昭和四十~六十年代に長野市で発生したおもな火災は以下のようであるが、消防をはじめ防災の体制整備が必要となり、各市町村にとどまらず、より広域化による常備化体制による整備がすすめられることになった。
四十八年(一九七三)十二月三十一日、七瀬町の長野デニム工業から出火した火災は、二階建て工場一棟と内蔵されたデニム生地を全焼し、事務所一棟を半焼し、損害額は約六五〇〇万円であった。
五十一年二月十八日に県町の深堀被服工場から出火した火災は、従業員が作業終了後に裁断台をシンナーで清掃し、それが室内に充満したため引火したのが原因であった。その結果、爆発的に木造の二階建て(一部三階)の雑居建物に火がまわって炎上し、木造二階建て二九〇平方メートルを全焼、逃げおくれた従業員の二人が焼死した。損害額は約八八二〇万円であった。
五十二年二月二十三日、高田の市立三陽中学校校舎一階理科室付近から出火した火災は延焼拡大し、木造二階建て校舎の五教室を半焼した。原因は不明で損害額は約四五〇〇万円であった。
五十四年八月二十三日、元善町の善光寺大本願の膳所(ぜんどころ)から出火した火災は発見がおくれた。そのうえ、古い木造の大規模な建物が渡り廊下でつながれており、明治二十四年(一八九一)の大火以来、何回も増改築がおこなわれたために内部も複雑に入りくんでおり消火作業が困難であった。その結果、木造の表書院、裏書院など八三三平方メートルを焼失する大火となった。台所ガスコンロの輻射熱で後ろの壁内の柱が炭化し、低温着火により燃えあがったのが原因とされた(『信毎』)。テレビで善光寺火災のテロップが流れたため近隣の市町村から応援の申しでや、全国からの照会が多く市当局は対応に苦慮した。損害額は約九五〇〇万円であった。
五十八年四月十日、吉田町の藤沢製作所から出火した火災は漏電によるもので火のまわりが早く火勢も強く、大規模な木造倉庫一棟三三一平方メートルを全焼した。倉庫内にあった家具等の内容物も全焼したため、残火処理に時間を要した。損害額は約八五四一万円であった。
六十年(一九八五)三月一日の中御所の長野県生薬から出火した火災は、薬草の粉砕機から発生し、まわりの薬草に着火し、延焼したもので、木造平屋建ての倉庫を半焼した。山積みの薬草や粉末等が蒸(む)し焼(や)き状態となり、匂(にお)いと煙に悩まされての困難な消火活動であった。損害額約七〇三〇万円で、その内訳は内容物の薬草が大部分であった。
六十二年九月二十六日の篠ノ井御幣川、田毎メリヤス工場の第一工場半製品置場から失火した火災は、発見がおそく消防車が到着時には倉庫全体に火がまわっており、黒煙と火勢が強く輻射熱のため内部侵入も不能で、放水しても火勢を弱めることができず工場の一棟を全焼した。集荷した多量の衣料品が燃えくすぶったため消火活動は長時間におよんだ。損害額は約一億一二〇〇万円であった。
六十三年十一月三十日、旭町の信濃教育会出版部印刷鋳造室から出火した火災は、二階建ての作業棟を半焼した。この火災は鋳造室の排気ダクト内にたまった活版用インキから発火、印刷機械などが燃えたため、はげしく黒煙が上昇し、内容物の損害が大きくその額は約一億四五〇〇万円に達した。そのほかのおもな火災は表33のようであった。
防災体制の整備のうえで、この時期において特筆されることとしてはつぎの三点があげられる。
第一は、組織機構が改変整備されたことである。昭和四十七年四月、長野市消防本部を長野市消防局と改称し、長野市消防署を中央消防署に改め、篠ノ井消防署を南消防署とした。五十三年五月に安茂里小市に中央消防署安茂里分署、七二会地区に中央消防署西部分署をそれぞれ開設し、六十年には若槻東条地区に中央消防署北部分署を開設した。平成二年(一九九〇)二月には上信越自動車道の開通予定にともない、中央消防署松代分署を松代町西寺尾に新築移転し、三年四月には篠ノ井塩崎に南消防署塩崎分署を開設した。四年四月に、南消防署を篠ノ井消防署に、中央消防署松代分署を松代消防署にそれぞれ格上げし、中央消防署柳原分署を移転新築した。
平成年代にはいって防災体制のうえで大きな課題として登場したのが、周辺地区町村をふくむ広域消防常備化体制の確立をめぐる動きであった。上水内郡の豊野町・戸隠村・牟礼村・三水村・信濃町・鬼無里村・中条村・小川村・信州新町と更級郡の大岡村をふくむ更水町村会長ほかは、長野市長にたいして平成二年三月二日に広域消防常備化に関する陳情をした。その要旨は「更水地域の一〇ヵ町村の消防は消防団を主とした非常備体制であり、個々に常備化することは困難なので長野市の協力により広域的な消防の常備化をはかりたい」というものであった。その背景には、関係町村の消防団員の多くが、居住地をはなれて通勤するという社会状況の変化があった。そこで、同年四月二十四日、長野広域消防調査委員会が発足し鋭意その実現をはかり、平成七年度から長野市と更水一〇ヵ町村をふくむ広域常備消防組織が確立した。これにより更水一〇ヵ町村が、長野市へ消防業務を委託する広域消防組織が成立し、管下各消防署などのそれぞれ名称がかわり、広域消防体制がスタートした。これは、社会・経済構造の変化などにより、昼間の災害に出動可能な消防団員の減少、防火対象物の増加、救急業務の増加などが原因で、消防常備化の必要性が急務となったからであった。
第二は、消防業務推進のために必要な職員定数が業務の拡大にともない、表34のように確保されてきたことである。
第三は、施設設備、機械器具、車両などの整備に改善が施されてきたことである。その事例として救助業務にかかわる機械の導入状況を年次別に示すと表35のようであり、また、平成十三年度四月現在の広域各消防局・署等の消防用車両など配置状況は表36のようである。昭和五十七年に長野中央消防署に導入された四六メートルのはしご付消防自動車は、当時日本ではいちばん高い最新鋭のはしご車であった。購入価格は九六八〇万円で、はしごの操作状況やはしごの先端の接近距離をコンピューターでデジタル表示するなど、数々の特殊装置がついていた。これは、市内の建築物の高層化がすすみ、八階以上の高層ビルがふえたために導入したものである。これによって今まで以上にビル火災の消火活動や、一五階までの人命救助にも十分対応できることになった。
消防施設の中心になる一七ヵ所にのぼる各署などの消防庁舎の建設は、昭和五十六年五月竣工の鉄筋コンクリート四階建ての、建築面積八一四・五一平方メートルの長野市消防局・中央署の庁舎をふくめて平成九年十二月までにすべてが完了した。