改修による架設が見こまれたが、市は小市橋について県に早期架設を陳情、自転車と歩行者の通路部分を張りだす添架形式での架設が決定された。しかし、この時期、国庫補助の橋梁整備事業は長野県下で二八橋が順番まち、交通安全施設整備事業だと七瀬の信越線ガード下への自歩道設置など、継続事業が目白おしで厳しい状況にあった。県の道路維持課は「はやくても七瀬ガード下が完成した翌年の着工」との考えを示し、要望実現には遠いものがあった。
旧国道一八号の犀川と裾花川の合流点にかかる丹波島橋は、長野市の中心部と市の南部を結ぶ要(かなめ)の役目をになっている。昭和八年に完成した当初四〇年から五〇年の寿命といわれていたが、大型車の増加や一日約二万七〇〇〇台の通過という予想以上の交通量のため、昭和四十年代に入り鉄筋コンクリートの床がへこんだり、抜けおちたりした。また橋げたの鉄骨や橋を包んでいる橋組のなかにも寿命のきているものがあるなど老朽化が目だってきた。そのため、そのつど鉄板やアスファルトで応急修理をしてきた。その場所は一五ヵ所、「全面修理が必要である」という声は一〇年程前からあったが、松代地震の最中に修理するのは危険ということで延びのびになってきた。ところが修理は少なくとも数ヵ月は通行どめ、迂回路は中氷鉋交差点と荒木交差点から長野大橋に向かうルート、篠ノ井や川中島町の西部からは農免道路を通って小市橋の利用となる。長野大橋県道関崎川中島線は大混雑、小市回りはせまい道路での渋滞が予想され、結局迂回路のめどがたたず四十八年度は修理が見おくられた。そこで浮上したのが現橋のすぐ下流に二車線の新橋をつくり、現橋も大修理して下り専用にするという案、青木島・丹波島・鍛冶沼・東部・四十二石・大塚第一・第二の地元七地区を主体とする「丹波島橋新設促進期成同盟会」を五十一年に発足させるなど地域運動で盛りあがりをみせた。五十五年には新橋架設のための橋の型工法を決める基礎調査が始まり、丹波島新橋に向けて動きだした。五十六年には、①建設省が現橋の下流に平行して二車線の橋を架設し、現橋を取りこわす、②取りこわしたあとへ県が第二の橋を架設する、というように国と県との協議が成立し、五十八年十一月から工事に着工した。工事は渇水期の十一月から翌年の五月まで、五十八年、五十九年で橋脚や橋台を建設、その後鉄筋コンクリート製床版をかけ、現在の橋を取りこわし、六十二年度には開通の予定ですすめられた。総事業費約四八億円で新丹波島橋は、当初の計画よりも早く着工以来四年で完成した。機能としての橋ばかりではなく、欄干には四六枚のレリーフ、デザイン照明灯、両岸のミニ公園やインターロッキング歩道などうるおいのある橋となった。新橋完成後、橋の取りこわしは六十二、六十三年度におこなわれ、さらに、片側一車線の二つ目の新橋となる四車線化にむけての新橋着工は、平成二年から始まり五年三月には通行が可能となった。橋の四ヵ所にはバルコニーを設け、そこには江戸時代の渡し船から昭和六十一年まであった鋼橋までをレリーフで表現し、橋の歴史がわかるようになど工夫がされた。それにあわせて北側は九反(くたん)の交差点まで、南側は県道長野・真田線との交差点まで車幅が一三メートルにまで広がり、渋滞緩和に一役かった。
長野市の更北地区と若穂を結ぶ県道関崎川中島線の千曲川にかかる関崎橋(若穂川田)は、千曲川と犀川のなかで最後まで木橋であった。長さ二二三メートル、幅三・四メートル、水面からの高さ約四メートルで、四トンまでの重量制限がされ、同時に二台以上の乗用車がのることが不可能な危険な橋であった。新しい橋の完成後は取りこわされることになっていたが、映画「笛吹川」のロケにも使われたことがあり、「車が通らなければ遊歩道として残せないか」と保存の声もあがった。工事は四十六年度に始まり、四十八年度に完成した。用地買収もふくめての事業費は約六億円で、長さ五四〇メートル、幅六・七五メートル、車道の片側に一・五メートルの歩道がついた鉄筋コンクリートの橋脚に鋼製の橋げたの永久橋が誕生した。
篠ノ井と松代を結ぶ県道松代・篠ノ井線の千曲川に架かる赤坂橋は、昭和三十一年に木橋から鉄橋に架けかえられたが、全長二〇二メートルのうち一五二メートルが幅五・五メートルの鉄橋、残りは五メートルの木桁橋という「全国でも珍しい中途半端な橋」であった。この橋は上流の岩野橋と下流の川中島橋のほぼ中間に位置する橋で、路線定期バスが通るなど主要な道に位置していたが、中途半端な橋のため、松代側は堤防畑地を通らなければならず、出水時には水没、通行どめになるという問題をかかえていた。しかも道幅がせまく、大型車もすれちがうことができない状態でもあった。このため、四十七年に松代・篠ノ井両地区や商工会議所、市、市議会で構成する赤坂橋建設期成同盟会が設立され、早期架設をもとめてきた。県は下流に全長七〇〇メートルの新しい橋を提案したが、篠ノ井側が反対、以来計画案は五案が提案されたが、五十年代には一本化の見とおしがたたずそのままであった。六十年代に入り、ようやく促進期成同盟会が長さ五二四メートル、両側の歩道をふくめ幅九・七五メートルの新案を了承した。この新案は現橋より約二〇〇メートル上流の場所で、工事が急ピッチでおこなわれている。
篠ノ井と更埴市を結ぶ国道一八号の千曲川に架かる篠ノ井橋は全長四五八メートル、車道幅八メートル、両側に二・五メートルの歩道を取りつけ昭和四十七年一月に完成した。新橋完成後、使われなくなった旧橋は丸太や交通標識で入り口をふさぎ、通行どめになったまま数年間放置されたままになっていた。新橋の完成後取りこわす当初の計画が約七〇〇〇万円のこわし賃がかかること、経済不況下のもと総需要費抑制のあおりで予算計上しても予算がつかないことに原因があった。沿線住民からは「歩行者や農作業時のみ通行可能にして」「使わないのに放置しておくのは見ぐるしい」「もし、子どもたちが入って川に転落したらだれが責任をもつのか」などという放置にたいする批判があった。平成三年(一九九一)には、旧橋をとりさり、そのあとに二車線の下り専用橋が架けられ、上下線あわせて四車線の新橋が完成した。
主要地方道長野真田線の千曲川に架かる川中島橋の架けかえの動きは、上信越道の長野インター設置が松代町西寺尾に決まるのをうけて五十七年から具体化してきた。川中島橋を通過する車は、一万四〇〇〇台余から高速道路開通後は三万四〇〇〇台と見こみ、長さ五六八メートル、幅二三・八メートルの四車線の計画で、あわせて西寺尾から篠ノ井バイパスまで二・七キロメートルの整備をするものであった。用地買収の対象となるのは約八七〇〇平方メートルで、六十一年度には用地買収を完了し、橋の架設に着工、平成六年に完成した。