市立長野図書館・南部図書館などの開館

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昭和五十年代にはいると、市域には信濃教育博物館・市立南部図書館・県立長野図書館・県民文化会館など文化施設の開館があいつぎ、同六十年(一九八五)には市立長野図書館が新築開館した。いずれも情報化社会への対応や生涯教育充実などの要望によってうまれたものであった。

 昭和四年(一九二九)に開館した県立長野図書館の鉄筋コンクリート三階建て建物は、当時は全国的にもすぐれた建築として知られたが、昭和三十年(一九五五)ころから老朽化がすすみ、雨もりや外壁の剥落(はくらく)が目だつようになった。また、学習の場をもとめる利用者の急増によって閲覧室が手ぜまになり、資料の増加によって書庫の収容能力も限界に達していた。さらに、情報化時代を迎えて、マイクロリーダー・複写機・ビデオ・コンピューターなどの新しい視聴覚機器の導入によって、それらの設置・保管の場所を確保する必要にもせまられてきた。こうした状況のもとに、昭和四十二年、県図書館協議会は、県立図書館の早期全面改築を県議会に請願し採択された。

 しかし、改築にあたっては、まず、敷地の確保が問題となり、いっぽう、歴史研究団体を中心に文書館や総合情報センター設立の要望もだされ、図書館の機能やありかたについても論議をよんだ。最初は、文書館や情報センターも県立図書館に併設する方針ですすめられたが、五十年九月、文書館はまだそのあり方が社会的に定着しないので、当面図書館機能の一環として文書館の要素をふくませることとして、県立図書館の建設がすすめられることになった。こうして昭和五十一年には基本設計が完了した。

 敷地は、①長門町の旧所在地、②旭町の勤労者福祉会館の北側(現合同庁舎)、③若里の県農事試験場跡が候補地としてあげられたが、決定までには二転三転した。一時は経費の都合から旧地への再建説が有力だったが、最終的には旧農事試験場跡に建設される「創造の森」(若里公園)内に新築することに決定した。昭和五十二年十月起工式をあげ、同五十四年五月に完成した。


写真78 旧県立図書館跡に建てられた市立長野図書館

 建物面積八七〇〇平方メートル、書庫の収納冊数約八〇万冊で、いずれも旧館の約三倍であった。地下一階、地上三階、窓を大きくして自然光をとりいれ、全館冷暖房施設を完備し、書庫には万一の火災の場合水による破損を防ぐため、不燃性ガス方式を導入した。総工費約一六億円であった。閲覧席は約二倍になり、五万三〇〇〇冊をそろえて利用者の便をはかった。また、郷土資料室や親子読書室も開設した。八月六日の開館まえには館内を一般公開し、扇谷正造の記念講演会を開いた。

 長野市には、篠ノ井市との合併以前は市立図書館はなく、市の図書館機能はもっぱら県立長野図書館に依存していた。県庁所在地で市立図書館のない都市はめずらしいといわれ、市立図書館設立の要望は早くからだされていた。県立図書館の新築移転にともなって、市でも県立図書館とは別に、貸しだしなどを主とした市立図書館が必要だという声が高まった。昭和五十年、市立図書館設立の陳情は市議会に採択され、総合基本計画にもりこまれた。敷地については、ここでも難航したが、最終的には各方面から譲渡希望が出されていた旧県立図書館の跡地と決定し、市有地と交換された。

 新設の市立図書館は、昭和五十九年五月着工、翌年七月一日開館した。名称については、中央図書館や北部図書館の案もでたが、市立長野図書館と決定した。鉄筋コンクリート三階建て、一部吹き抜けで、自然光を取りいれた。利用しやすさをモットーにし、入り口も段差をなくし、屋外の読書コーナーも設け、また、視聴覚コーナーにはビデオデスク・ブースを設置した。貸しだし業務は県下でははじめてコンピューターを導入して能率化をはかり、南部図書館ともオンラインでむすんだ。利用時間も、利用者の便を考慮して午前一〇時から午後六時までとした。最初は、職員定員の関係で業務の委託も論議されたが、けっきょく、カバーやラベル張りなど一部の業務の委託にとどまった。開館後の利用率は好評で、初年度の貸しだし利用者は一日平均五八〇人であった。

