真田宝物館の開館と文化財

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昭和二十五年(一九五〇)法隆寺金堂壁画の焼失を契機として成立した文化財保護法によって、葛山落合神社本殿や保科清水寺の鉄鍬形など、従来の国宝はすべて重要文化財(重文)となり、国宝は改めて指定しなおされることになった。同二十八年、市域でははじめて善光寺本堂が国宝に、旧文武学校が国史跡に指定された。市では同年善光寺周辺を喫煙・焚火の禁止地区に指定し、松代町でも三十五年文武学校にドレンチャー(水幕防火施設)を設備した。


写真81 重要文化財の葛山落合神社本殿

 また、二十九年の法改正によって、新たに無形文化財の指定制度が創設されると、善光寺正月行事堂童子(どうどうじ)が、四十四年には八橋流箏曲(そうきょく)(保持者真田志ん)が国の無形民俗文化財に選択された。いっぽう、県文化財保護条例は二十七年に制定され、三十四年に第一回の県宝を指定した。市域では安茂里正覚院の伝観音菩薩立像が指定された。

 四十年、松代群発地震がはげしくなると、西条清水寺(せいすいじ)の重文三体などは安全確保のために国立博物館へ避難し、建築物には補強工事がなされた。

 四十一年の市町村合併にともなって、旧各市町村での文化財指定はすべて解除され、同年市は「長野市文化財保護条例」を制定し、翌年十一月新たに第一回の指定をした。彫刻九、絵画一、工芸三、考古資料五、建造物三、民俗資料三、史跡一〇、無形文化財一、天然記念物一四、合計四九件であった。このうち、中越(なかごえ)の「中越庚申(こうしん)講人別帳および用具一式」は、とくに元禄(げんろく)六年(一六九三)から今日までの庚申講の実施記録だけでなく国内の重大事件が記録されていて、全国唯一の現存のものとして貴重とされている。また、無形文化財として八橋流箏曲の伝承者である松代町の真田志ん(八四歳)が指定された。この八橋流は創始者八橋検校(けんぎょう)が完成した流派を江戸末期に松代藩主真田幸貫が藩士に命じて譜本をつくらせ、伝承させていたもので、志んは正流八橋流の全国ただ一人の伝承者とされていた。このほか、若穂清水寺の仁王門・三重塔・大日堂跡、駒沢祭祀遺跡、松代矢沢家の表門、善光寺の正月行事用具などがふくまれていた(『信毎』)。


写真82 演奏する八橋流人間国宝、真田志ん

 戦中・戦後の混乱期をへて文化財保護の手がおよばず、昭和三十二年の市の調査では、天然記念物で姿を消したものもあり、石造物が紛失したり、建造物の一部が売りにだされるような状況もみられたが、四十年前後から文化財保護の風潮はしだいに高まりをみせ、四十六年には信濃美術館で「郷土の文化財」展がひらかれ、『長野市の文化財』も発刊された。

 真田宝物館は、松代藩主真田家に伝来した資料を保管展示する施設として、昭和四十四年に開館した。資料は、四十一年に、真田家の当主真田幸治が土地とともに松代町へ寄贈し、同年十月の合併によってそのまま長野市へ引きつがれたものであった。真田家歴代の甲胄・刀剣などの武具や什器、文献および絵図・書画・美術品など約二万五〇〇〇点で、なかには重要文化財の大太刀(青江)や、県宝真田家文書などもふくまれていた。真田家からは寄付条件として、①公開施設を建設して学術・文化に貢献する、②松代にゆかりの物なので松代地区に設置する、③管理委員会を設置して維持管理すること、などがあげられていた。開設した真田宝物館は、旧松代高校の校舎の一部を改築したもので、展示スペースがせまいうえに、外気の遮断設備や加除湿などの空調設備もないなど、資料の保存上不備な点が多かった。


