まつりと観光

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市内には歴史のある善光寺とその門前町、戦国時代に甲越両軍が激戦をくりひろげた川中島古戦場、江戸時代に真田十万石の城下町であった松代、信仰の山から国立公園として市民の憩いの場となっている飯縄山・飯綱高原などが、県内外からの観光客を多くひきつけている。ここでくりひろげられるまつりは魅力のひとつになっており、さらに篠ノ井・若穂などのまちづくり・まちおこしの住民の動きも加わって、市域のおもなまつり・イベントは表37のようになっている。長野冬季オリンピツク・パラリンピックにより、国内ではもちろん国際的にも世界の「ながの」として知名度が飛躍的に上がった。長野新幹線(北陸新幹線)・長野自動車道(上信越自動車道)の開通とあいまって、歴史的に特色ある文化や豊かな自然を生かしての観光、観光客へのもてなしの心あふれる迎え方やまちづくりがもとめられている。表中の長野びんずるなどは別項でのべているので、ここでは夏・秋のいくつかのまつりをとりあげる。


表37 市内の主なまつり・イベントの開催日程(平成14年)

 松代の「真田まつり」は、昭和三十六年(一九六一)松代開府四〇〇年祭として、十一月中五日間にわたって開かれた際、十二日に松代十万石大名行列を実施したのをきっかけに、真田まつりとして翌三十七年から始まった。それ以前には、昭和三十一年からえびす講の催しとして、毎年十一月上旬に十万石大名行列・民謡ながし・大門踊り・花火大会などをしていた。年によっては、赤穂義士討ち入り行列や白虎隊行列を催すこともあったが、三十六年以降はすべて真田氏関係の行列となっている。これについて、真田まつりの第一回を『松代町史』は三十七年を第一回とし、松代商工会議所は三十一年を第一回として数えている。

 松代開府四〇〇年祭の行列は、初代藩主真田伊豆之守信之が、元和(げんな)八年(一六二二)十月に上田から松代へ入府した時の行列を第一部とし、信之夫人小松の方(小松姫)の上州沼田城における城守りの古事にちなんだ女武装行列を二部とし、第十代信濃之守幸民が慶応(けいおう)二年(一八六六)四月に京都警護に上るときの行列を三部とした盛大なものであった。行列参加者は、商工会議所議員・商工業者代表・松代連合青年団員などを中心に一八〇人ほどで、行列の槍振りは豊栄青年団員が担当して妙技を見せた。このときは、川中島合戦戦没者の慰霊法要をおこない、松代劇場で演劇祭を催し、真田家重宝展を開いた。さらに古式ゆたかな大門踊りや諏訪太鼓も好評で、松井須磨子四三年祭としての須磨子会のカチューシャおどりも人気を集めた。松代開府四〇〇年祭がのちの真田まつりの母体となっている。

 まつりの時期は、最初十一月十日前後におこなわれていたが、平成元年(一九八九)から九月下旬に移され、さらに十一年からは天候の安定する十月十日前後に実施されてきている。まつりの中心である行列の内容は、その年々で松代商工会議所と町(四十一年から市)で表38のように工夫をこらしてきている。昭和三十八年の真田まつりは、真田幸村が高野山から大坂入城をする際の真田武士行列を再現したものであった。真田大助を先頭に真田十勇士がつづき、よろい姿の真田武士数十人が隊伍を整えて、真田節を踊りながら行進するというものであった。この時には、祝(ほうり)神社境内で北信詩吟剣舞大会・民謡舞踊大会が開かれ、大門踊りが演じられた。このほか、美術展・書道展・北信菊花展・華道展・茶道展・時代風俗展の展示があり、謡曲仕舞大会・俳句会が開かれ、夜は花火大会が催された。


写真86 真田まつりでのやっこの行列


表38「真田まつり」の行列内容

 平成十三年の真田まつりは、真田信之役には真田家一四代当主真田幸俊・小松姫役には初参加の幸俊夫人の真田綾子がふんした。秋晴れのなか、総勢四〇〇人ほどの真田十万石行列は、県内外からたくさんの観光客(商工会議所調べ約五万人)の視線をあびて町内を練りあるいた。この行列には、島村抱月誕生地の島根県金城町・相馬御風(そうまぎょふう)誕生地の新潟県糸魚川市、中山晋平誕生地の中野市の友情参加があった。催し物としては、保育園児の鼓笛隊演奏・松代中学校のマーチングパレード、町内小学校六年生と婦人会の真田節民謡ながしがおこなわれ、一般公募の新郎新婦が人力車に乗ってのお披露目行列が町内をパレードした。真田公園内では、善光寺木遣(きや)りや真田勝鬨(かちどき)太鼓武者演奏・子ども勝鬨太鼓、大門踊り・剣詩舞・松代高校の吹奏楽演奏などがあり、華道展・茶会・松代焼実演販売・特産物販売・病院祭・魚つかみどり大会・市や新コンクールなど、多彩な催しがあった。