 市立南部図書館は、明治四十年(一九〇七)創立の私立篠ノ井通明図書館が、大正十二年(一九二三)公立通明図書館となり、昭和四十一年(一九六六)長野市との合併によって長野市立通明図書館となったもので、同五十四年には御幣川の更級教育会館の跡地へ新築移転し、通明図書館を改称して南部図書館としたものであった。


写真79 篠ノ井の市立南部図書館

 市は昭和五十一年七月から移動図書館「いいづな」号の巡回を始めた。これに先だち、「いいづな」の名称は、市民から募集したところ一六八人からの応募があり、中学生三人の応募した「いいづな」に決まった。「いいづな」号は南部図書館(当時は通明図書館)を基地に、市内六コース・三〇ヵ所の駐車貸出所(サービスポイント)を、月二回巡回して市民により読書の機会を多くしてもらおうとするものであった。貸出用として図書約一万冊を購入し、車の中に本棚を取りつけて二〇〇〇冊を載せて、職員三人で巡回した。七月から三月までの九ヵ月間に、延べ二万八五〇〇人に利用され、約五万冊が貸しだされた。「図書館が遠くて行っていられないのでありかたい」「月二回の巡回が待ちどおしい」という声とともに、「自分たちの家の近くへも来てもらいたい」という要望も強くだされた。

 そこで市は、五十二年に二台めの「いいづな」号を購入し、約一万冊の図書を補充して六月から巡回を始めた。前年度の実績で利用者が、子どもを中心に家族全員で借りていくケースが多いことから、児童書を多く購入した。一号車・二号車が手わけして、コースを一〇コースにふやし、駐車貸出所も五一ヵ所にふやした。さらに、五十三年には三台めの「いいづな」号を購入し、駐車貸出所も七五ヵ所にふやした。同年十月には、延利用者一〇万九〇〇〇人・延利用冊数二〇万三〇〇〇冊になった。平成十四年(二〇〇二)現在の駐車貸出所は七八ヵ所になっている。


写真80 市の移動図書館いいづな3号

 また、週休二日制の普及にともなって要望の強かった日曜日の開館を採用した。この要望は早くからだされ職員数の不足のため実施がおくれていたが、南部図書館では昭和五十五年から実施しており、県立図書館も六十二年から実施した。

 こうして、市域には県立一つ・市立二つの図書館が開設された。これより先、昭和五十年に信濃教育会館が新築されると、それを記念して翌五十一年に信濃教育博物館が開館した。教育会館本館一階部分の一部をあてたもので、信濃教育会創立以来収集した教育参考資料約七万点を一般に公開した。教育の振興と文化の発展に資することを目標として開館したもので、五十八年十月、登録博物館として認可された。

 また、図書館とあわせて要望の強かった市民の芸術文化活動のための専用ホールの建設は、県民文化会館にまかせられた。県民文化会館は昭和五十八年、若里公園内に開館した。大(固定席二一八三)・中(同一〇七一)・小(展示室)の三つのホールがあって、それぞれ目的に応じて利用できるようにし、リハーサル室・談話室・食堂などもつくられた。また、照明は調光装置にコンピューターを使用するなど、全国で指おりの舞台装置や音響・照明装置が設備された。どん帳は小山敬三「紅浅間」、東山魁夷(かいい)「静映」がさげられた。総工費約八〇億円、市も取りつけ道路の設置や周辺の整備などに協力した。

 演出家の浅利慶太は、「多目的の名で、無目的の施設が多いなかで、目的が明確である。舞台と客席が一体感があり、楽屋の廊下は普通施設の二倍とるなど、観客や出演者に細かい配慮がなされている」と評した。四月一日から一般公開され、開館記念行事には、ウィーン少年合唱団をはじめ各種の音楽会・演劇・展示会が開催された。開館後の運営は文化振興事業団へ移管された。開館前年の昭和五十七年には、世界三大ホールの一つであるオーストリアのウィーン楽友会館と姉妹提携をした。

 なお、平成元年(一九八九)には、収容人員三二八人の大ホールをもつ松代文化ホールが開館し、平成十年にはオリンピック会場となったビッグハットの北がわに、多目的ホールとして若里市民文化ホールが開館した。