写真83 昭和44年開館の真田宝物館

 いっぽう、城下町松代には多くの史跡や文化財がありながら、戦後の混乱期や松代群発地震を経て荒廃するものもあり、武家屋敷などは改築や移転のために急激に姿を消し、文書類も廃棄されたり散逸するものが多かった。こうした状況に対処するため、昭和四十七年には、有志による松代史跡文化財保護開発協会(会長中村兼治郎)が、市にたいして、①文化財保護活動を補助する文化財保護条例の制定、②旧松代藩の文化財を維持管理するための松代への管理事務所の設置、③史跡めぐり遊歩道の設置を陳情した(『信毎』)。さらに、五十年には松代史跡文化財開発委員会(会長矢沢頼忠)が発足し、①真田宝物館の新築、②真田信之・信弘の霊屋(たまや)修復、③佐久間象山関係建物の復元、保存、④松代城跡と周辺の整備、⑤武家屋敷の保存を目的にかかげ、それらを五ヵ年間で実現しようとする計画をたてて活動を開始した。

 こうした要望にこたえて、市は昭和五十年、まず、観光客のために「松代史跡めぐり遊歩道」を設定した。総距離三・九キロメートルで、松代町内一二の史跡を結んだコースで、二〇ヵ所に案内標示板をたてた。

 昭和五十二年十月には新しい真田宝物館が開館した。旧館の北側へ、鉄筋コンクリート一階、一部二階建ての新館を建設したものであった。これによって外気との遮断が確実にできるようになり、展示スペースも従来の二倍になり、車いす用のスロープも設置された。総工費は約一億七〇〇〇万円であった。新館の建設によって、一〇万人を割っていた入館者数は、五十一年度には一〇万人をこえ、五十四年には二〇万人をこえた。

 昭和六十三年には収蔵庫が完成し、それまで真田邸の土蔵に保管されていた約一万七〇〇〇点の資料を移した。壁は二重構造で、あいだに二〇センチメートルほどの空気の層があって、外気を遮断した。また、万一火災の場合には、放水による破損を防ぐため、ハロゲンガスによる消火方式を採用した。

 真田宝物館は、当初観光課の所管であったが、のちには教育委員会の松代藩文化施設管理事務所へ移管された。管理事務所は真田宝物館のなかにおかれ、同館のほか真田邸・文武学校・象山記念館・横田家住宅などを管理した。

 真田宝物館の新築とあわせて、松代を中心に文化財の指定や修復が相ついで実施された。昭和四十六年以降、真田信重霊屋・真田信之霊屋・横田家住宅が重要文化財に、「松代城、付真田邸」が国史跡に指定され、このうち信之霊屋・横田邸・文武学校などがあいついで修復された。


写真84 真田邸(新御殿跡)

 松代藩文武学校は、廃藩以降松代小学校などに利用されてきたが、大部分の建物はもとの位置に原型を残していた。昭和四十八年から、五期におよぶ修復工事が、開設当初の図面によっておこなわれ、五十三年には工事が完成した。記念行事として「日本の藩校展」、八橋流箏曲の演奏会などがおこなわれた。移転されていた槍術所と的場も復元され、追加指定された。

 長国寺にある初代真田藩主真田信之の霊屋(宝殿・表門)は、「現存例の少ない地方藩主の御霊屋として貴重である」として、昭和五十一年重要文化財に指定された。万治(まんじ)三年(一六六〇)の建立で、桃山風の豪華な装飾で知られたが、老朽化がはげしく、松代地震のころから雨漏りや傾きがみられていた。三十九年、県中学校長会のおり荒廃を惜しむ声があり、保存修理の要望を県教委へ出したのがきっかけで、四十年には文化財指定期成同盟会が発足して運動をつづけていた。五十五年一月から修復工事が始められた。表門は全面解体修理で、宝殿は半解体修復工事であった。霊屋は全体を釣りあげて地面へ防水地中壁を設置し、柱などの腐食した部分は新しい部材をついだ。外回りの漆は下地から上塗りまで塗りなおし、彩色も新たにし、屋根は原型のこけら葺きに復元した。工事は翌五十五年に完成した。基本設計では総額一億一三〇〇万円で、国庫補助八五パーセント、県費七・五パーセント、残りが市および長国寺の負担であった。信之の霊屋についで並んでいる県宝四代藩主真田信弘の霊屋および表門も、五十七年に解体修理が終了した。