 「飯綱火まつり」は昭和四十三年(一九六八)にスタートし、八月十日ごろに飯綱高原大座法師池を中心にして開かれている。東広場には露店が並び、飯綱高原観光協会のオリジナルの食品が人気を集める。夕闇せまるころ、行者が飯縄山頂で点火した火による、柴燈護摩(さいとうごま)の神事を飯縄神社でしたあと、大座法師池の周りの数百本のたいまつに護摩の炎を点火する。キャンプにきている若者達や家族づれ、自家用車で上がってきた市民ら多数の人びとが見つめるなかで、池のなかに浮かぶいかだにも、船で渡った白装束の行者がかがり火をたくと、水面に明るく映えて揺れ、まつりの雰囲気を高める。池の西側湖畔の水面上に特設された舞台では、飯縄の神の踊りが奉納され、地元の芋井甚句が披露された。市内からも大豆島甚句などが特別応援で参加し、民謡のほか、シンセサイザーの演奏があったりして、飯綱火まつりをもりあげている。このあとの花火で、音と光と水の祭典は最高潮にたっする。

 長野市は、市街地から三〇分ほどでいける飯綱高原(上信越高原国立公園内)の観光施策について、昭和五十九年に「第一次長野市飯綱高原観光振興基本計画」を策定して推進してきており、平成十三年には、一〇ヵ年を計画機関とする「第二次長野市飯綱高原観光振興基本計画」を策定した。これは、①長期滞在型リゾートサービスの提供、②日帰り型リゾートサービスの提供、③通年観光ゾーンの形成の三つの柱を立て、大座法師池や大谷地(おおやち)湿原・一の鳥居苑地(えんち)・飯縄山(登山)などの豊かな自然とキャンプ場・遊歩道・スキー場・多目的グラウンド・テニスコート・ゴルフ場などのスポーツ関連施設、宿泊施設など高原リゾート地としての特徴を十分に生かしていこうとするものである。立地条件の有利さを生かし、観光地としての飯綱高原をアピールし、時代のニーズに対応するとともに、乱開発を防ぎつつ自然環境の保全がもとめられている。

 権堂の「七夕まつり」は、戦後まもない昭和二十三年(一九四八)八月六、七日に、権堂商工振興会が割り引き大売出しとして色紙で街を飾り、月遅れの七夕まつりとして七夕ダンスパーティや秋葉神社境内での盆踊りなどを企画したことに始まる。その後、権堂七夕まつりとして、特色ある飾り付けによって年ごとに盛大となり、人気をよぶようになってきた。長野びんずるが始まってからは、びんずるまつりの一環となり、各商店がその年の出来事や流行・風潮などの世相を反映させたテーマを、工夫して七夕飾りに生かして制作してきており、長野の夏の風物詩の一つになっている。


写真87 権堂通りの七夕飾り

 篠ノ井では昭和四十六年から、七月に「合戦まつり」として、びんずる踊りや大獅子の舞を楽しんでいる。祇園祭とセットで、昼は子どもみこしが練りあるき、夜は地区・企業・学校などからいくつもの連が出て、篠ノ井駅前通りを踊る。さらに、地元の内堀・芝沢両区の勢い獅子による舞の共演があり、二頭の大獅子がはげしくぶつかりあう場面もあり、見守る観衆から拍手喝采をうけてまつりを盛りあげる

 若穂でも昭和四十六年から、七月に「若穂ふれあいまつり(若穂ふれあいおどり)」をおこなってきている。長野市民祭の一環として、綿内・川田・保科の連帯と地域の活性化を強めようという願いをもって始めたまつりである。若穂支所付近や綿内駅前通りなどを歩行者天国にして、それぞれの連が独自の踊りを披露する。幼稚園の鼓笛隊や地区育成会のたるみこしも出て盛りあげ、露店や金魚すくいもにぎわいをよんでいる。九月末には「若穂ふれあいフェアー」も開かれ、ここでも住民は多彩な催しをたのしんでいる。

 なお、保科の高井穂神社の天富貴(あまぶき)踊りは記録保存の選択無形文化財に、桐原の桐原牧神社のわら駒づくりは市選定保存技術として認定された。天富貴踊りは江戸時代中期から伝わる雨ごいと子孫繁栄を祈る行事で、男の幼児一二人が神楽のはやしと歌に合わせておとなの介添(かいぞ)えで舞うもので、古い形態を残している。わら駒づくりは江戸時代後期から伝わる、生産と繁栄を祈願する神事である。以前は各家で作っていたが、今では作れる人は十数人となっている。

