台風と集中豪雨の被害

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昭和五十六年(一九八一)から五十八年にかけて、松代地域を中心に三年連続の台風による水害が発生した。昭和五十六年台風第一五号は八月二十二日から二十三日にかけて豪雨となり、松代地区内の降水量は一七四ミリメートルに達した。この結果、地区内を流れる蛭川・藤沢川・神田川が氾濫した。いっぽう、千曲川も二十二日の深夜から増水し、その危険に備えて二十三日午前一時五〇分から、消防団員一二一三人が出動した。

 藤沢川などの氾濫と上流山地からの出水により、松代温泉団地は、午前五時ごろから浸水に見舞われた。そこで、長野市は災害対策本部と松代現地対策本部を設置して、同団地に避難命令を発した。午前一〇時には、千曲川の水位の上昇による逆流を防ぐために蛭川水門を閉鎖した。そのため、蛭川・藤沢川・神田川・清野川など排水が不能になり、さらに、浸水地域は広がった。松代温泉団地の中心部でその水深は、最高一・五メートルにも達したので、長野市消防局や長野警察署はゴムボートで住民の救出にあたった。台風一五号によって、松代地区では三六三世帯、一二八四人が避難し、浸水家屋一〇二二戸、農地冠水二八九ヘクタールという被害を受けた。また、若穂地区でも保科川・赤野田川があふれて浸水被害をだした(長野市『長野市の災害と気象』)。

 昭和五十七年九月十一日夜半より台風第一八号の接近による降雨が強まり、一一時四〇分に大雨洪水警報がだされた。翌十二日午前六時の水防警報の発令により消防団員が出動し、つづいて災害対策本部が設置された。この時の降水量はきわめて多く、長野地方気象台十二日の降水量一一四ミリメートルは、観測を始めた明治二十二年(一八八九)以来の記録九九・五ミリメートルを更新していた。

 千曲川は各所で警戒水位を突破し、松代地区では千曲川からの逆流を防ぐため、十二日午前九時に支流蛭川の水門が閉められた。このため、蛭川・藤沢川・神田川・清野川は排水不能で、またたくまに松代温泉団地、象山口・海津・花の丸の各団地や西寺尾地籍へと浸水地域が拡大された。とくに、松代温泉団地では蛭川からの水の流入防止のため、土のう積みあげ作業を始めたが、十二日午後三時三〇分にいたると、蛭川の水位が団地より八五センチメートルも高くなり、午後三時四〇分ついに上のうは崩れおちて、濁流が団地に流れこんだ。水深は団地の中心部で一・八メートルにもおよんだ。そのため、松代温泉団地では、床上浸水が二七〇戸に達した。

 昭和五十八年九月、台風第一〇号の前線が活発になり、長野市域は二十七日早朝から雨になった。二十八日午後から長野市は一時間の最大雨量一五ミリメートルにも達する豪雨となった。その結果、松代地区を流れる蛭川の増水のため、神田川・藤沢川などの各河川にたいし、市は排水ポンプを配置し、清野川水門を閉鎖した。午後二時四〇分には、避難者用の寝具である布団や毛布が退避場所に配備され、松代団地住民は同五時三〇分にいたると、家財道具を二階に移動させたり、他の安全な場所へ搬出を始めた。つづいて午後六時三〇分と午後九時二〇分には神田川と蛭川の水門がそれぞれ閉鎖され、東寺尾・西寺尾・殿町などに避難準備命令がだされた。そして、松代温泉団地に避難命令がだされたのは、午後九時三〇分であった。また、翌二十九日午前〇時には浸水のために海津団地に緊急避難命令がだされ、同地の全住民が避難した。


写真67 蛭川が氾濫して松代温泉団地を襲う

 この時の豪雨によって千曲川の水位はあがり、立ヶ花観測所での測定によれば、二十八日午後三時には警戒水位を六・一三メートル上まわる最高一一・一三メートルに達した。これは五十七年台風第一八号の記録一〇・五四メートルをもこえる戦後の最高記録となった。松代地区での浸水地帯の排水作業といっせい消毒がおわり、災害対策本部が解散したのは十月三日であった。この水害のために、家屋・耕地・道路などの公共施設などにかなりの被害がもたらされた。とくに、被害の大きかったのは、松代地区であった。松代温泉団地をはじめとして各所で、五八八戸が床上浸水し、その他農林業関係・公共土木関係などにわたる三年連続の水害となった。

 この台風で、信更地区では通行中の乗用車が土砂崩れに巻きこまれ、女性一人が死亡、乳児一人が軽傷を負った。小田切・七二会地区など山間地では、土砂崩れによる一四棟の損壊家屋をだした。この水害による長芋などの野菜・果樹・水稲など、農作物の冠水の被害も大きかった。とくに、長芋は成育期に千曲川沿岸一帯の栽培地に冠水があったため、根ぐされなどの被害が大きかった。長野市の三年連続の水害による被害の状況は表32のようであった。


表32 3年連続の水害による被害