地附山地すべりの災害

664 ~ 668

昭和三十九年(一九六四)長野県企業局によって、地附山の山麓を経て戸隠にいたる観光有料道路の戸隠バードラインが開設された。その開設の約一〇年後の昭和四十八年から道路構造物を中心に変状が発生した。その変状は昭和五十六年からさらに著しくなったことから、県企業局は民間地質調査コンサルタント会社である(株)中部地質に調査を依頼した。この調査報告書に基づいて、昭和五十七年に県企業局はアースアンカーや排水溝などの対策工事を実施して、変状はいったんは収まった。ところが、翌五十八年九月台風一〇号により、長野市が記録的な豪雨に見舞われたあと、バードラインに再び変状が認められた。そこで、県企業局は応急対策工事を施すとともに、新たに明治コンサルタントに調査を依頼し、その報告を受けた。しかし、抜本策が講ぜられることなく、五十九年春から六十年夏にかけて地附山一帯にわたっての斜面の亀裂、陥没、崩落、路面の段差のひろがりなどの変状がきわだつようになった。

 とくに、昭和六十年(一九八五)六月八日から七月十五日にいたる三七日間にわたる梅雨による降水量は、平年の三・三倍にも達し各地に被害をもたらした。そのため、七月十二日からバードラインの地附山山腹部分二キロメートルほどは全面通行止めとなった。

 同年七月二十日の深夜から未明にかけて、湯谷団地裏山の地附山斜面の崩落と泥流により、湯谷団地自治会長の判断による深夜の避難呼びかけに始まり、湯谷団地は恐慌状態におちいった。二十一日午前一時すぎ団地グラウンド周辺一三二世帯四三三人が湯谷小学校に緊急避難をした。午前二時三〇分長野市は災害対策本部を設置し、四時から五時にかけて泥流の状況調査をおこなった。二十二日に湯谷団地住民は県企業局へ緊急対策を要請し、二十三日に湯谷団地緊急総会を開いて、自警団組織・避難方法・陳情などについて協議した。翌二十四日代表が県知事に緊急対策の実施を陳情し、湯谷団地自警団を結成した。団地内五〇歳未満の男性四五人が、四人一組でパトロールを始めた。


写真65 地すべりが湯谷団地の住宅を押しつぶす(『真夏の大崩落』より)

 大崩落のあった七月二十六日は、地附山一帯は県の地すべり対策委員会のもとに、観測機器を駆使しての二四時間の監視体制下にあり、午後四時三〇分湯谷団地一部世帯には避難指示が出されていた。午後五時ころ、地附山の南東斜面で、大規模な地すべりが発生した。その規模は幅約五〇〇メートル・長さ約七〇〇メートル、深さ最大約六〇メートル、面積約二五ヘクタールに達し、動いた土の量は推定約三六〇万立方メートルという膨大なものであった。

 まず、展望台付近の緑の山腹が横一線に裂け、その下の部分が土煙をあげて崩落し、その一部が湯谷団地北部に迫った。また、同じころ湯谷団地から見ると西の斜面上に土煙があがり土塊が動きだし、その中央部が湯谷団地南西部に向かって地すべりを始めた。やがて崩壊する土砂によって団地の家々がおそわれていくなかで、午後四時三〇分には松寿荘を除く湯谷団地および湯谷の二七二世帯、八六三人へと避難指示が拡大された。その後、さらに望岳台団地・上松・滝の一部へと避難指示はひろがり、総避難世帯数は六〇五、住民数は一九三二人にのぼった。そのうち、一〇〇〇人以上の人たちが、それぞれ近くの湯谷小学校・城山小学校・長野高校の体育館などに避難した(『真夏の大崩落 長野市地附山地すべり災害の記録』)。