 旧横田邸は、禄高一五〇石の松代藩中級藩士の屋敷である。間取り・規模などが松代藩中級武士屋敷の典型的な建築であり、建物や屋敷がほぼ完全に残っている点が貴重だとされた。この屋敷は大審院長横田秀雄・鉄道大臣小松謙次郎・『富岡日記』の和田英などを生んだ歴史的にも由緒ある建物である。子孫の横田正俊から市へ昭和五十九年に寄付され、主屋・隠居所・表門・土蔵(二棟)の五棟が、昭和六十一年重要文化財に指定された。昭和六十四年から三ヵ年をかけて解体修理がおこなわれた。

 いっぽう、篠ノ井地区では、昭和五十二年に「川柳将軍塚・姫塚古墳」が国史跡に指定された。川柳将軍塚は湯ノ入山頂にある全長九三メートルの前方後円墳で、信濃最大級古墳の一つとして知られ、姫塚は同じ尾根上にある未発掘の前方後円墳である。将軍塚は寛政(かんせい)十二年(一八〇〇)、地元民によって発掘され、鏡二七面・玉杖頭(ぎょくじょうず)・銅鏃(どうぞく)をふくむ多くの玉類・石製品などを出土した。それらは当時領主の松代藩へ提出されたが、廃藩のとき石川村へ返還され、上石川の布制神社の社宝とされてきた。このうち、鏡六面をふくむ六七二点が、「伝川柳将軍塚出土品」として、昭和四十八年、県宝に指定された。


写真85 川柳将軍塚古墳の上部

 川柳将軍塚は、大正末年に創立された川柳将軍塚保存会が中心となって保存活動がおこなわれてきた。同会は、昭和四年(一九二九)には、森本六爾を招いて『川柳将軍塚の研究』を刊行するほどの活発な活動をした。戦後も昭和三十五年県宝に指定されると、開発から守るため将軍塚をふくむ一帯の土地の買収を計画し、湯ノ入神社の所有地とした。昭和四十八年、国史跡に指定されたのちも、保存会では「観光地としてではなく、歴史を学びながら散策できる史跡公園」としての整備をめざした。その結果、昭和五十六年、市教育委員会が選定した市内の史跡めぐり八コースの一つにとりあげられ、あずまやを設置し、遊歩道を整備した。一帯は郷土環境保全地域にも指定された。

 昭和五十年の文化財保護法の改正にともなって、翌年市も条例を改正し、①総則に「所有者の尊重と公益の調整」を明記し、②文化財の現状変更の届出制を許可制にし、③無形文化財の指定は保持者だけだったのを団体でも指定できることとした。五十二年には「文化財保護事業補助金交付要綱」を改正して、国指定文化財には一五パーセント以内、県指定には二〇パーセント、市指定には五〇パーセント以内の補助をできることとした。

 同年、市は石造物調査に着手した。郷土を知る会に委嘱して悉皆(しっかい)調査を実施し、五十八年までに『長野市の石造文化財』五冊を刊行した。

 六十二年には、「土地に埋蔵されている文化財を保護し、調査し、および研究するために」埋蔵文化財センターを小島田の八幡原史跡公園内に設置した。高速自動車道や新幹線・オリンピック施設などの新設にともなう発掘調査の増加に対処するためであった。

 松代大本営地下壕については、史跡指定を要望する声も出されたが、平成二年の審議委員会では、年代が新しくて史跡には該当しないとされ、同五年には、評価が分かれているなどとして指定が見おくられた。

 平成九年の法改正によって登録文化財制度が創設されると、藤屋旅館(大門町)・小林家住宅(稲里町田牧)が、ついで利久堂酒井家(川合新田)が登録された。また、五つの支群からなる大室古墳群のうち大室谷支群が国史跡に指定され、整備がすすめられた。