「長野市内の自動車登録台数は、五十年以降毎年六〇〇〇台以上ふえつづけ、伸び率は前年比七・五パーセントから八・二パーセントと車はふえつづけるいっぽうだ。市街地や主要幹線の慢性渋滞は相かわらずで市などは一人乗りマイカー規制など訴えるが、効果はあがらない」(『信毎』)と報じられたのは昭和五十四年九月のことである。これより先、市では「県都の交通事情の行きづまりを打開し、地方中核都市に望ましい交通体系を模索」する交通対策委員会を発足させた。具体的には、①渋滞がはげしい国道一九号の渋滞解消、②交通セル方式にともなう市中心部の交通規制、③新設長野大通りのバス路線、バス停問題、④通疎バス対策、⑤通学路の安全確保などを話しあい、これには市内における交通機関の確保と交通渋滞の緩和、交通安全対策や交通公害の解消をはかる目的があった。五十三年には自動車の騒音と振動調査を国道一八号、同バイパス、国道一九号の三沿線など一六地点でおこない、さらに午前七時から九時まで二時間、長野大橋など市街地と周辺部の接点となる一〇地点で交通量の調査をおこない実態把握にのりだした。二年間実施した交通量調査によると一人乗りマイカーは一年前よりも六・一パーセントの増加を示し、一〇ヵ所の交通量合計一万九四二七台のうち、一万二五七七台と全体の六五パーセントをしめた。地元新聞は「市は国、県などといっしょに時差出勤、一人乗り自粛のPRに力をいれているが、一人乗りの車が逆にふえるなど掛け声倒れに終わった格好」「昨年よりも六パーセントもふえ、迫られる抜本対策」と対策の不十分さを指摘した。「交通問題でまず解決してほしいのは」についての市民アンケートでは、回答者二六五人のうち八三人が「渋滞解消」をあげ、「駐車場確保」と「道路の新設・補修」、「安全施設の整備」がそれにつづいた。道路建設は道路課、交通量調査は都市計画課、安全施設は交通対策課、駐車場は商工課といった市政の担当部局の「バラ売り対策」では交通渋滞の解消にはつながらないと指摘する声もあった。
新興住宅地にあっては住宅だけを造成し、幹線は不整備の状態が長くつづいた。市の北部地域では「開発ばかりが先行」「伴わぬ道路改良」「つのる不満」「マイカー規制は限界」の状況であった。
また、昭和五十五年に作成された「長野市都市計画図」によると、総延長二二四キロメートルにおよぶ都市計画街路のうち、整備改良したのは四七キロメートルにすぎない。「だから長野市はいつまでたっても渋滞の巣、渋滞地獄」(『信毎』)という声に代表されるように、犀川・丹波島橋を中心とした一八号や松本方面からの国道一九号、若槻・浅川方面からの県道長野信濃線など、県下有数の渋滞区域を東西南北にかかえていた。
若槻地区を中心とした浅川・湯谷・徳間・上野・駒沢地区は、県企業局の若槻団地分譲を引き金に宅地開発がすすみ、人口急増地域となった。この北部地区と市街地を結ぶ幹線道路は、旧北国街道の県道牟礼長野線一本だけで、しかも道路幅が平均六・五メートル、せまいところは六メートルにみたない。新興住宅地の登場とともに、朝夕のラッシュ時を中心に渋滞が慢性化、しかも雪の日には坂道で車が身動きできず、二、三キロメートルにわたり車の列のできるのも珍しくない状況にあった。地元の区長らで組織した道路関係研究委員会は、徒歩調査により牟礼村から稲田までの四キロメートルには、①バスのすれちがいもままならない、②歩道もない坂道、③カーブが視界をさえぎるなど危険箇所が一二にのぼるなどと指摘された。また、若槻小学校前の横断歩道では、朝七時半から八時半までの間に約七〇〇台の自動車が行き来する。「道路をつくれ」という強い声は「県道牟礼長野線改良促進期成同盟会」となった。この動きを受けて、市は市道城北線(通称SBC通り)から国立療養所東長野病院入り口で県道につなぐ「ミニバイパス」路線を計画した。「ミニバイパス」は、県の市道城北線吉田交差点西側約三〇〇メートル付近から北へ県道西側に並行して、若槻小学校西側から市水道局蚊里田浄水場付近を通り、田中地区で県道に合流するバイパス建設にあわせて、浅川西条地区から若槻東条地区を結ぶ関連道路で、延長三三〇メートルを道路幅一二メートルにするものであった。牟礼村の国道一八号までの県道バイパス建設の全線ルートは、平成三年に決定、平成八年に全線が開通した。