 地附山地すべり災害でもっとも悲惨だったのは、二六人の犠牲者を出した松寿荘であった。それは、関係者のほとんどが崩落の危険を予想せず、避難指示が出されなかったからである。五時ごろ夕食を済ませた、寝たきりのお年寄りをふくむ一九八人(入院等の外出者二一人を除く)の入所者は、地附山西部斜面からの大崩落の土砂のなかに巻きこまれ、一号棟から五号棟までの五つの収容棟が全壊した。崩落直後から翌二十七日午後にいたる救出活動の結果、入所者二一九人のうち死亡者五人、行方不明者は二一人であった。その後七日間、県警察レスキュー隊を中心とする行方不明者の捜索活動がつづけられ、つぎつぎとお年寄りの遺体が収容された。八月一日午後、最後の遺体が発見された。

 昭和六十年十一月七日現在、地附山地すべり災害長野県対策本部が発表した松寿荘をふくむ人的・住居などの被害はつぎのようであった。

 ①人的被害  死者 二六人(松寿荘)、重傷 一人、軽傷 三人

 ②住居被害  全壊 五〇棟四七世帯一五七人、松寿荘 五棟

        半壊 五棟四世帯一四人

        一部破損 九棟九世帯三二人

 災害後、二次災害の防止対策の進行に則して、十二月三十日までに避難世帯の大部分は、避難指示が解除された。しかし、H鋼内世帯(地すべりの末端部に土砂の流出を防ぐために打ちこまれた鋼鉄製杭の中の七六戸の世帯)が全面的に避難解除がなされたのは、翌六十一年十二月二十三日であった。

 この間、六十年八月十日に湯谷団地地すべり被災者の会が発足し、安全対策と復旧などをもとめて市議会に請願、県との復旧案について交渉を詰めて、六十一年六月三十日両者間に宅地買いあげ等について合意書が取りかわされた。翌六十二年三月、被災者の会が解散したあとの五月十二日に湯谷団地住民有志三一人と三法人が県知事を相手に、損害賠償をもとめて提訴がおこなわれた。


写真66 地すべりで松寿荘が押しつぶされる(『真夏の大崩落』より)

 提訴から十年後の平成九年(一九九七)六月二十七日に長野地方裁判所から判決があった。その要旨は、「バードライン設置に瑕疵(かし)はなかったが、県は道路周辺の排水設備の不備や斜面の不安定化が明白になってからも、改善せずに放置した結果地すべりを引きおこした」として、その管理の落ち度を認定した。さらに、民間地質調査報告書からの地すべり予見可能性も認め、「地すべりは人災」との原告の訴えをほぼ全面的に認め、県に原告全員にたいし総額五億四〇〇万円余を支払うよう命じた(平成九年六月二十七日長野地方裁判所判決文)。

 災害後、各所に分散されていた松寿荘の入所者八五人は、六十年九月二十四日長野市篠ノ井の旧県消防学校を借用して急造された仮松寿荘に移り、翌六十一年四月には上水内郡牟礼村に新築された矢筒荘に、分散されていた松寿荘特別養護老人八六人が移った。そして、同年十月に長野市上野の旧結核療養所跡地に、本館と特別養護二棟(定員七〇人)、養護三棟(定員一〇〇人)からなる、防災対策に万全を期した鉄筋コンクリート平屋建ての新松寿荘が完成した。それにより、同月中に矢筒荘と仮松寿荘からのお年寄りが、この新松寿荘に入居することができた。

 いっぽう、松寿荘遺族の会は、補償問題、防災基金の設立、慰霊碑の建立などを関係当局に要請し、未解決の課題を残しながらも、平成三年七月二十六日松寿荘犠牲者六周年慰霊祭と慰霊碑除幕式をおこなった。松寿荘の遺族が起こした訴訟は、遺族の苦渋の決断により、平成十一年七月十六日に長野地方裁判所で和解が成立した。また、災害復旧のための恒久対策工事や施設の復旧工事は、昭和六十二年末までおこなわれた(『真夏の大崩落長野市地附山地すべり災害の記録』)。