高校の新設と私立高校の変貌

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ベビーブームによる高校進学希望者の増加による受験競争の激化は、私立高校新設で当座をしのいできた。しかし、高校進学率は年々高まり、昭和四十年代の八〇パーセント台から五十二年(一九七七)には九六パーセントになった。その後も上がりつづけて、ほとんどの中学卒業生が高校へ進学するようになっていった。保護者のあいだには公立高校志向が強かったこともあり、進学校といわれる高校の競争率は高く、いわゆる中学浪人が後を絶たなかった。

 昭和四十九年度から導入されることになった、高校普通科の一二通学区制になっても、第三通学区に属する旧市内の競争率はあまり緩和されない見通しであった。危機感をいだいたPTAをはじめとする教育関係者の粘りづよい働きかけによって、四十九年四月に県立普通科の長野東高校が開校することになった。募集定員は三三五人であった。しかし、校舎は大豆島地区に建設中のため、入学式は信州大学工学部でおこない、中御所の長野県農業技術大学園跡の建物を、仮校舎としての開校であった。五十年三月には新校舎が完成して移転し、新たな出発をした。

 住宅地の市南部への進出にともない、犀南地区の高校進学率は九九パーセントと上昇した。一二通学区制では調整区となっていた犀南地区では、普通科へ進学する生徒の多くは、第三通学区の高校へ通っていた。しかし、交通渋滞や通勤時のラッシュも深刻化していることから、犀南地区への県立普通科の高校の新設が強くもとめられるようになった。そこで地区をあげて、県議会・県教育委員会など関係当局への働きかけがおこなわれた結果、高校新設の方向が示された。新設高校は長野南高校と名づけられ、昭和五十八年四月稲里町田牧の新校舎に、四六九人の入学生を迎えて開校した。


写真72 昭和58年開校の長野南高等学校

 いっぽう、こうした受験競争の緩和の動きのなかで、経済界の学歴重視社会からはみでないようにと、一流大学を目ざす受験学習一色の生徒もいた。そうした受験学習についていけない生徒や、高校受験の指導のなかで、心ならずも本来の希望高校とは異なった高校に進学した生徒のなかには、学習意欲を失い「落ちこぼれ」といわれるようになった生徒もでてきた。それらのなかには、非行・怠学(たいがく)・引きこもり・自殺などの行動にでる生徒もあらわれた。そのため、どの高校でも生徒指導は大きな課題となっており、その対応には力を入れていた。喫煙・飲酒・薬物依存・とばく・万引き・器物破壊・脅し・暴力などの触法行為やいじめも多くみられた。これにたいして多くの高校では、非行生徒への指導をつづけるとともに、内規をつくって「自宅謹慎・停学・退学」などの処分もするようになっていった。

 このような状況のなかで私立の高校では、県立高校増設による生徒数や学力の変動などの波を乗りこえ、安定した学校経営を目ざし、また、学校の存続をかけて、特色のある学校づくりにつとめている。その一つは、きめ細かい生徒指導や学力の向上であり、一つは、進学体制の整備であった。

 長野中央高校では、学生運動が高校生にまで広がってくるなかで、生徒たちの要求に耳を傾けながら、職員が結束して指導態勢をかため、髪形・服装の自由化の指導に当たった。そんな折、十分な事前指導と保護者への協力要請をしてあったのに、昭和四十九年(一九七四)の修学旅行の出発時に、きまりに違反した長ラン(裾が膝のあたりまである学生服)姿で長野駅にくる生徒がでた。学校では団体行動の規範を重視し、家にもどって着がえてくるように指導をした。しかし、言うことを聞かなかったため、学校では旅行に連れていかなかった。このことが「指導の行き過ぎでは」と、新聞などの報道で話題になった。世論は「規則を守ったものが損をすることが往々にしてあるが、きちんとすべきはきちんとしなくては」という、学校側の毅然(きぜん)とした対応を支持する声が多数であった。

 篠ノ井旭高校では、昭和五十年度の入学生徒がわずか五〇人となり、教職員解雇や廃校の瀬戸ぎわに立たされた。この状況のなかで教職員は、「本当に向学心に燃え、まじめな生活を希求する生徒ならば、過去を問わない」とする若林繁太校長の方針のもとに、多くの退学者に門戸を開放し、教職員と生徒が寝食を共にするなど、全職員が一丸となって「落ちこぼれのない教育」「一人ひとりを大切にする教育」「分かりやすい授業」を目指して取りくんだ。このことは、教職員と生徒の人間関係を、心の通いあう暖かいものにし、非行をなくすことを目ざすことにつながったという。この自信が「退学をさせない」を、基本方針として打ちだすことへと発展した。これらの実践の成果は多方面から認められ、NHKをはじめ多くの報道機関から全国的に紹介された。五十三年七月には読売教育賞を受賞し、やがて映画化されるなど一躍その名を全国に馳せた。

 これらはいずれも、職員の意志疎通がよくはかられて、協力しあえる態勢ができており、ふだんからの生徒指導の積み重ねが背景となっていた。

 また、私立高校では、保護者の進学志向に対応して、短期大学の設置により高校と大学との提携をはかり、進学を目ざす動きもみられた。長野清泉女学院高校や長野女子高校がその実例である。


写真73 長野清泉女学院高校

 長野中央高校では、同じキャンパス内に長野中央学園長野経済短期大学(経済科)が昭和四十二年(一九六七)に創立された。また、三十七年十一月から受けていた日本大学準付属高校の扱いは、五十八年三月で取りけすという通知を、日本大学からうけた。学校ではこれまでつづけてきた出席重視・五分前行動・自主学習・全校一斉清掃などに徹底して取りくむとともに、五十八年には夏期特別講座の開催、翌年には推薦入学制を取りいれて評価を高める努力をつづけた。その結果、六十一年四月からは準付属契約を再び締結でき、日本大学の許可を得て六十三年四月からは、学校名を長野日本大学高校とかえて現在にいたっている。

 長野文化学院では、保母養成(のち幼稚園教諭も養成)の長野保育専門学校の設置が認可され、昭和四十三年(一九六八)四月に開校している。特色ある私学にするため、五十八年度からは文化女子大学と提携を結び、文化女子大学付属長野高校と改称し、進学中心の女子普通高校となっている。

 そのほか各学校とも、生徒確保のため、体験入学・推薦入学・進路講話など、特色ある学校としてのPRと、学力向上に向けた努力がつづけられている。