昭和四十六年(一九七一)に策定された「長野市総合基本計画」には、自然動植物園建設の構想がもりこまれた。社会生活の安定と自由時間の増加にともなって、家族づれで野外で自然に親しむ施設がほしいという要望がふえてきたことにこたえたものであった。
市では、候補地の選定など準備をすすめるいっぽうで、同四十六年には長野営林局と共同で、大峰山・葛山・頼朝山などに遊歩道を設置し、四十八年には「市民ハイキングの日」を設定して、子どもづれ半日コースのイベントを実施して自然にしたしむ機会をつくったりした。
昭和五十二年の市制八十周年の記念行事の一つとして、「茶臼山自然動植物園」建設の構想が具体化した。茶臼山の東南部一帯(篠ノ井有旅・岡田地籍)は古くからの地すべり地域であるが、大規模な防止工事がすすめられ、同四十年ころには地すべりもしだいに安定しており、その利用法が問題になっていた。当初動植物園の候補地には、大峰山・地附山・中尾山・茶臼山などがあげられたが、広い面積の確保や交通の利便などの点で決めかねていた。検討の結果、市は茶臼山の地すべりによる荒廃地に植物園を、その隣接地へ動物園を建設し、あわせて一帯をレジャーランドとし、有効に利用しようという構想をたてた。面積は四六・四ヘクタールで、そのうち一三・四ヘクタールを動物園に、残りを植物園にすることにした。ここは標高五五〇メートルほどで眺望もよく、ほとんどがナラやクヌギの林であり、また、合併後の全市的位置からみれば中心にも近いとして決定した。このうち、地すべり地域は借地とし、その他は買収した。土地買収は一部で少し遅れたが、昭和五十二年の梅雨期には植物園での植えつけが始まった。初年度は、ツツジ・サツキあわせて三万本をはじめ、ライラック・山吹・レンギョウなど二四種類一万本を植えつけ、約二キロメートルの遊歩道も整備した。篠ノ井青年会議所では園内に古い電柱を利用した体力づくり用の冒険の森を建設した。心配された植えつけも雨に恵まれて無事にすんだ。
地すべり地域内の工事に関しては、砂防上つぎのようないくつかのきびしい制約があった。①地すべりの原因となるため、水は使わない、②水道は敷設しない、③コンクリートを基礎とする建物は、地すべりによって倒壊の危険があるので建てない、④高さ一メートル以上の木は植えない、⑤現在ある地すべり施設には支障がないようにする、などであった。
昭和五十二年七月二十七日、茶臼山自然植物園(第一次)は開園した。指定された条件を守るため、水道・売店・くずかごはいずれも設置せず、特別ルールとして、①ごみ・吸いがらは各自でもちかえる、②水汚染につながる行為(立ち小便など)はしない、③指定以外の道は通行しないの三項目を定め、「給水施設がないので、水筒を持参すると便利です」「ごみは各自で持ち帰りましよう」と『広報ながの』などで訴えた。
第二次工事は五十五年に実施されたが、たんなる植物園ではなく、人々に親しまれるものにするために、実物大の恐竜の模型をおいて利用者をひきつけようとするアイデアが採用された。長さ十数メートルにおよぶ巨大な恐竜模型をはじめ各種の恐竜の模型を設置して、恐竜の公園にしようという全国でも最初のこころみであった。技術上最大の難問は、砂防地帯であるため基礎工事にコンクリートを使えないことであったが、試行錯誤をくりかえしたすえ、H鋼を組みあわせて土台とする方法を案出して解決した。こうして実物大の恐竜の模型一五体を設置し、茶臼山自然植物園の「恐竜公園」として発足した。
開園式は昭和五十五年七月二十七日におこなわれ、長野・篠ノ井両駅からは直通バスも運行された。全国唯一の恐竜公園ということで前評判も高く、県外客も押しよせ大盛況であった。初年度の入場者は三一万人、翌年には四一万人をこえ、松代や川中島の観光客数をこえた。