 更北商工会が中心となって実行委員会と更北地域振興協議会が主催して、平成六年から八幡原古戦場で「古戦場フェスティバル大花火大会」を開いている。秋の彼岸にあわせ、川中島合戦で戦死した人たちの霊を追悼するとともに、更北地域の活性化とふれあいを柱にして、小学生児童の舞踊「霧の川中島」のほか民謡・舞踊(古戦場音頭)・歌謡ショウ・和太鼓・オカリナなどの音楽を楽しみ、おやきやとうもろこしの早食い競争・ビールやジュースの早飲み競争をしたり、夜店も出て、一発ごとの花火に提供者のメッセージが添えられて大会を盛りあげている。


写真88 古戦場秋のフェスティバル

 新しいイベントとしては、平成十年六月に第一回開催の「ながの歳時記道市匠座」の「大道芸大会」がある。中央通り活性化連絡協議会が歩行者天国のイベントとして、中国の雑技団やアメリカの手品師など国内外の一五組の芸人を招いて、中央通り八ヵ所で大道芸を披露してもらった。それぞれ、サーカス芸・アクロバットショウ・パフォーマンス・コメディマジックなど、得意の芸を演じて人気を集めた。街頭コンサート・フリーマーケット・野菜市・花市などがあり、地元商店は特価品や目玉商品を販売する「ながの歳時記門前市」を開いて売りあげアップをはかったので、中央通りはたいへんなにぎわいであった。翌十一年には、芸人(プロパフォーマー)二一組が参加して、一〇ヵ所に分かれて巧みな話術を用いて演技し、集まった観衆を喜ばせた。この年には、セントラルスクウェアで市民劇団や大学演劇部のステージ発表もあって、多彩な催しとなった。十二年・十三年には三〇組の芸人が、歩行者天国一四ヵ所で得意芸を披露し、真田勝鬨太鼓や裾花彩鳥太鼓が祭り気分を盛りあげた。

 このほか、四月末から五月初めの連休中には、市仏教会が釈迦の誕生日を祝いこどもの健やかな成長を願って「花まつり」をおこなう。衣装をまとった稚児二〇〇人が、西後町の本願寺長野別院から善光寺山門まで、親と一緒に行列をつくって歩く。同じ時期に平成十二年から、「長野山と花フェスタ」が、北長池のエムウェーブで開かれるようになった。美しく豊かな自然との共存をテーマに、高山植物や山野草を会場いっぱいに、自然に近い形で展示する。これに合わせて、中央通り商店街でつくる中央通り活性化連絡協議会が「まちなか花フェスタ」実行委員会を発足させた。歩道に花を植えたプランターや寄せ植えのたるを置き、街を花いっぱいにした。十四年の中央通り大門町の路上(幅八メートル・長さ一三五メートル)いっぱいの花びらの絵「インフィオラータ・イン・NAGANO」を中心に、「街を花いっぱいに」の運動は盛りあがり、長野駅広場まで花でいっぱいとなった。その後、中央通り商店街の歩道上には四季をとおして、花がたやされないようになった。

 市内のまつり・イベントの各年の終わりを飾るのは、えびす講煙火大会である。戦後まもない昭和二十三年(一九四八)に、長野商工会議所再建とともにえびす講花火打ち上げを復活した。えびす講とともに長野商工祭を催し、全市で宝さがし・仮装行列・福引き大売出しをおこない、夜は夜空に煙火の花を咲かせ、平和と商工復活を印象づけたものであった。また、二十五年には祇園祭が復活し、屋台が市中を練りあるき、権堂町のあばれ獅子も登場した。えびす講煙火大会と祝売りは、長野商工会議所と長野商店連合会の共催で経済の好不況の波のなかでも絶やすことなく継続してきている。煙火の打ち上げ場所は、戸隠飯綱バードライン入り口から、昭和四十八年(一九七三)に丹波島橋近くの犀川河川敷に移った。平成にはいると、県内外からの観光客のため、会場周辺地図や宿泊情報を流し、鐘紡長野工場跡地に駐車場を確保したりした。十年代には、酒・弁当・土産(みやげ)のつく有料個人観覧席や団体向け特別観覧テントも用意している。さらに米寿(八八歳)のお年寄りは、特別席へ招待している。平成十四年の第九七回長野えびす講煙火大会には、約一二万人の観客が約四〇〇〇発の花火を楽しんだ。