長野篠ノ井バイパスは、川合新田の長野大橋から小島田町、川中島町を通り、篠ノ井橋北端で国道一八号と合流する延長約八キロメートルの道で、渋滞の激しい国道一八号にかわる長野市街地への新しい幹線道路として建設省が四十八年に計画した。用水路整備工事は五十年に始まり、翌年から本格的な道路建設に取りかかり、五十七年に全通した。総工費は約一三七億円、用地買収にその半分を費やした。建設省が篠ノ井バイパスの計画線調査に入ったのは三十八年のこと、実に二〇年以上経過しての開通であった。しかし、青木島町大塚から篠ノ井小森までの五・五キロメートルで県道や市道が交差するのは三八ヵ所、その内地下式車道は四ヵ所、歩行者横断地下道は七ヵ所、中央分離帯による平面交差は一二ヵ所で、残りの一五ヵ所は閉鎖された。地元では「せっかくバイパス建設に協力しながらこれまでより不便になるのはどういうわけだ」との声も聞かれた。生活道確保のためにバイパスには八ヵ所に信号機がついた。車利用者からは「これではなんのためのバイパスかわからない」との声もあがった。幅二九メートルのバイパスを横ぎれる交差点は限られており、バイパスで家と農地を分断されたのをはじめ、郵便局や農協への用たしなど不便な点が指摘された。また、交差点での事故が続発するのも大きな問題となった。
朝のラッシュ時は安茂里地区の国道一九号、国道一八号の長野大橋付近、国道一一七号の丹波島橋付近でとくに交通渋滞がはげしい。安茂里から上水内郡信州新町にかけての国道一九号は、上水内郡からの通勤をふくめ、年々交通量は増加傾向にあり、「ひたすらしんぼう」の道であるといわれた。さらに渋滞をさけるために「わが道を」と農業道路や生活道路を見つけて閑静な住宅街へ入りこみ、周辺住民の生活環境への影響などあらたな問題も浮上してきた。そのため地元では期成同盟会をつくり、渋滞解消を目ざしての運動がはやくから活発に展開した。市でもこうした動きに合わせて、渋滞解消のために「バス停車帯」、裾花踏切の立体交差化、犀川左岸のバイパス堤防などが具体化してきた。
国道一九号が近くを通る安茂里の犀北・宮沖・伊勢宮の三団地内では国道をさけて、団地内を通りぬけ、市街地に向かう車が急増した。伊勢宮地区での調査によると、午前七時三〇分から八時三〇分までの一時間で進入してきた車の数は三三〇台余にのぼった。地元では、長野中央署などに対策の陳情を繰りかえした。警察では大型車の進入規制と四〇キロメートルの速度制限を実施したが、地元新聞が「長野市安茂里の三団地難航する車規制 住民の足も絡んで複雑」と判断したように、西河原交差点での交通規制には、地元住民の願いを十分に反映するものとはならなかった。
慢性的な渋滞を少しでも解消しようと考えだされたのが、定期バスの停留所を道路から離す「バス停車帯」の設置である。安茂里差出から小市までの約五キロメートルにある一六停留所が対象となった。これはバス停の道路わきに、バス幅のレーンを新設し、乗客の昇降で後続車の運行を妨げないようにするもので、年間二、三ヵ所設置の計画ですすめられた。市のバス路線対策事業費年間一三五〇万円のうち、停車帯一つの用地買収に平均四〇〇万円が当てられた。これにより、バスが停留所に止まるたびにじゅずつなぎとなった問題は解消された。