また、この地すべり地域への植物園建設は、同年東京で開かれた国際土質基礎工学会でも「世界に例のない活用例」として注目をあびた。
水道・売店はもちろん、くずかごも置かないというルールにたいしては、当初は不便だとして苦情もよせられたが、しだいに環境保護の趣旨が理解されるようになり、子どもづれの利用者からは、金もかからず、自然と親しむにはよいという声も多くなった。翌五十六年度には恐竜模型を八体追加設置し、また、家族とのふれあいを深めるために、おとぎ話に登場する動物たちを遊具とした「オトギ広場」も設置した。地元商工会などの要望にそって、昭和五十七年には篠ノ井駅前に二体の恐竜の模型が置かれ、翌五十八年には、篠ノ井地域振興会が主催して第一回恐竜祭りを実施し、恐竜鳴き声コンクール、恐竜マーチの発表などをおこなって、地域の振興をはかった。
茶臼山動物園は、植物園につづいて昭和五十八年に開園した。地すべり地域に隣接しているが安定した場所が選ばれた。市には、すでに同三十六年、市営城山動物園が開園していた。これは同三十三年につくられた猿山を中心に、市制六〇周年の記念事業として開園したもので、長野博覧会の贈り物として、アシカ池、モノレール・人工衛星塔・メリーゴーランドなどの大型遊具も設置され、市街地にも近く家族づれ向きの無料の行楽地として親しまれていった。しかし、動物の種類が少ないため、もっと大きな本格的な動物園を望む声がたかまり、市制八〇周年の記念事業として建設が決まったのであった。
茶臼山動物園の建設の方針には、①コンクリートではなく、自然林を利用した緑豊かな動物園とする、②檻(おり)ではなく、堀などによる放し飼いを原則とする、③冬季でも観察できるように、観客専用の道路を設置する、④動物コーナーをつくり、子どもが動物たちと接する場とする、⑤家族でピクニックをたのしめる動物園とする、ことなどがあげられた。
総額二三億円、暖房施設があり、それまで県内ではみられなかったライオン・虎・キリンなどをはじめ、鳥獣四四種類、二四九点を収容し、北信越地方では最大の規模だといわれた。また、冬季用の観客専用道路はめずらしく、これによって寒冷地にありながら通年開園が可能になった。
動物園の管理運営は市の開発公社があたることとした。城山動物園は、当初は廃止して茶臼山動物園へ統合する計画だったが、無料のいこいの場として残してほしいという市民の要望にしたがって「茶臼山動物園城山分園」として存続した。
新しい動物園の初年度の入場者は一四万六〇〇〇余人、次年度は一六万八〇〇〇余人を数え、三年度以降もやや減少はしたが、その後はまた増加した。
動物園へ通じる唯一の県道は、村山・篠ノ井停車場線であったが、開園当初はせまいため大型バスの運行が認められず、市は対応におわれた。昭和六十年には、友好都市である中国石家庄市から締結五周年を記念して、レッサーパンダ一つがいがおくられて人気を博し、平成七年(一九九五)には、冬季オリンピック開催を契機として、オーストラリア政府からウォンバット(雌二、雄一)がおくられた。
昭和六十年九月二十三日、茶臼山自然史館が、市立博物館の分館として開館した。恐竜公園・植物園・動物園など茶臼山公園一帯の施設を、学術的に体系化するために設置されたもので、地球の誕生以来四六億年の動植物の進化の歴史を学ぶための資料が展示された。鉄筋コンクリート二階建て、入り口の導入展示につづき、古生代・中生代・新生代の化石資料、頸長竜の骨格模型、ナウマンゾウ・オオツノシカの化石も展示された。頸長竜の骨格模型は、北海道勇払郡穂別町出土の化石の模型で、同町立博物館の好意で作成されたもので、全国に三体あるうちの一つであった。
この自然史館の建設によって、茶臼山一帯の動物園・植物園施設はほぼととのった。