小学校の新設・閉校問題

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昭和四十年(一九六五)ころ篠ノ井市(長野市大合併の前年)では、中学校の実質統合による通学区の編成がえにともない、小学校の再編計画が始まった。課題は通明小学校の過大化と西寺尾小学校の過小化の対策、川柳小学校の老朽校舎改築問題、信里小学校村山分校の廃止問題であった。

 通明小学校の過大化のいっぽうで、隣接する川柳小学校は、児童数が減少をつづけ、昭和二十六年度には一二学級児童数およそ四〇〇人あったのが、長野市との合併の四十一年度には七学級二四八人にまで減少した。松代群発地震がつづいていた四十二年六月、二階の家庭科室天井が落ち、校舎全体の老朽化が明らかになった。

 地元の改築要請にたいして長野市教育委員会(以下市教委)は、適正規模の学校なら新築計画をすすめられるが、川柳小学校の現状では、全面改築するには規模が小さすぎるという意向を示した。その後、隣接する塩崎小学校との統合も示唆され、双方の区長会で検討協議をし、一部の賛成は得られなかったものの、おおかたは異論がなく賛成の方向でまとまった。川柳小学校PTAの役員会でも、区長会と同様の結論であった。ところが、統合の具体的な協議になると、とくに、統合校の建設位置については、両通学区の意見はなかなか一致しなかった。その間にも、川柳小学校の校舎破損がすすんだことから、川柳地区からは、過密の通明小学校の一部との統合案がだされるにいたり、川柳小学校と塩崎小学校との統合案は、白紙にもどった。

 四十七年(一九七二)二月市教委は、川柳・塩崎・通明の三小学校の関係区長・PTA代表を集めて、過小校と過密化校を解消して教育効果を上げるため、川柳小学校と通明小学校西部地域の統合案を示した。これにたいしては、通明小学校通学区の強い反対論のいっぽう、川柳小学校通学区側は一部通学に遠くなる懸念を抱きながらも、受けいれの方向でまとまった。六月には市教委より、川柳小学校通学区全域と通明小学校通学区域のうち、信越線西側の昭和・五明・西組・宮前・瀬原田の五地区と、みこと川を通学区域とする統合小学校を、方田地区(字二ツ柳)の北善司坊地籍に建設したいとの具体案が示された。三四学級一三七八人の市内一の過大校であった通明小学校では、均衡のとれた教育環境をつくることをテーマに、市教委の参加をえて反対する地区への説得・了解工作をつづけた。話しあいは難航をつづけたが、両校関係者は新設校建設推進に当たった。新学校名はアンケートをもとに「篠ノ井西小学校」として、市教委へ答申し命名された。

 四十八年七月着工された篠ノ井西小学校の校舎建築工事は、オイルショックの影響をうけながらも厳冬期も続行し、四十九年三月には三階建の北校舎だけ完成した。四月一日玄関昇降口前において開校式をおこない、午後には入学式で一二七人の新入生を迎えた。これによって篠ノ井西小学校は一八学級六四八人、通明小学校は四五五人を西小学校に送りだして、二六学級九六〇人となった。その後、西小学校は工事中の南校舎・運動施設等が完成し、秋には予定された施設が整った。しかし、その後も児童数はふえつづけ一〇〇〇人をこえるようになり、増築がつづけられた。

 いっぽう、全校児童八〇人前後で複式学級をさけたいが、改築・改修に迫られている西寺尾小学校と東福寺小学校との統合も検討された。四十三年から四十五年にかけて、三〇〇戸余が分譲された犀南団地の児童数の増加を見こんで、市教委は一二学級程度の統合小学校の建設を考えていた。長野市合併後の地元では、東福寺小学校の児童数の増加がつづき、統合小学校の早期開校をもとめる運動がすすめられた。東福寺地区では、五万坪が公共用地に提供された後でもあり、用地買収は代替地・価格等で難航した。統合小学校の建設はオイルショックの影響でおくれ、五十年六月、田牧線の東側松木裏に着工し、五十一年三月第一期工事が竣工し、四月一日の開校に向けて引っこしがすすめられた。こうして一四学級児童数四三六人の「篠ノ井東小学校」が、東福寺一五三八番地に鉄筋コンクリート三階建て二棟で開校した。体育館ができていなかったため、昇降口で開校式をおこなったが、夏にはプール、十二月下旬には体育館が使用開始となった。犀南団地などの造成で、その後も毎年四〇~六〇人の児童数の増加があり、五十八年には一九学級七三六人となっている。その間、普通教室に転用した特別教室やプレハブ教室で急場をしのいだ。五十四年十月、北校舎九教室の増築が着工され、翌年三月末に完成し五月初旬から使用されている。なお、信里小学校村山分校の廃止問題は、六十年代へもちこしとなった。


写真70 昭和51年開校の篠ノ井東小学校

 若槻・古里地区では、昭和三十年代後半から団地の開発がすすみ、県下有数の新興住宅地となった。若槻小学校通学区では三十七年上野ケ丘の入居に始まり、つぎつぎに団地の造成・入居がつづき、三十七年度五一二人の児童数は四十二年には六一二人となった。四十四年には湯谷小学校開校にともなう一部児童の転出はあったが、四十七年一〇三八人、五十三年一四六一人と急激な増加がつづいた。

 児童数の安定していた古里小学校でも、四十二年に新町団地からの新入生が入って以来、年々五〇~一〇〇人の増加となり、教室不足、体育館・校庭のせまさが取りざたされるようになった。五十三年の卒業式には、会場の都合で一年生が参加できなくなり、翌年からは集会を二つに分けておこなわなければならなくなった。

 このようなことから市教委では、若槻・古里の二小学校を分割することにし、両地区の中間の徳間地籍に、新しく小学校を建設することになった。両地区の連携のもとに、開校に向けての諸問題が解決され、若槻地区の稲田・徳間・東徳間の四三〇人余、古里地区の信越線以西の西三才・駒沢団地・第二団地の新一年生をふくむ四五〇人余などを通学区とする、二二学級八六〇人の徳間小学校が五十六年四月に開校した。


写真71 昭和56年開校の徳間小学校

 信州大学教育学部附属長野中学校は、昭和三十二年の校舎改築以来、西長野の附属小学校に隣接して設置されていた。校地の狭さや教室不足のため、附属小学校・養護学校をふくめた附属学校園建設の長期的展望にたって、新たな校地を確保して校舎建築を目ざすことになった。移転のための組織を立ちあげ、検討が重ねられ、移転先を南堀(朝陽)地区とし、一万七〇〇〇坪(五万六一〇〇平方メートル)の用地を取得した。校舎等の施設整備がすすめられ、附属養護学校が五十五年三月、附属中学校は五十五年十二月に、附属小学校は平成九年四月にそれぞれ移転し、附属学校園としての文教施設のまとまりができあがった。