国道一一七号の中御所・荒本間三七〇メートルには五十九年から交通量に応じて道路の中央線をずらす「中央線変移方式」が、中氷鉋・青木島間には六十一年十月から「バス専用レーン」が整備された。中央線変移方式は、朝の通勤時の路線バスのスピードアップに役だち、五十六年にくらべると七分から二〇分の時間短縮となった。
国道一九号、県道長野大町線交通渋滞解消期成同盟会が提唱してきた、犀川左岸に新しく堤防を建設しその上を国道一九号のバイパスにという動きは、五十五年以降具体化してきた。市内の裾花川合流点から信越線鉄橋まで二・六キロメートルを第一期工事、鉄橋から上流一・六キロメートル、善光寺平用水取り入れ口付近までを第二期工事、堤防は高さ四メートル、幅七メートル、この上をバイパスにするという建設省の提示した計画にたいして、地元安茂里地区築堤・バイパス対策委員会では「耕作地の犠牲大」としてルートをもっと川よりに寄せるよう変更をもとめた。地元地権者のすべての合意を得られたのは五十八年一月、五十九年度から着工、六十二年に堤防道路が完成した。
長野への東の玄関口ともいえる通称東(あずま)通りの都市計画街路としての整備は、昭和三十三年に事業決定したが、本格的に舗装が始まったのは一〇年後の四十三年のことであった。
長野市と須坂方面を結ぶ主要地方道長野須坂線(平林街道)の内、田町から柳町の北長野通りまでの八七〇メートルが、幅七メートルから二五メートルに拡幅、分離帯付の四車線道路に改良されたのは五十一年七月のことであった。拡幅工事に取りかかったのは四十年八月から、約五〇軒が移転や一部家屋の取りこわし対象となった。一九軒が立ちのき移転した。移転補償などふくめた工事費は、九億五〇〇〇万円であった。この路線は、国道一八号バイパスと長野大通りに接続、市中心部からの東部方面への動脈の一つとなった。
県庁大門町線は南長野の県庁前を北上し、信州大学教育学部前から東へ延び、若松町、大門町を通って田町で長野大通りと交差する延長約一・八キロメートルの道である。この都市計画街路は、四十年に二二メートル幅の四車線道路と都市決定された。四十四年に県庁前から信州大学教育学部前までが四車線道路となり、環状線としての整備がはじまった。地元の住民は「整備は十年来の課題。市街地北側の商店街に活気を取りもどすのに欠かせない」と期待をよせる。環状線整備は平成九年に完了した。これにより、長年の懸案であったセル方式による環状線が完成した。
市の縦貫道路構想は、六十二年から六十三年にわたって見なおしをすすめた都市計画のなかでうまれた。縦貫道路は両郡橋下流の犀川右岸・篠ノ井小松原から稲里町・中氷鉋を通り、更北中学校近くで国道一八号篠ノ井バイパスと交差し、さらに真島町を通って落合橋上流で犀川をこえ、大豆島から北上して国道一八号に出るというものであった。この時点で都市計画街路七五路線、二三四キロメートルのうち改良が済んだのは六一・四キロメートルで、二六・三パーセントにすぎないという現状から「夢のような縦貫道路を実現させるためには積極的で息の長い取りくみが必要」(『信毎』)との声も出た。この縦貫道路は平成十年に開催した長野冬季オリンピックとの関連で、両郡橋から青木島町大塚の国道一八号までは南外(そと)環状線として、さらに柳原の国道一八号までは車外環状線として、市は「二十一世紀にむけた都市基盤整備の根幹」に位置づけ、平成二年から建設が具体化してくる。五輪開催にあわせて急ピッチですすめられた道の新設・改良は、九年十二月の国道一九号長野南バイパスの全通をもって当事者は完了とした。しかし、車外環状線で新設されたのは大豆島の五輪大橋までで、国道一八号に接続する柳原までの二・三キロメートルはまだ事業化のめどはたっていなかった。「五輪輸送ルートは確保できたものの車外環状線は北長池から国道一八号への接続部まで未着工区区間が中途半端に残され、道路環境はアンバランスのままだ」と、この現実をマスコミは報道した。